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下町兄弟三十周年

下町兄弟は、今から三十年前の1991年当時に、Alfa Recordsに所属していたMotomyと、同じくAlfa Recordsで活動していたトラックメイカーのHit’Cの2人が出会い、翌1992年にHipHop/Rapユニットである【下町兄弟】を結成し、インディーズレーベル【シバウラレコード】を立ち上げ、活動を開始した。まだお互いに二十代だった頃の話である。

ユニット名の由来は、二人の出身が東京下町の為、東京の東側を拠点とした歌詞のテーマが多く、独自のフローでシニカルな歌詞とテーマを個性に、所謂一連の日本のHipHopブームの流れとは一線を引いた立ち位置で唯一無二の存在としてキャリアを築いている。

二人はその後、別々の道を歩み始め、Motomyは下町兄弟・BANANA ICEとしてシバウラレコードを牽引し、現在も音楽家として活動し、数々の作品を創作し続け、私はバンドを組むように数々のベンチャー企業を創業してきた。そして面白いことに、下町兄弟はとくに二人での音楽活動が活発なわけでもないのに、未だ解散をしていない。
往生際が悪い二人は、この先も解散することは無いだろう。

少し話はそれるのだが、私が本格的に音楽を始めるようになった頃、ある意味で多大なる影響を受けたローカルコミュニティのミュージシャン達がいる。そのうちの一人は自称「ファンクの神の子」と名乗るギタリストのタカシマさん。彼は私が知る限りヴィンテージギターとファンクレコードの知識では右に出るものが居ない、フランク・ザッパ似の一風変わった人物だった。イヤホンをするでもなく、脳内ファンクのリズムでギターのカッティングの仕草をしながらノリノリで歩いてくるので、吉祥寺のサンロードを歩いていても、100メートル先からでもすぐに分かる。
井の頭通り沿いにあった楽器屋ロックインでギターの試奏をしようものなら、フルテンノリノリでSly&The Family StoneののThank youを弾き出し、こちらの顔を見ながら「ベース、入ってこい!」みたいな素振りをしてくるので少し面倒くさい人だった。

しばらくして彼はレアなヴィンテージギターショップを始め、自宅にも数々のお宝レベルのレスポールやストラトキャスターなどのレアギターとファンクのレコードを溜め込んでいた。
ところがある日、彼の家が出火元で火事を出してしまい、経年変化でよく乾いたギター達は燃え尽きてしまった。私のところにも本人から「大変なことになってしまった・・・」という電話が来て、すぐに駆け付けた。現場に行くと割と呑気な顔で「これだけ奇跡的に残ったんだよ」と一枚のアルバムを持って立っていた。それがオハイオ・プレイヤーズの「FIRE」というアルバムで、「やっぱり俺はファンクの申し子だった」と言ってのけたのが今でも脳裏に焼き付いている。
彼は私財を犠牲にしてまで私にファンクの真髄を教えてくれたのだった。

そして、後に分かった事なのだが、このタカシマさんという人物は、偶然にもMotomyが通っていた高校の先輩だという事が判明した。首を振りながら歩く姿が鳥類のチャボに似ていたことから、当時のあだ名は「チャボ」と呼ばれていたという事だった。我々二人の邂逅である。

もう一人、ドラムの『せいちゃん』という人も居た。
彼の話も長くなるので『せいちゃん』についてはこちらを参照して欲しい

武蔵境の油そば

芝浦レコードの立ち上げ当時、まだ若かった二人は思いつきと勢いで「自分で作ったものは自分で売る」をスローガンとして掲げ、レコーディングはもっぱら北新宿の自宅アパートで深夜に隣近所の目を気にしながら布団を被ってラップを録音し、風呂場でナチュラルリバーブを施し、出来上がった音源と盤面に印字してもらう文言を韓国のレコード工場に送ってプレスを依頼したものの、当時はデジタル入稿なんてのは無く、レーベル面には誤植で「芝蒲レコード」と印刷されたレコード盤が数千枚届いてしまった。
芝浦ではなく『シバカバ』か『シバガマ』である。
それを必死で捌くところから始まった。

