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カール・マルクス 著『資本論 』第二巻 第三篇 第二十章~第二十一章 読書メモ

カール・マルクス 著『資本論 』読書メモ(1)~(172)をすでに投稿済ですが、第二巻 第三篇 第二十章~第二十一章に目次をつけたものを再掲載します。


第二巻 資本の流通過程

第三篇 社会的総資本の再生産と流通

第二十章 単純再生産

第一節 問題の提起

社会 が 一 年間 に 供給 する 商品生産 物 を考察するならば、社会的資本の再生産過程はいかに進行するか、いかなる性格がこの再生産過程をから区別するか、また、いかなる性格が両者に共通であるか、が示されるに違いない。

年生産物は、社会的生産物のうちの資本を補填する諸部分を、含むとともに、消費原本に帰属して、労働者と資本家によって消費される諸部分を含み、したがって、生産的消費とともに個人的消費を含む。

それは同様に資本家階級と労働者階級との再生産(すなわち維持)を包含するとともに、したがってまた、総生産過程の資本主義的性格の再生産を包含している。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.1211). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

直接 に 眼前 に ある 問題 は、 生産 において 消費 さ れる 資本 が、 いかに し て その 価値 を 年 生産 物 から 補 塡 さ れるか、またこの補填の運動が、資本家による剰余価値の消費と労働者による労働賃金の消費と、いかに絡み合うかである。

したがって、まず問題とされるのは、単純な規模における再生産である。さらに、生産物がその価値どおりに交換されるということのほかに、生産資本の諸構成部分における価値革命が起こらない、ということも想定される。

あれこれ の 価格 が あれこれ の 価値 に 一致 し ない と いう だけでは、 この 事情 は、 社会的 資本 の 運動 に 影響 を 及ぼし うる もの では ない。

依然として 全体として は、 同量 の 生産 物 が 交換 さ れる、 もっとも 個々 の 資本家 が、 この 生産 物 の 分け前 に あずかる 価値 比率 は、 もはや 彼ら 各自 の 前貸し と、 各自 が 個別 に 生産した剰余価値量とには比例しないであろうが。

また、 価値 革命 について 言え ば、 それ が 一般的 に、 均等 に 分散 さ れ て いる かぎり、 年々 の 総 生産 物 の 価値構成部分間の比率に、変化を生ぜしめるものではない。

これ に 反し て、 価値 革命 が 部分的 に、 不 均等 に 分散 さ れ て いる かぎり、 それ は 攪乱 を 表わす もの であっ て、 この 攪乱 は、 第一 に、 それ が 元 の まま の 価値 比率 からの 偏倚 として 見 られる かぎり において のみ、 攪乱 として 理解 さ れ うる。

しかし、第二に、それによって年生産物の価値の一部は不変資本を補填し、他の一部は可変資本を補填することになる、という法則が論証されるならば、不変資本なり、可変資本なりの 価値 における 革命 が 生じ ても、 それ によって この 法則 に 変化 の 生ずる こと は ない で あろ う。

それは、不変資本の、いずれかの資格において機能 する 価値 部分 の 相対的 大 い さを 変える だけで あろ う、 という のは、 元 の 価値 に 代わっ て、 他 の 価値 が 現われる こと に なる で あろ う から。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.1249). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.    

社会的 総資本 と その 生産 物 価値 との 考察 に際して は、 この 単に 形式的 な 説明 の 仕方 では、 もはや 充分 で ない。

生産 物 価値 の 一部 が 資本 に 再転 化 さ れ、 他 の 一部 が 資本家階級 と 労働者階級 の 個人的 消費に入ることは、総資本が結果した生産物価値そのものの内部における運動を形成する。

そしてこの運動は、価値補填であるだけではなく、素材補填でもあり、したがって、社会的生産物の価値構成部分の相互比率によって制約されているのと同じ程度に、それらの構成部分の使用価値、それらの素材的態容によっても、制約されている。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.1273). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.      

使用価値 の 量 は 不変 でも、 年 生産 物 の 価値 は 減少 する こと が あり うる。 使用価値 の 量 は 減少し ても、 価値 は 不変 で あり うる。 価値 量 と 再生産 さ れる 使用価値 の 量 とが、 同時に 減少 する こと も あり うる。

すべてこれらのことは、再生産が以前よりも有利な事情 の もと に 行なわ れる か、 または より 困難 な 事情 の もと に 行なわ れる か、 に 帰着 する もの で、 より 困難 な 事情 は 不完全 なーーー不足なーーー再生産に結果する こと が あり うる ので ある。

すべて これら の こと は、 再生産 の 種々 の 要素 の 量的 側面 に のみ 関連 し うる もの で、 それら の 要素 が、 再生産 する 資本 として、または 再生産 さ れ た 収入 として、 総 過程 で 演ずる 役割 に 関連 し うる もの では ない。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.1286). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

第二節 社会的生産の二部類

社会の総生産物は、したがって総生産も、次の二大部類に分かれる。
Ⅰ 生産手段:生産的消費に入るべき、または少なくとも入りうる形態をもつ諸商品。
Ⅱ 消費手段:資本家階級と労働者階級の個人的消費に入る形態をもつ諸商品。

これらの部類において、それに属する種々の生産部門の全体が、一個の大きな生産部門を形成する。一方は生産手段のそれを、他方は消費手段のそれを。両生産部門のおのおのにおいて充用される総資本の特殊の一大部門を形成する。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.1293). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

各 部類 において、 資本 は 次 の 二つ の 構成 部分 に 分かれる。  

  1. 可変資本: これ は、 価値 から 見れ ば、 この 生産部門で充用される社会的労働力の価値に等しく、したがって、それに支払われる労働賃金の総額に等しい。素材から見れば、それは、活動しつつある労働力そのものから、すなわちこの資本価値によって運動させられる生きた労働から、成る。

  2. 不変資本:すなわち、この部門における生産に充用される一切の生産手段の価値。この生産手段は、さらに、固定資本、すなわち機械、労働用具、建物、役畜等々と、流動不変資本、すなわち原料、補助材料、半製品等のような生産材料との分かれる。

この資本の助けによって両部類のおのおので生産された年生産物全体の価値は、生産において消費され価値からすれば生産物に移された不変資本cを表す価値部分と、年労働の総体によって付加された価値部分に分かれる。

さらにこの後の方の価値部分は、前貸可変資本v
の補填分と、それを超えて剰余価値mを形成する超過分とに分かれる。したがって、各個の商品の価値と同じく、各部類の年生産物全体の価値も、c+v+mに分かれる。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.1303). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

われわれ の 単純再生産 研究 の ため に、 次 の 表式 を 基礎 と し たい。そこ では c は 不変資本、 v は 可変資本、 m は 剰余価値 で、 価値 増殖 率 m/vは 100% と 仮定 さ れる。 数字 は 100マルク、フラン、ポンドのいずれと考えてもよい。

