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X(旧Twitter)でのヘイトスピーチを見て自分自身を振り返りました

大王製紙の元会長でカジノで大負けしたことで有名となった井川意高さんと芸能人水道橋博士さんがX(旧Twitter)でお互いヘイトスピーチのバトルを繰り広げられていた。このところ静かになっていますが。

井川さん側のポストのコメントで気になったのが、「水道橋博士は、大学は中退だし、芸能活動も中途半端で、参議院議員も何もせぬまま止めたような人だ」というものでした。

このコメントにはグサッときた。自分自身を振り返ってみると、まさにこの言葉があてはまると思ったからです。

若いころに、フランス映画「禁じられた遊び」の主題歌がバックミュージックとして流れていることに惹かれ、この曲を演奏できるようになりたいという思いで、大学入学時にクラッシックギター部に入部した。

何ヶ月かは、演奏するための基礎練習はしたが、これが苦痛だったので、独力で、楽譜見ながら、必死で「禁じられた遊び」を練習してみた。

どれぐらいかかったのかは忘れたが、おそらく1月ぐらいはかかったでしょう。何とか左右の指が動くようになり、親戚の家に出かけていって、得意げに演奏したものでした。

こうなると、もうクラブは、やってられないとばかりに退部した。これが、結局、禍いとなり、演奏できるのは、この曲含めて10曲ぐらいでした。それは、基礎をしっかりと身につけてなかったからだと思います。ようするに中途半端だということでした。

言い訳も考えていました。指が短く、爪も割れやすいというものです。これがあるから、練習を怠ったというわけです。退部してから数年後には、すっかり演奏できなくなっていました。(実は、7年前に発奮して、再び練習し「禁じられた遊び」だけは弾けるようになりました。)

クラッシックギターが弾けるのだというミエもあってーーまた高価なせいもあってーー当時流行り始めていたエレキギターに手を出すのを控えていた。

エレキギターであれば、ピックを使えば爪を気にせずにすみ、ネック部分はクラッシックギターに比べるとかなりの細目なので、指の長さも気にしなくてすむにもかかわらずにです。

ベンチャーズが演奏する「ダイヤモンド・ヘッド」のタカタカタカタカという甲高い音を左指を滑らせて行う手法には憧れていたが、ポップス系は好きではなかった。

クラッシックといっても、総じてギター絡みの曲だけであり、聴いたり歌うのが好きだったのは、もっぱら歌謡曲だった。

歌謡曲が好きだといっても、ーー私が感じていただけかもしれませんがーー大ぴらに広言できないという時代の雰囲気があった。

この当時はジャズ喫茶店が流行っていたので、そこに通ううちに、ジャズを好むようになった。

ジャズギターのリズム感とアドリブ感には圧倒的なものがあるので、さすがに演奏してみようという気にはなれなかった。

以上、自分語りとなってしまいました。

昨日から村上春樹著『職業としての小説家』を読んでいます。その中で、春樹は、「村上さんはどのような読者を想定して小説を書いているのですか?」と質問されたときに、どのように答えて良いか迷うようですが、特に誰かのために小説を書いているという意識は、元々なくて、自分のために書いている、と語っています。

一方、noteの中には、「アクセス数を増やすには、自分が書きたいものだけではなくて、読者の目線を考慮しなければならない、なぜならば、誰も読まない記事などは、何の価値もないからです」、みたいな説教文をしばしば見受けます。

この説には、ごもっともと納得しつつも、春樹の発言も筋が通っていると思っている。売れるようになってからではなくて、小説を書き始めたときからこの姿勢だと述べています。今回は、この発言に触発されて、記事を書いています。

Xのタイムラインを眺めていると、どうしてこうも、反目し合えるものかと常々不思議な気持ちでいる。そして、お互いのフォロワーたちも、ヒートアップしている。貴重なエネルギーをこんな瑣末なことに費やしていることに、なんと無駄で、嘆かわしいことをしているのだと思っている次第です。

そういう、私も、タイムラインを眺めるという無駄なことをしているのだとなりますね。眺めるのを止めます、と断言できないのは、習性化されているからでしょうか。記事を書きながらでも、無意識にスマホを手にしているという習性は根深いものがあります。

側に置かなければよいだけのことですが、辞書がわりに手元に置かざるをえないのです。高齢者ともなると、ちょっとした事柄が出てこないことがしょっちゅうですので・・・

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