ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ 『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂病』(20)読書メモ

第四章 第四節 分裂分析の肯定的な第一の課題

第一の課題は、解釈にはまったく頼らないで、ひとりの主体において、彼、彼女の欲望機械の本性、 形成、作動を見いだすことである。おまえの欲望機械は、どんなものか。きみは自分の諸機械の中に 何を入れ、何を引き出すのか。〈それ〉はどのように動くのか。 きみの非人間的な性は、どのような ものか。
 分裂分析を実践するひとは、ひとりの機械技師であり、分裂分析はひたすら機能的なもので ある。分裂分析は、この点で無意識の観点からの) 社会機械や技術機械の、またそれらの使用の解 釈的検討にとどまるものではない。
 主体は社会機械の中に歯車や使用者としてとりこまれ、技術機械 は好みに応じて主体に所有され、器用仕事によって改良され、あるいは製作されさえもし、また主体 は、夢や幻想の中で諸機械を使用するのだ。
 これらの機械は、まだあまりにも表象的なものであり、 粗大すぎる統一体を表象している。 サディストやマゾヒストの倒錯機械、パラノイア患者の感化 機械さえ、そういうものだ・・・・….。

私たちは、一般に「対象」の疑似的分析が、じつは最低の段階の分 活動であることをみてきた。 それが、現実的対象を想像的対象によって裏打ちするときでさえ、い やとりわけそのときに、そうであることを見てきた。 市場の精神分析よりは、 夢想という手がかりの 方に価値がある。
 ところが、こういったあらゆる機械の考察は、現実的であれ、象徴的、想像的機械 であれ、まったく規定された仕方で、 ―機能的指標として介入すべきであり、こうして私たちを欲 望に導くものでなければならないのだ。
 これらの機械はすべて、多少とも、 欲望機械の近傍にあり、類縁の関係にある。ある種の散逸の間を超えて、機械の想像的同一性や構造的な統一性がもはや 存続しえなくなるときから、欲望機械は実際に達成される(想像的同一性や構造的統一性の審級は、 まだ解釈の秩序に、すなわちシニフィエあるいはシニフィアンの秩序に属している)。

【一人 の「主体」を構成する 「欲望機械」はどのようなもので、どのように作動するか、特定の理論による「解 釈 」を交えないで、即物的に記述するということです。 「精神」とか「無意識」とか直接観 察しようのないものを想定して解釈の余地を大きくするのではなく、 「機械」をちゃんと見ようというわ けです。ただし、各人の身体に定着している「欲望機械」だけではなく、複数の主体の欲望機械のモル状 の連合体である「社会機械」や、「欲望機械」と繋がっている「技術機械」も観察する。
(仲正昌樹『アンチ・オイディプス入門講義』より)】


欲望機械の部品とは、もろもろの部分対象である。部分対象は、動作する機械あるいは作動する部品を定義するが、しかしそれは、ひとつの部品がまったく別の機械の部品にたえず関係するような状態にある。赤いクローバーとまるはな蜂、すずめ蜂と欄、自転車の警笛と死んだ鼠の尻のように。ファルスのような項を性急に導入する必要はない。


ファルスは、集合を構造化し、もろもろの部分を人称化し、統一化し全体化する。いたるところに機 械のエネルギーとしてのリビドーがあり、警笛もまるはな蜂も、ファルスであるという特権などをも っていない。
 ファルスは、構造的な組織と、これから由来する人称的関係の中に介入するだけである。 これにおいて各人は、戦いに招集された労働者のように、自分の諸機械を放棄し、去勢という万人に 共通の同じ制裁、同じ滑稽な傷を身にうけて、偉大なる不在というトロフィーをめざして戦列につく のだ。
 このファルスのための大いなる闘い、曲解された権力の意志、性の人間形態的表象、こうした 性愛の概念全体、これはロレンスを恐怖させる。
 まさにそれは概念でしかなく、 それは、「理性」が 無意識に対して強制し、欲動的領域に導入したひとつの観念にすぎず、この領域を形成するものでは まったくないからである。ここで欲望は、統一化され同一化されたモル的集合の中で罠にかけられて、 人間の性に特殊化されている。しかし欲望機械は、逆に、分子的要素の散逸の体制において生きるの だ。

【「ファルス」は人間の精神の発達を支配する原理として、万人にアプリオリに備わっているわけではなく、諸「機械」の集合体に後から 取って付けられたものです。 ただし、「ファルス」がいったん導入され、私たちの表象系の中に定着する と、これまで見てきたように、全ての欲望、あらゆる意味作用の中心であるかのように機能するようにな ります。事後的に取って付けられた〝中心"あるいは〝源泉〟です。
(仲正昌樹『アンチ・オイディプス入門講義』より)】

流れさせると同時に切断するという、無意識の真の活動は、まさに受動的総合そのものの中にある。 この受動的総合が、二つの異なる機能の相関的共存と置換を保証しているからである。いま二つの部 分対象につながるそれぞれの流れが、少なくとも部分的に重なり合っていると仮定しよう。
 この場合 には、これらの流れの生産は、流れを発する対象xや対象yと区別されたままであるが、しかし現前の領野は、流れに住みつき流れを切断する対象aや対象bとは区別されない。したがって、部分a 部分bとは、この観点からは識別されないものとなる(たとえば口と肛門、つまり拒食症 患者のロー肛門)。