  • Ⅰ 生産手段の生産資本
     4000c+1000v=5000
     商品生産物
     4000c+1000v+1000m=6000
    生産物は生産手段として存在する。

  • Ⅱ 消費手段の生産資本
      2000c+500v=2500
      商品生産物
      2000c+500m=3000
    生産物は消費手段として存在する。

総価値は9000で、そこからは、その現物形態をもって機能を続ける固定資本は、前提にしたがって除外される。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.1332). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

第三節 両部類の取引。第一部類のv+m対第二部類c

両 部類 間 の 大きな 交換 から 始めよ う。 第一 部類 の 1000 v + 1000 mーーー 生産手段の現物形態をもってその生産者の手中にあるこれらの価値は、第二部類の2000cと、すなわち消費手段の現物形態のもとにある価値と、交換される。

これによって、第二部類の資本家階級は、その不変資本2000を、消費手段の形態から再び消費手段の西安手段の形態に、すなわちそれが新たな労働過程の要因として価値増殖のために不変資本価値として機能しうる形態に、換えた。

また他方では、これによって、第一部類における労働力にたいする等価(第一部類の1000v)と、第一部類の資本家の剰余価値(第一部類の1000m)とが、消費手段に実現されている。いずれも、生産手段の現物形態から、収入として消費されうる現物形態に転化されている。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.1407). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

この 相互 間 の 取引 は 貨幣 流通 によって 成立 する ので あっ て、 この 貨幣 流通 は、 それ を 媒介 する とともに それ の 理解 を 困難にするのであるが、しかし決定的に重要である。

というのは、可変資本部分は、たえず新たに貨幣形態をもって、貨幣形態から労働力に転化される貨幣資本として、現われねばならないからである。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.1420). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

第四節 第二部類内の取引。生活必需品と奢侈品

第二 部類 の v + m は、消費物品の現物形態をもって存在するのであるから、そして労働力の支払いにおいて労働者に前貸しされる可変資本は、彼らによって全体として消費手段に支出されねばならないのいのであるから、また諸商品の価値部分mは、単純再生産の前提のもとでは、事実上収入として消費手段に支出されるのであるから、第二部類の労働者は、第二部類の資本家から受取った労働賃金をもって彼らから自身の生産物の一部ーーー労働賃金として受取った貨幣価値の大いさに対応するそれーーーを買戻すものであることは、一見して明らかなことである。

これによって第二部類の資本家階級は、労働力の支払いにおいて前貸しした貨幣資本を、貨幣形態に再転化する。それは、彼らが労働者に単なる価値票をもって支払ったのと全く同じことである。

【私見:労働者自らが、生産物を産み出した労働力の対価として、資本家階級から商品券みたいなものが、支払われるのであるが、その商品券が、実際には、世界でも通じる貨幣となっているので、貴重な価値として認められているだけなのだ、とマルクスは述べている。】
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.1527). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

年々 の 商品生産 の 第二 部類 は、 きわめて 種々 雑多 な 産業 部門 から 成る が、 これら の 部門は、またーーーその生産物から見てーーー次の二つの大きな亜部類に分かたれうる。

(a)労働者階級の消費に入る消費手段、また、それが生活必需品であるかぎりでは、質と価値から見てしばしば労働者のそれとは異なるにせよ、資本家階級の消費の一部をもなす消費手段。

この亜部類の全体を、われわれの目的のためには、必要消費手段という項目のもとに一括することができる。

(b) 資本家階級の消費にのみ入り、したがって労働者には決して帰属しない、支出された剰余価値とのみ取引されうる奢侈消費手段。

この亜部類において前貸しされた可変資本を、その貨幣形態で資本家的生産者に復帰させる還流は、直接的でありえず、第一部類のvと同様に媒介されなければならない。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.1541). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

すべて の 恐慌 は 一時的 に 奢侈 品 消費 を 減少 さ せる。 それ は、 第二部類のbのvの貨幣資本への再転化を緩慢にし、遅滞させ、それを一部分しか可能にせず、したがって、奢侈品生産労働者の一部を失業させるのであるが、他面ではちょうど同じおとによって、必要消費手段の販売をも停滞させ、減少させる。

同時に解雇される不生産的労働者、すなわち、彼らの奉仕に代償として資本家の奢侈品支出の一部を受取り(そのかぎりではこれらの労働者自身が奢侈品である)、ことに生活必需品の消費にもきわめて大きく参加する不生産的労働者等のことは、全然問題外とする。

繁栄期には、またことにその狂気的満開期には、その逆であるーーーこの時期には、すでに他の諸理由からも、商品で表現される貨幣の相対的価値が液化し(別に現実の価値革命の行われていることなしに)、したがって、商品の価格が、それ自身の価値からは独立に、騰貴する。

生活必需品の消費が増大するだけではない。労働者階級(それにはいまや全予備軍も現役として加わっている)も、一時的には、平素は彼らの手に入らない奢侈品の消費に参加し、さらに、平素は大部分が資本家階級にとってのみ「必要な」消費手段をなす部類の必要消費財の分け前もあずかり、このことが、また物価の騰貴を引起こす。

恐慌 は、 支 払 能力 ある 消費、 または 支 払 能力 ある 消費者 の 不足 から 生ずる、 と 言う のは、ただの同義反復である。被救護貧民の消費から「泥棒」の消費を除けば、資本主義制度は、支払う消費以外の消費を知らない。

商品が売れないということは、支払能力あるその買い手が、すなわち消費者が見つからなかった(商品が結局生産的消費のために買われるにせよ)ということを意味するにほかならない。

しかし、労働者階級が、それ自身の生産物のうちから受取るところは少なすぎる、それゆえ労働者階級がより大きな分け前を受取り、したがってその労働賃金が増加すれば救われる、と言うことによって、この同義反復により深い根拠の外見を与えようとする者があるならば、こう言えばよい、ーーーいつでも恐慌は、労働賃金が一般的に上昇して、労働者階級が年生産物中の消費者向け部分におけるより大きな分け前を現実に受取る時期、まさにこの時、準備されるのである、と。

かかる時期はーーーこれら健全にして「単純な」常識の騎士の観点からすればーーー逆に、恐慌を遠ざけるはずのものであろう。

かくして資本主義的生産は、かの労働者階級の相対的繁栄を、ただ一時的にのみ、しかもつねに恐慌の前触れとしてのみ許す、善意または悪意からは独立した諸条件を含むかのように見える。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.1830). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

単純再生産 は、 事実 上、 消費 を 目的 として これ に 向け られ て いる。 もっとも 剰余価値 の 獲得 が、 個別 資本家 の 推進 的 動機 として 現われるのであるが。しかし、剰余価値はーーーその比率の大いさの如何を問わずーーー結局ここでは、ただ資本家の個人消費にのみ役立つべきものである。

単純生産が、すべての年々の拡大された規模における再生産の部分でもあり、またきわめて大きな部分でもあるかぎり、依然としてこの動機は、致富そのものの動機を伴い、そしてこれに対立している。

事柄は現実にはより複雑に現れる、というのは、獲物ーーー資本家の剰余価値ーーーを分けとる人々が、資本家から独立して現れるからである。

【私見:資本家の剰余価値の分け前は、資本家だけが、獲得するのではなくて、株主、地主等が、より多く獲得することになっている。

この剰余価値の大半は、労働者を搾取したことから、得られたものであるが、それにもかかわららず、当然のようにして、労働者には回さない。労働者には、すでに労働賃金を支払っているからというわけか。

会社は、株主の所有物だとばかりに、横暴で、強欲な株主の支配を許すようなところは、もはや、繁栄することはない、とマルクスは言っているのだろうか】
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.1863). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

第五節 貨幣流通による諸取引の媒介

一般 に 商品生産 者 の 背後に貨幣資本家がいて、これが、さらに産業資本家に貨幣資本(この語のもっとも厳密な意味におけるそれ、すなわち
貨幣形態における資本価値)を前貸しするとすれば、この貨幣の本来の還流点は、この貨幣資本家のポケットである。

貨幣は万人の手を経て、多かれ少なかれ流通するのであるが、流通貨幣の大量は、銀行等の形態で組織され集積された貨幣資本部類に属する。

この部類がその資本を前貸しする仕方は、それに対する貨幣形態における不断の終局的還流を規制する。もっとも、この還流はまた、産業資本の貨幣資本への再転化によって媒介されているのであるが。エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.1919). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

もしもわれわれ の 資本家 が 破産 すれ ば、 彼 の 債権者 と 裁判所 は、 前もって 行なわ れ た 彼 の債権者と裁判所は、前もって行われた彼の私的支出が、彼の事業の規模と、これに慣習的または標準的に相応する剰余価値収得の大きさとにたいして、正しい比率をなしているか否かを、調べることになる。

しかし、資本家階級 全体について 見れ ば、 資本家階級 は、 その 剰余価値 の 実現 の ため に( または その 資本 不変 および 可変 の 流通 の ため にも) みずから 貨幣 を 流通 に 投ぜ ね ば なら ない、 という 命題 は、 単に 逆説的でないのみではなく、全機構の必然的条件として現れる。

なぜかというに、ここにはただ二つの階級、自己の労働力しか自由にしえない労働者階級と、社会的生産手段をも貨幣をも独占的に所有する資本家階級とがあるだけでだからである。

商品中に含まれる剰余価値の実現のために必要な貨幣を、ます第一に労働者階級が自分の資力から前貸しする、とでも言うならば、そこには逆説があるであろう。

しかし、個々の資本家はつねに、彼が買い手として行動するという形態においてのみ、すなわち、消費手段の購入に貨幣を支出し、または労働力にせよ生産手段にせよ、彼の生産資本の諸要素に購入において貨幣を前貸しするという形態においてのみ、前述の前貸しを行うのである。

彼はつねに等価と引換えにのみ、貨幣を手放す。彼は、彼が流通に商品を前貸しするのと同じ仕方でのみ、流通に貨幣を前貸しする。いずれのばあいにも、彼は貨幣または商品の流通の、出発点に役を演ずるのである。

現実 の 経過 は 二つ の 事情 によって 不明瞭 にさ れる。

  1. 産業資本の流通過程において、商業資本(その最初の形態はつねに貨幣である、というのは、商人そのものは、何らの「生産物」または「商品」をも作らないのだから)と貨幣資本が、特殊の種類の資本家の操作の対象として現われること。

  2. 剰余価値ーーーそれは最初はつねに産業資本家の手中になければならないーーーが種々の範疇に分かれ、それらの担い手として、産業資本家のほかに土地所有者(地代のばあい)、高利貸(利子のばあい)等々が現われ、また政府とその役人、金利生活者等が現われること。

    これらの者は、産業資本家にたいして買い手として現われ、またそのかぎりでは、彼の商品を貨幣化する者として現われる。彼らもそれぞれの分として「貨幣」を流通に投じ、そして産業資本家はそれを彼らから受取る。

    その際つねに忘れられているのは、元来彼らは、いかなる源泉からそれを受取ったのか、またたえず繰返して受取るのか、ということである。

エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.2168). 株式会社 岩波書店. Kindle 版..

第六節 第一部類の不変資本

この 価値 は、 第一 部類 の 商品生産 物 に 再現 する、 そして この 商品 量 の 生産 に 消費 さ れ た 生産手段の価値に等しい。

この再現する価値は、第一部類の生産過程で生産されたものではなく、この過程の生産手段の与えられた価値として、不変価値として、前年にこの過程に入ったものであるが、いまやそれは、第一部類の商品量のうち、第二部類によって吸収されていない部分全体のうちに、存在している。

そして、かように第一部類の資本家の手中に残っているこの商品量の価値は、彼らの一年の商品生産物全体の価値に3分の2に等しい。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.2199). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

第一 部類 の 不変資本 は、 製鉄所 に いくら、炭坑にいくらというように、種々の生産手段生産部門に投ぜられている種々の資本群の一団として存在する。

さらにまた、これらの資本群のおのおの、またはこれらの社会的な群資本のおのおのは、独立に機能する個別資本の大なり小なりの一団から、構成されている。

まず第一に、社会の資本、たとえば7500(単位は100万その他を意味しうる)は、種々の資本群に分かれる。7500の社会資本的資本が、特殊の諸部分に分かれ、その各部分が、特殊の一生産部部門に投ぜられている。

社会的資本価値の各特殊生産部門に投ぜられた部分は、現物形態から見れば、一部は各特殊生産部面の生産手段であり、一部はその部面の経営に必要な、そしてそれに適合した熟練度をもった労働力から、すなわち、各個の生産部面で労働力の行うべき特殊の労働種に応じて分業によって種々に変化を加えられた労働力から、成っている。

社会的資本の、各特殊生産部門に投ぜられた部分は、さらにまた、その部門に投ぜられた独立に機能する個別資本の総和から、成っている。このことは、言うまでもなく、第一部門と第二部門との両方に当てはまる。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.2247). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

ところで、 第一 部類 で、 その 商品生産 物 の 形態 を もっ て 再現 する 不変資本 価値 について言えば、その一部分は、それが生産物として出てくる特殊の生産部面に(または個別事業経営さえも)再び生産手段として入る。たとえば、穀物が穀物生産に、石炭が石炭生産に、鉄が機械の形態で鉄生産に入る、等々。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.2263). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