【ドゥルーズたちは、「エディプス」のような構造・象徴化された主体抜きでも、 「機械」同士の水平的な 接続によって、「受動的総合」が行われると考えているようです。 無論、個々の有機体に縛られることな く、いろんな対象を部品にして作動する 「機械」がどうやって、一つのまとまりへと「総合」されていく のかという根本的な疑問はなかなか解消されませんが、 そこで「器官なき身体」がカギになってきます。 「身体」という物理的統一体があることによって、身体を基盤に作用する 「機械」同士の間に緩やかな繋 がりが生まれる、と考えることができます。 ドゥルーズたちは、次々と流れを作り出しては切断し、いろ んなところに分散・生成し、かつ接続する 「機械」 と、 「器官なき身体」を組み合わせることで、フッ サールの「受動的総合」を説明しようとしているわけです。拒食症で、 食べ物を口から排泄物のように排出してしまう人にとっては、口と肛門が、体の中から排出するという同じ 欲望の流れの中で作用する部分になっているわけです。 こういう風に二つの部分機械が、外から見て一 体になっている状態を、「受動的総合」だということになるでしょう。
(仲正昌樹『アンチ・オイディプス入門講義』より)】

器官なき身体は死のモデルである。ホラーの著者たちがよく理解していたように、死は緊張症のモデ ルになるのではない。 緊張症的な分裂症が死にモデルを与えるのである。まさにそれは強度=ゼロで ある。死のモデルが現われるのは、器官なき身体が器官を拒絶し廃棄するときである。口もなく、 舌もなく、歯もなく...... (...)。

【部分対象を媒体とする、ある意味、部分対象に憑依する 欲望機械による運動がなくなれば、私たちはヒトという生物としては死んでしまいます。
(仲正昌樹『アンチ・オイディプス入門講義』より)】

精神分析の冒険とは、何と奇妙なものだろう。精神分析は生の讃歌であるべきなのに。でなければ、 何の価値もないはずだ。 実践的に、それは私たちに生の歌を教えるべきであろう。
 ところが、精神分 析からは、最も悲しい死の歌が流れてくるのだ。最も崩壊した歌が。 あの子守歌 (エイアポペイア) が。 フロイトは始めから、欲動の頑固な二元論によって、リビドーとしての欲望の、主観的な生気に 溢れた本質の発見を制限しようとすることをやめなかった。 しかし、この二元論が、 <エロス〉に対立する死の本能の中に移行したとき、の制限ではなくて、その解消となったのだ。

【「死の歌」としての 「子守歌」というのは、 恐らく、近くを通る人の (大人 としての)理性を麻痺させ、退行させて死へと誘うセイレーンの歌のようなものを念頭に置いているので しょう。
(仲正昌樹『アンチ・オイディプス入門講義』より)】

ライヒは道を誤らなかった。 彼は、おそらく、次のように主張した唯ひとりのひとであった。精神分 析が生みだすのは、自由で快活な人間でなければならない。 生の流れをにない、それを荒野にまで運 んで脱コード化することのできる人間でなければならない、と。・・・・・・たとえ、こうした観念は、精神 分析の行く方を考慮すれば、必然的に気違いじみた観念に見えたとしても。
 ライヒは、フロイトが、 ユングやアドラーと同じく、性的な立場を放棄していたことを指摘した。 じじつ、死の本能を明示し たことは、少なくとも、不安の発生する本質的な点において、性愛からその原動力の役割を奪ってい る。なぜなら不安は、性の抑圧の結果ではなく、むしろその抑圧の自律的原因となるからだ。この結 果、欲望としての性愛は、もはや文明の社会的批判をかきたてるものではなくなり、むしろ逆に、文 明が、死の欲望に対立しうる唯一の審級として神聖化される。
 それはどのようにしてか。原則と して、死を死に逆行させることによって、この逆行した死をひとつの欲望の力とすることによってで ある。罪責感の文化を通じて、その力を擬似的生命に奉仕させることによってである・・・・・・。

【ここでもライヒを評価していますね。ライヒが「生の流れ 」 の 「脱コード化」に徹してい ことを評価しているわけですね。そのライヒが、ユングやアドラーの性的なリビドーを重視する立場から 離れていったのはよく知られていることですが、ライヒはフロイトもまた、「死への欲動」が根源的な欲 動であるという立場を取った時点で、エロス的な「生」の肯定という路線から外れていったことを見てとっていた、というわけです。
(仲正昌樹『アンチ・オイディプス入門講義』より)】


部分対象と器官なき身体は、分裂症的な欲望器官の二つの質料的要素である。一方は作動する部品として、他方は不動の推進器として。一方はミクロ分子として、他方はひとつの巨大分子として。ーーー欲望の分子的連鎖の両端にあって、この二つは連続関係にあり集合をなしている。


つまり精神分析は、公理系化された大地としてのソファと、成功した去勢としての「治療」の公理系にしか関心をもたないのだ。

死が脱コード化されると同時に、死はモデルや経験との関係を失って本能になり、つまり内在的シス テムの中に伝播することになる。これにおいては、生産のすべての行為が、反生産の審級としての資 本に分かち難く巻き込まれる。
 コードが破壊されているところでは、死の本能が抑制装置を奪取し、 リビドーの循環を誘導し始める。 これは死の公理系である。 ここでは、欲望が解放されたように見え ても、欲望は、屍のように、イメージで身を養っているのだ。 ひとは死を欲望しているのではない。 そうではなくて、ひとが欲望するものが死んでいる。すでに死んでいる。
 つまり、イメージにすぎな いのだ。あらゆるものが死において働き、 あらゆるものが死に代わって欲望することになる。 ほんと うは資本主義は、 何も収拾すべきものをもってはいない。 あるいはむしろ、その収拾の能力は、きわ めてしばしば、収拾すべきものと共存し、またそれに先んじていることさえある(…)。

【脱コード化され、モデルや経験との 関係を失った「死」が「本能」になるというのは、「死」が社会的な意味付けを失って、各人を個別に脅 かすもの、まるで個人に内在する〝本能" であるかのようになった、ということでしょう。
(仲正昌樹『アンチ・オイディプス入門講義』より)】

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