第一 部類 の 各 資本家 は、 この 4000 の 不変資本 における 彼 の 持ち分 に 比例 し て、 この 商品 量 の 中 から、 彼 に 必要な適当な生産手段を引出すのである。

生産が資本主義的でなく社会的であるとしても、第一部類のこれらの生産物がこの部類の諸生産部門のあいだに、再生産のために、同様にたえず再び生産手段として分配され、一部は直接に、それが生産物として出てきた生産部面に留まり、これに反して、他の一部は他の生産場所に遠ざけられ、かくしてこの部類の種々の生産場所のあいだに、たえず往ったり来たりが行われるのであろう、ということは明らかである。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.2276). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

第七節 両部類における可変資本と剰余価値

年々 生産 さ れる 消費 手段 の 総 価値 は、 年間 に 再生産さ れ た 第二 部類 の 可変資本 価値 プラス 新た に 生産 さ れ た 第二 部類 の 剰余価値( すなわち、 第二 部類 で 年間 に 生産 さ れ た 価値 に 等しい) プラス 年間 に 再生産 さ れ た 第一 部類 の 可変資本 価値 および新たに生産された第一部類の剰余価値(すなわち、プラス第一部類で年間に生産された価値)に等しい。

したがって、単純生産の前提のもとでは、年々生産される消費手段の総価値は、年々の価値生産物にすなわち社会的労働によって年間に生産される価値の全部に等しいのである。また等しくなければならない。というのは、単純生産のばあいには、この全価値が費消されるのだからである。

総生産労働日は二つに分かれる。

  1. 必要労働。それは年間に1500vという価値を作り出す。

  2. 剰余労働。それは1500mという追加価値または剰余価値を作り出す。

これらの価値の合計3000は、年々生産される消費手段の価値3000に等しい。したがって、年間に生産される消費手段の総価値は、総社会的労働日が年間に生産する総価値に等しく、社会的可変資本に価値プラス社会的剰余価値に等しく、年々の新生産物に等しい。

しかし、われわれはこういうことも知っている。すなわち、これらの二つの価値の大いさは一致するとはいえ、それだからといって、第二部類の商品である消費手段の総価値は、決して社会的生産の部類で生産されたのではない、ということである。

それらが一致するのは、第二部類で再現する不変資本価値が、第一部類で新たに生産される価値(可変資本価値プラス剰余価値)に等しく、それゆえに代置部類のv+mが、第二部類の生産物のうちの、その生産者(第二部類における)にとって不変資本価値を表す部分を、買いうるからである。(中略)

第二部類のcが第一部類のv+mに等しく、社会的生産物のこの両構成部分が、それらの現物形態をたがいに交換し、したがって、この取引の後には、第二部類のcは再び生産手段として、第一部類のv+mは反対に消費手段として、存在するからにほかならない。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.2284). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

【c:不変資本 v:前貸資本 m:剰余価値】

社会的 労働日( すなわち、 一年中 に 総 労働者階級 によって 支出 さ れる 労働) は、 各個 別 労働日 と 同じく、 ただ二つの部分に、すなわち必要労働と剰余労働とに分かれ、したがって、この労働日によって生産される価値も、同様にただ二つの部分に、すなわち、労働者が彼自身の再生産手段を買う価値部分である可変資本価値と、資本家が彼自身の個人的消費に支出しうる剰余価値とに分かれるのであるが、ーーーそれにもかかわらず、社会的に見れば、社会的労働日の一部分は、もっぱら新たな不変資本の生産に、すなわち、労働過程において生産手段として機能し、したがって労働過程にともなう価値増殖過程においては不変資本として機能するように、ただそれのみに向けられた諸生産物の生産に、支出される。

われわれの前提によれば、社会的労働日全体は、3000という貨幣価値で表示され、その3分の1の1000だけが、消費手段、すなわち社会の総可変資本価値と総剰余価値が結局実現される諸商品を生産する第二部類で、生産される。したがって、この前提によれば、社会的労働日の3分の2は、新たな不変資本の生産に使用される。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.2320). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

第一 部類 と 第二 部類 の 社会的 生産 物 の 総計、 生産手段 と 消費 手段 は、 その 使用価値 から、 具体的に、その現物形態において見れば、この年の労働の生産物ではあるが、しかし、この労働そのものが有用的、具体的労働として見られるかぎりにおいてのみそうなのであって、この労働が労働力の支出として、価値形成労働として見られるかぎりでは、そうではない。

またそうであるのも、生産手段が、それを取扱いそれに付加される生きた労働によってのみ、新たな生産物に、転化された、という意味においてのみのことである。

しかしまた、逆に、この年の労働は、それから独立した生産手段なしには、労働手段と生産手段なしには、生産物に転化されえなかったでもあろう。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.2388). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

第八節 両部類における可変資本

不変 な、 ただ 再現 する だけの 価値 部分 は、 この 生産 物 中 の 生産手段 から 成る 部分 の 価値 に 等しく、 そして この部分に体化されている。

その年の新たな価値生産物v+mは、この生産物中の消費手段から成る部分の価値に等しく、そしてこの部分に体化されている。

しかし、ここでは問題にならない例外はあるにしても、生産手段と消費手段とは、全く異なる種類の商品であり、全く異なる現物形態まらは使用形態をもつ生産物であり、したがってまた、全く異なる具体的労働種の生産物である。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.2446). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

社会的 に 見れ ば、 社会的 労働日 の うち 生産手段 を 生産 する 部分 は、 したがって、 それに 新 価値 を 付加 する とともにその生産に消費された生産手段の価値をこれに移す部分は、新たな不変資本しか生産しない。

すなわち、古い生産手段の形態で消費された不変資本を、第一部類と第二部類で消費された不変資本を、補填することに向けられた新たな不変資本しか生産しない。

この部分は、生産的消費に帰するように定められた生産物のみを生産する、したがって、この生産物の全価値は、不変資本として新たに機能しうる価値、ただその現物形態における不変資本のみを買戻しうる価値、したがって、社会的に見れば、毛篇資本にも剰余価値にも分解されない価値でしかない。

他方、社会的労働日のうち消費手段を生産する部分は、社会的補填資本のいかなる部分をも生産しない。この部分は、第一部類と第二部類の可変資本の価値と剰余価値を実現するように定められた現物形態をもつ生産物のみを生産する。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.2526-2529). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

社会的 考察 方法 について 語る とき、 したがって、 社会的 資本 の再生産とともに個人的消費を包含する社会的総生産物を考察するとき、人々は、プルードンがブルジョア経済学から模倣したやり方に堕して、資本主義的生産様式の社会も全体として考察すれば、この特殊的な歴史的経済的性格を失うかのように、事柄を見てはならない。

逆である。そのばあいには、総資本家が問題とされる。総資本は、すべての個別資本家がいっしょになった株式資本として現われる。この株式会社は、各人が自分の投込むものは知っていても、自分の引出すものは知らないということを、多くの他の株式会社と共通しているのである。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.2536). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

第九節 アダム・スミス、シュトルヒ、ラムジーへの回顧 省略  

第十節 資本と収入。可変資本と労働賃金

資本主義 社会 を 野蛮人 から 区別 する ものは、シニョアの考えるような、収入すなわち消費手段に分解されうる(それに換えられうる)成果を自分にもたらすことのない労働を一定時間支出することあ、野蛮人の特権であり特性であるということではなく、区別は次の点にある。

  • 資本主義社会は、労働賃金の形態でも剰余価値の形態でも収入には分解されえないで、ただ資本としてのみ機能しうる生産手段(したがって不変資本)の生産に、その駆使しうる年労働のより多くを使用する

  • 野蛮人が弓、矢、石槌、斧、籠などを作るとき、これに費やされた時間は、彼が消費手段の生産に使用したものではないこと、したがって、彼が生産手段にたいする自分の必要を充たしただけであることを、野蛮人はきわめて明確に知っている。

    さらにまた野蛮人は、時間の浪費にたいして全くの無関心であることによって、一つの経済的重罪を犯すもので、たとえば、タイラーの語っているように、一本の矢を仕上げるために、まる一ケ月を費やすこともしばしばある。

一部の経済学者が、理論的困難を、すなわち現実の関連の理解を片付けようようとする通俗の見解ーーー一方の者にとっての資本は、他方の者にとっての収入であり、またその逆である、という見解ーーーは、部分的には正しいが、一般的に提起されるならば、全く誤ったものとなる(すなわち、年々の再生産とともなって行われる全取引過程の完全な誤解を含み、したがって、部分的には、正しいことの事実的基礎にかんする誤解をも含む)。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.2688). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

初め に 資本家 の ため に 可変資本 の 貨幣 形態 として 機能した貨幣は、いまや労働者の手中では、彼が生活手段に転化する彼の労働賃金の貨幣形態として、すなわち彼がその労働力のたえず繰返される販売によって得る収入の貨幣形態として、機能する。(中略)

可変資本が、資本家にとっては資本として、労働者にとっては収入として、二重に機能するのではなく、同じ貨幣が、初めに資本家の手中では、彼の可変資本の貨幣形態として、したがって潜勢的貨幣資本として存在し、資本家がそれを労働力に転化するや否や、労働者は手中で、売られた労働力にたいする等価として役立つのである。

しかし、同じ貨幣が、売り手の手中では、買い手の手中にあるとは異なる用途に役立つということは、すべての商品売買に具わる現象である。

【私見:つまり、労働力とは、商品であるということを、マルクスは、強調している。柄谷行人によるマルクス読解の著書を読んで、このことを、知った。

確かに、見積書を作成するとき、労働力を工賃という項目で計上していたので、労働力を無意識ながらにも、商品として扱っていたことになる。】
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.2727). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

労働力 は、 彼 の 財産( たえず 更新 さ れる 再生産 的 財産) で あるが、彼の資本ではない。それは、彼が彼がたえず売ることのできる、そして生きるためには売らねばならない、唯一の商品であり、そして、買い手なる資本家の手中でのみ、初めて資本(可変)として働く商品である。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.2747). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

収入 として の 労働 賃金 の 支出 によって、 一方 では 第二 部類 の 1000 c が、 同じく この 路 を 経 て 第一部類に1000vが、また同じく第二部類の500vが、したがって不変資本と可変資本が(可変資本にあっては、一部は直接の、一部は間接の還流によって)、再び貨幣資本として回復されるということは、年生産物の取引における重要な一事実である。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.3037). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

第十一節 固定資本の補填

不変資本 の 一 価値 部分 は、 すなわち 不変資本 が 本来の労働手段(生産手段中のもっとも特徴的な部類としての)から成るかぎりでは、労働手段から労働生産物(商品)に移されている。この労働手段は、生産資本の要素として、しかも元の現物形態のままで、機能を続ける。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.3069). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

この 労働手段 が 一定 の 期間 にわたって 継続するその機能中に漸次に蒙る摩損、その価値喪失、これが、この労働手段をもって生産された商品の価値要素として再現するのであり、労働用具から労働生産物に移されるのである。

したがって、ここで年々の再生産にかんして、初めから考慮に入るものは、固定資本中の一年以上の生命を保つ構成部分のみである。

その全体が一年のうちに死滅するものならば、それはまた全部その年の再生産によって、補填され、更新されるべきもので、したがって、問題とされる点に初めから関係ない。

機械その他、比較的永続的な固定資本諸形態にあっては、建物や機械の基体の全部は長命であるにもかかわらず、そのある部分器官は、一年のうちにことごとく補填されねばならない、ということが起こりうるーーーまたしばしば起こる。これらの部分器官は、固定資本中の、一年内に補填されるべき諸要素と同じ範疇に属する。

商品のこの価値要素は、決して修繕費と混同されてはならない。商品が売られれば、この価値要素は、貨幣化され、他の要素と同じように貨幣に転化される。しかし、それが貨幣に転化された後には、それと他の価値要素との差異が現われる。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.3071). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

単純 な 商品 流通 が、 単なる 生産 物 交換 と 同じ で ない のと 同様 に、年々の商品生産物の取引も、その種々の構成部分の、単なる直接の相互の交換には分解されえない。そこでは貨幣が一つの特殊な役割を演じ、それは、ことに固定資本価値の再生産の様式においても現れている。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.3119). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

社会的 再生産 過程 に かんし ては、 第二 部類 と 第一 部類 との あいだ の 取引 のみ が 問題となる。ここでは第二部類と第一部類とは、それらの社会的大量関係においてのみ、相対する。それゆえ、第二部類の商品生産物の価値部分cの比率的大きさ(ここで取扱われる問題では、ただこれだけが基準となる)は、第二部類に含まれるすべての生産部門が総括されるばあいは、平均比率である。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.3140). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

一 貨幣形態における摩損価値部分補填

第一 部類 の 1000 v + 1000 m と 第二 部類第二部類の2,000cとの取引において、まず第一に注意されるべきは、第一部類のv+mなる価値額は、何らの不変価値要素をも含まず、したがって、補填されるべき摩損分に当たる価値要素、すなわち、不変資本の固定構成部分からv+mの存在する現物形態である諸商品に移された価値に当たる価値要素を含まない、ということである。

これに反して、第二部類のcのうちにはこの要素が存在するのであって、まさに固定資本に負うこの価値要素の一部分は、直接に貨幣形態から現物形態に転化されるべきではなく、さしあたり貨幣形態に留まるべきものなのである。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.3245). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

第二 部類 に 貨幣 残高 が 流入しうるのは、第二部類が第一部類に2000を売り、しかも第一部類からは2000よりも少なく、たとえば1800しか買わないばあいにかぎるであろう。そのばあいには、第一部類は貨幣の200によって差額を決済しなければならないことになり、この貨幣は第一部類には還流しないことになる。

なぜならば、第一部類は、この流通に前貸しされた貨幣を、商品200を流通に投ずることによって、再び引上げることにならないからである。

このばあいには、われわれは第二部類については、その固定資本の摩損分の勘定に、一つの貨幣原本をもつことになる。

しかし、他面では、第一部類では、200という額の生産手段の過剰生産が生ずることになり、それとともに、表式の全基礎が失われるであろう。すなわち、規模の不変な、したがって種々の生産体系間の完全な均衡を前提とする再生産が失われるであろう。一つの困難が、はるかにより以上に不愉快な一つの困難によって、除かれたにすぎないであろう。(中略)

まず第一に、いまわれわれは、第二部類は第一部類に2000の商品を売るが、第一部類からは1800しか買わない、ということを想定した。第二部類の2000cなる商品価値のうちには、貨幣として蓄蔵されるべき摩損補填分200が含まれている。

したがって、第二部類の2000cなる価値は、第一部類の生産手段と交換されるべき1800と、貨幣として(第一部類に2000cを売った後に)保持されるべき、摩損補填分200とに分かれるであろう。あるいは、その価値について言えば、2000Ⅱc=1800c+200c(d)となるであろう。このdは摩損分である。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.3286). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

社会的 再生産 過程がただちにその複雑な具体的形態において分析の対象とされるばあいに、「科学的」説明の外観を与える誤った遁辞から免れるためには、その基本的形態ーーーそこでは事柄を曖昧にする一切の介在物が除去されているーーーにおける再生産過程の考察がきわめて必要である、ということがわかる。

かくして、 再生産( 単純 な 規模 における に せよ、 拡大された規模におけるにせよ)の正常な経過にあっては、資本家生産者によって流通に前貸しされた貨幣が、その出発点に帰らねばならない(このばあい、その貨幣が彼らのものであるか、借りたものであるかは、どうでもよい)という法則は、第一部類の前貸しした貨幣によって第二部類の200c(d)が貨幣化される、という仮説を徹底的に排除するのである。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.3388). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

二 固定資本の現物補填

以上 に 考察 さ れ た 仮説 が 排除 さ れ た 後 に なお 残る もの は、 貨幣 による 磨損 補 塡 の ほか に なお、 全体 として 死滅 し た 固定資本 の 現物 補 塡 の 遂行 をも 含む よう な、いろいろな可能性だけである。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.3399). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

第二 部類 は、それぞれの固定資本が、全くその再生産の期限を異にする資本家たちから成っている。ある資本家にとっては、その固定資本が全部現物で補填されるべき時期に達している。

他の資本家にとっては、その固定資本は、多少ともこの時期までには間のある状態にある。後の方の部類のすべての資本家に共通することは、彼らの固定資本が現実には再生産されず、すなわち現物では更新されず、または同種の新品によって代置されないということであり、その固定資本が価値が逐次貨幣で積立てられるということである。

前の方の資本家は、彼がその事業の創設当時にある額の貨幣資本を携えて市場に現われ、一方ではこれを不変資本(固定および遊動)に転化し、他方では労働力、すなわち可変資本に転化したときと、全く(または、ここではどうでもよいことであるが、部分的に)同じ状態にある。

当時と同じく、いまや彼は再びこの貨幣資本を、したがって、不変流動資本および可変資本の価値とともに、不変固定資本の価値をも、流通に前貸しせなばならない。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.3430). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

第二 部類 の 不変資本 の うち の、その全価値どおりに貨幣に再転化され、したがって毎年現物更新を要する固定構成部分(第一部分)は、第二部類の不変資本のうちの、なお元の現物形態のままで機能を続け、その摩損分ーーーそれの関与によって生産される商品の上に、それが移す価値喪失分ーーーがさしあたりは貨幣で補填されるべき他方の固定構成部分の年々の摩損分に等しいということ、これである。

したがって、かような均衡は、不変な規模における再生産の法則として現われるであろう。いいかえれば、生産手段 を生産する第一部類では、それが一方では第二部類の不変資本の流動構成部分を、他方ではその固定構成部分を供給するかぎり、分業比率が不変でなければならい、ということである。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.3674). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

三 結論

一言 で いえ ば、 単純再生産 と 不変 な 諸 事情、 したがって ことに 不変 な 労働 生産力と労働総量と労働強度とのもとにおいて、ーーー死滅する(更新されるべ)固定資本と、古い現物形態のまま働き続ける(ただ摩損を補填するだけの価値を、生産物に付加する)固定資本とのあいだに、ある不変な比率が前提されないならば、ーーーあるばあいには、再生産されるべき流動構成部分の量は不変であるが、再生されるべき固定構成部分の量は増大してくるであろう。

したがって、第一部類の総生産が増大せねばならないことになるか、または、貨幣諸関係を離れて見ても、再生産の不足が生じることになるであろう。

他のばあいには、現物で再生産 さ れる べき 第二 部類 の 固定資本 の 比率 的 大き さが 減少 し、 したがって、 第二 部類 の 固定資本 中 の なお 貨幣 で のみ 補 塡 さ れる べき 構成 部分 が 同じ 割合 で 増大 する なら ば、 第一 部類 によって再生産される第二部類の不変資本の流動構成部分の量は、不変であろうが、再生産されるべき固定構成部分の量は減少するであろう。

したがって、第一部類の総生産の減少か、または過剰( 前 の ば あい の 不足 の よう に) か、 そして 貨幣 化 さ れ え ない 過剰 かの、 いずれ かが 生ずる こと に なる で あろ う。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.3797). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

固定資本 と 流動資本の生産における不均衡は、恐慌を説明するために経済学者の愛用する論拠の一つである。この種の不均衡は、固定資本が単に維持されるだけのばあいにも起こりうるし、また起こらざるをえないということーーーこれは彼らには耳新しいことなのである。

すなわち、一つの正常生産を前提とするばあいにも、すでに機能しつつある社会的資本の単純再生産のばあいにも、かような不均衡が生じうるし、また生ぜざるをえないということは、彼らに耳新しいことである。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.3835). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

第十ニ節 貨幣材料の再生産

資本主義 的 生産の優勢な諸国のうちでは、アメリカ合衆国だけが金銀の生産国である。ヨーロッパの資本主義諸国は、その金のほとんど全部と、その銀の大部分とを、オーストラリア、アメリカ合衆国、メキシコ、南アメリカ、ロシアから得ている。

しかし、われわれは金鉱山を、われわれがここでその年再生産を分析する資本主義的生産の国に、移してみることにする。そしてこれは次の理由からである。

資本主義 的 生産 は、一般に外国貿易なしには存在しない。しかし、与えられた規模における正常な年再生産が想定されるならば、同時に次のことも想定されたことになる。

すなわち、外国貿易は、使用形態および現物形態を異にする物品を内国産物品に置換えるだけで、価値比率には影響を及ぼさず、したがってまた、生産手段という二つの部類が相互に交換される際の価値比率にも、これらの各部類の生産物の価値が分かれうる不変資本と可変資本と剰余価値との比率にも、影響を及ぼさないということ、これである。(中略)

したがって、ここでも金は、年生産の直接的要素として取扱われるべきで、交換によって外から輸入された商品として取扱われるべきではないのである。

金の生産は、金属生産一般と同じく、第一部類に、生産手段の生産を包括する部類に、属する。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.3863). 株式会社 岩波書店. Kindle.  

資本主義 的 生産 の 年齢 が 加わる につれて、 あらゆる 方面 で 蓄蔵 さ れ た 貨幣 量 は ますます 大きく なり、 したがって、 年々 の 新た な 貨幣生産 が この 貨幣 量 に 加える 追加 分 は、 その 絶対量 から 見れ ば 大きな もの で あり うる に し ても、 その 割合 から すれ ば、 ますます 小さく なる という こと は、 自明 の こと で ある。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.3963). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

第十三節 デステュット・ドゥ・トラシの再生産論

資本家 が富を得るのは、第一に、彼らが彼らの私的消費に充てる、すなわち収入として消費する剰余価値部分の取引において、彼らのすべてが相互に儲け合うことによってである。

したがって、彼らの剰余価値または彼らの利潤のこの部分が400ポンドに等しいとすれば、この400ポンドの各分有者が、彼の持ち分を25%だけ不当に高く他人に売ることによって、この400ポンドがたとえば500ポンドになるのである。

皆が同じことをするのであるから、結果は、彼らが相互に正当な価値で売り合うのと同じことである。ただ、彼らが400ポンドの商品価値の流通に、500ポンドの貨幣量を必要とするだけで、このことは、富むよりもむしろ貧しくなる方法であるように見える。というのは、彼らはその総財産の一大部分を、流通手段という無用な形態で、不生産的に保存せねばならないからである。

要するに帰着するところは、資本家階級は、彼らの商品の価格の全般的な名目的引上げにもかかわらず、400ポンドの価値しかない商品額を、彼らの私的消費のために、相互のあいだで分配せねばならないということ、そして500ポンドの商品価値の流通のために必要とされる貨幣量をもって、400ポンドの商品価値を流通させることで、たがいに満足し合うということである。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.4168). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

利潤 が どこ から くる か、 という こと こそ、 デステュット が、われわれに説明しようとするところなのである。この利潤を流通させるために必要な貨幣量は、全く従属的な問題なのである。利潤が表示される商品量は、資本家がこの商品量をたがいに売りあうーーーそれだけでもすでにはなはだ結構な深奥なことなのだがーーーだけでなく、皆がたがいに不等に、高く売り合うことからくるもののように見える。かくてわれわれは、いまや資本家の致富の源泉を知る。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.4182). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

資本家 が 労働者に賃金を前貸しした形態である貨幣資本が、資本家の手に還流することは、 デステュットによれば、かような資本家の致富の第二の源泉をなす。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.4196). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

資本家階級 一般 がその利潤を引出す原本は、正常な労働賃金からの削除によって、労働力にたいするその価値以下の支払い、すなわち賃金労働者としての労働力の正常な再生産に必要な生活手段に価値以下の支払いによって、形成されることになるのであろう。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.4248). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

賃金 の削減のばあいにも、資本家の致富は、彼らがまず労働者に貨幣で100ポンドを支払い、次にこの100ポンドの貨幣にたいして商品で80ポンドを渡すということーーーすなわち事実上は80ポンドの商品を、25%過大の100ポンドの貨幣額によって流通させるということーーーから生ずるのではなく、資本家が労働者の生産物のうちから、剰余価値ーーー剰余価値が表示される生産物部分ーーーのほかに、なお、労働賃金の形態で労働者に帰属すべき生産物部分をも自分のものとすることから生ずるのである。デステュットの考えるような馬鹿げた仕方では、資本家階級は絶対に何も利得しないであろう。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.4264). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

第二十一章 蓄積と拡大再生産

商品 資本 の 貨幣 化 によって、剰余価値が表示される剰余生産物も貨幣化される。かようにして、貨幣に転化された剰余価値を、資本家は、彼の生産資本の追加的現物要素に再転化する。次の生産循環では、増大された資本が、増大された生産物を供給する。

しかし、個別資本のばあいに現われることは、年々の総生産においても、現われねばならないのであって、それは、われわれが単純再生産の考察に際して、個別資本のばあいに見られるその消費された固定構成部分の蓄蔵貨幣として行われた逐次的沈殿が、年々の社会的再生産においても現われるのを見たのと、全く同様である。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.4385). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.
   
この 貨幣 形態 で 蓄蔵された剰余価値は、追加的な新たな社会的富ではないとはいえ、それが蓄蔵される際に所期される機能のために、新たな潜勢的貨幣資本を表す。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.4443). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

第一節 第一部類における蓄積

一 貨幣退蔵

剰余価値 の 貨幣 化 によって蓄蔵された貨幣をもって、不変資本の追加要素である生産手段を買う。同時に他の一部は、なお潜勢的貨幣資本の蓄蔵に従事している。したがって、この両部類に属する諸資本家は、一方は買い手として、他方は売り手として、そして両者のおのおのがこの専有的役割において、相対する。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.4475). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

社会内に存在 する 貨幣 量 は、現実に流通しつつあるそれの部分よりも、つねに大きい。この部分は、事情に応じて増減するのであるが。この同じ退蔵貨幣と同じ貨幣退蔵とを、われわれは再びここに見出すのであるが、しかし今度は、資本主義的生産過程に内在する一要素として、これを見出すのである。エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.4502). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

買い手 が 後 に 等しい 価値 額 の 売り手として現われることとその逆のことによって、均衡がもたらされるかぎりでは、貨幣の還流は、購買に際してこれを前貸しした側に向かって、再び買う前にまず売った側に向かって、行われる。

しかし、現実の均衡は、商品交換そのものにかんしては、年生産物の種々の部分の取引にかんしては、相互に取引される諸商品の価値額の等しいことを条件とする。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.4557). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

第一 部類 の 資本 は、第二部類の資本にたいしては、第一部類のvの範囲内で一方的に商品の売り手として相対するが、第一部類の労働者階級にたいしては、その労働力の購入において、商品の買い手として相対する。

そして、第一部類の労働者階級は、第二部類の資本家にたいしては、一方的に商品の買い手として(すなわち生活手段の買い手として)相対するが、治一部類の資本家にたいしては、一方的に商品の売り手として、すなわち自分の労働力の売り手として、相対する。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.4581). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

二 追加不変資本

可能 的 追加 貨幣資本 の 大規模生産ーーー流通部面の多数の点におけるーーーは、その生成自体が、産業資本家側の追加貨幣支出を前提しない可能的追加生産資本の、多方面における生産の結果および表現にほかならない。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.4634). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

貨幣 が 支 払 手段 として 流通 する なら ば、このばあいには、相互の売買が一致しないかぎりで、差額だけが支払わればよい。しかし、いかなるばあいにも、ここでなされるように、まずそのもっとも簡単な、もっとも本源的な形態における金属流通を前提することが肝要である。

なぜならば、これを前提すれば、流出と還流、差額の決済等、要するに信用制度にあっては、意識的に規制された行程として現われる一切の要素が、信用制度から独立して存在するものとして示され、事柄が、後から反省的形態においてではなく、自然発生的形態において現われるからである。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.4757). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

三 追加可変資本

金 生産者 は、 その 金製 の 剰余価値 の 一部 を、可能的貨幣資本として蓄積しうる。それが所要の大きさに達すれば、彼はそれを直接に新たな可変資本に転化することができるのであって、そのために、まず、彼の剰余生産物を売ることを要しない。

同様に彼は、それを不変資本の諸要素にも転化しうる。しかし、後のばあいには、彼の不変資本のこの物質的諸要素が、彼の前になければならない。
(中略)

現実の生産拡張が、すなわち剰余生産物が、いずれのばあいにも前提されている。一方のばあいには、現実に存在するものとして、他方のばあいには、可能的に存在し、供給されうるものとして。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.4773). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

第二節 第二部類における蓄積

A(第一部類) は、 その 剰余 生産 物 を B( 第二 部類) に 売ることによって、それに相当する不変資本の価値部分を現物形態でBに供給したのであるが、しかし同時に、流通から貨幣を引上げることによってーーー後続の購買による彼の販売の補足を中止することによってーーー価値から見てそれに等しいB(第二部類)の一商品部分を売れなくしたのである。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.4805). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.
    
単純再生産 の 説明 において は、第一部類と第二部類の全剰余価値が収入として支出されることが前提された。しかし、実際には剰余価値の一部は収入として支出され、他の一部は資本に転化される。

現実の蓄積はこの前提のもとでのみ行われる。蓄積が消費を犠牲にして行われるというのはーーーかく一般的に言われるならばーーーそれ自体、資本主義的生産の本質に矛盾する一幻想である。

というのは、それは、資本主義的生産の目的と起動的動機が消費であって、剰余価値の獲得とその資本化、すなわち蓄積ではない、と前提することになるからである。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.4820). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

第三節 蓄積の表式的説明   

新た に 蓄積 さ れ た 不変資本 の 固定 部分 は、ただ漸次的、周期的にのみ、この固定的諸要素の性質に応じて、異なる仕方で、商品資本の中に入って行く。

したがって、原料や半製品などが大量に商品生産に入るばあいには、商品資本の比較的大きい部分が、流動不変構成部分と可変資本との補填分から成っている。(しかし、かような方式がとられるうるのは、流動構成部分の回転のゆえである。そこでは、流動部分がそれに移された固定資本の価値部分といっしょに一年内に何回も回転して、供給される商品の総額が、年生産に入る総資本の価値に等しくなる、ということが仮定されている。)

しかし、機械経営のために補助材料だけが用いられて原料が用いられないばあいには、労働要素vが、商品資本における比較的大きい構成部分として、再現せねばならない。

利潤率においては、固定構成部分が周期的に生産物に移す価値の多少にかかわらず、総資本にたいして剰余価値が計算されるのであるが、周期的に生産される各商品資本の価値については、不変資本の固定部分は、その消費によって平均的に価値を生産物そのものに移すかぎりにおいてのみ、算入されるべきものである。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.5576). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

第四節 補遺

第二 部類 にとって の 本源 的 な 貨幣 源泉 は、第二部類のcの一部分と交換される第一部類の金生産のv+mである。金生産者が剰余価値を積立てるか、またはそれを第一部類の生産する生産手段に転化し、したがって彼の生産を拡張するかぎりにおいてのみ、彼のv+mは第二部類に入らない。

他面では、金生産者自身の側の貨幣蓄積が結局において拡大再生産に導くかぎりでは、金生産の剰余価値のうちの、収入として支出されない部分は、金生産者の追加可変資本として第二部類に入り、そこで新たな貨幣退蔵を促すか、または、直接に再び第一部類に売ることなしに第一部類から買うための新たな手段を与える。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.5587). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

問題 と なる のは、 第二 部類 の 資本家 相互 間 の 交換 第二 部類 の m の 相互 交換 から のみ 成り うる 交換 の 内部 で、 どの 程度 まで 貨幣 退蔵 が 行なわ れ うるか、 である。

第二 部類 の 内部 では、 第二 部類 の m の 一部分 が 直接 に、 可変資本 に( ちょうど 第一 部類 で、 第一 部類 の m の 一部分 が 直接 に 不変資本 に 転化 さ れる のと 同じ に) 転化 さ れる こと によって、直接的 蓄積 が 行なわ れる こと は、 われわれ の 知る ところ で ある。

第二 部類 の 種々 の 事業 部門 の 内部 でも、 また 各個 の 事業 部門 の 内部 では 各個 の 資本家 について も、 蓄積 の 年齢 段階は 種々 に 異なる が、 事柄 は、 必要 な 変更 を 加えれ ば、 第一 部類 に おける と 全く 同様 に 説明 さ れる。

ある もの は なお 貨幣 退蔵 の 段階 に あっ て、 買う こと なし に 売り、 他 の もの は、 再生産 の 現実の 拡大 の 点 に 達し て い て、 売る こと なし に 買う。 追加 可変 貨幣資本 は、 まず 第一 に 追加 労働力 に 支出 さ れる には ちがい ない。

しかし、 この 労働力 は、 貨幣 退蔵 を なし つつ ある、 労働者 の 消費に 入る 追加 消費 手段 の 所有者 から、 生活 手段 を 買う。 この 所有者 たち の 貨幣 退蔵 の 程度 に 応じ て、 貨幣 は 彼ら から その 出発点 に 帰ら ず、 彼ら は これ を 積立てる ので ある。
エンゲルス; 向坂 逸郎. マルクス 資本論 5 (岩波文庫) (Kindle の位置No.5604). 株式会社 岩波書店. Kindle 版.

【今回で、kindle版5冊目を終了し、次回からは、
6冊目となります。】




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