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1991年に初めてリリースしたレコードのジャケットは、ただの白い紙にMacintosh標準搭載フォントのChicagoで「TOKYO SHIBAURA RECORDS」と書かれただけの簡素なものだった。そして下町兄弟のユニット名を思いつく前は「NINJAMUSHI」だった。二人で曲を作っていたときに、敵から攻撃を受けると尻から煙のようなものを出して逃げる「ニンジャ虫」というのが居るというような話をテレビか何かでやっていて、爆笑しながらその名前にした記憶があるのだが、今になっていくらググってもそんな虫の情報は出てこない。あれはなんだったんだろうか

現在のレーベル名は「シバウラレコード」だが、最初は東京芝浦レコードと名乗っていた時期があった。ところが某大手電気メーカーからフワッと怒られてしまったので、シバウラレコードに改名することになった。シバウラレコードからリリースされている作品の規格番号がTSR-XXXで始まっているのは、実はその名残りなのである。

シバウラレコードのロゴマークやジャケットのデザインはAdobeのIllustrator 3.0を使ってデザインをした。当時使用していたコンピューターは中古で購入したApple Macintosh IIciに後付けでVimageというフルカラーグラフィックボードを積んだマシンだった。
それまではMacintosh SE/30というモノクロ画面のマシンで色を想像しながらデザイン作業をしていたので、色を確認しながら作業が出来るというのはイノベーションな出来事だった。なにしろそこらの絵の具や色鉛筆よりも圧倒的に多い1670万色も出るのだ。当時は「色って、そんなにあるんだな」とさえ思った。

あの頃は、メシと風呂とトイレ以外は毎日が朝まで音楽まみれの生活で、良いビートやフレーズが出るまでずっと楽器の前で作業をしていた。
当時の下町兄弟作品サウンドの要は、AKAI ProfessionalのMPC-60
このリンク先動画で語っているおっさんが、開発者のRoger Linn先生。

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ドラムマシン開発の神であるRoger Linn先生が開発に関わり、日本メーカーであるAKAIが世に放ち、後の音楽シーンを塗り替えた名機である。
先程のRoger Linnの姿を見てもらうと分かるのだが、こんな普通の、どちらかと言うと冴えないおっさんがアーティストに多大なる影響を与え、音楽シーンを一変させたのだ。エレキギターで有名なフェンダー創設者のレオ・フェンダーだってそうだ。なので俺たちに出来ないわけが無いと本気で思っていた。

当時の私はインペグ屋から借りたLINN DrumやLINN 9000を頻繁にレコーディングで使用していた。LINN Drumのサウンドは往年の数々の名曲で聴くこと出来る。

LINN DRUM

そんなこともあり、MPC-60の発売前にAKAIからデモの音源を制作する仕事が入ってきて、恐らく誰よりも早く、バグだらけの本機を使用させてもらっていた。MPCにはShuffle機能がついており、ツマミを調整してグルーヴを可変させ、スイングさせることができた。要するに16分音符で数えた2個目の拍(2・4・6・8・・・)を微妙にずらしてグルーブを調整して行くのだ。50%はベタ打ちの正確なビート。ここから1%刻みでずらしグルーヴを作ることが出来る。私は62%がドンピシャ好みなグルーヴだった。これがとても気持ち良くて、テディ・ライリー風のニュージャックスイングなノリを作ることが出来た。

AKAIのMPC-60とS-900に片っ端からサンプリングをして、音を切り刻んでブレイクビーツを作り、重ねたりずらしたりしながらビートを作っていくと、途中から何が正解なのかすら分からなくなってくるのだが、突如としてマジックのような事が起こり、妙に気持ちの良いグルーヴが聴こえ始める。
その瞬間を我々は「ついに神が降りてきた」と表現していた。

下町兄弟のファーストアルバムの何曲かは、目黒の古いスタジオVIVID SOUND STUDIOで数日間かけてレコーディングをした。
それまで下町兄弟の楽曲は殆どが打ち込みで制作(コンピューターを駆使して制作)していたのだが、そもそもMotomyはドラマー、私はベーシストなので「1回ナマでやってみたい」という中二男子の妄想のような思いつきでスタジオレコーディングをすることになったのだった。
レコーディングには一芸を持ったプロフェッショナルから素人まで、多くの友人達が集い、それは楽しいレコーディングだった。

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このアルバムのジャケットの写真は、高校時代の友人でフォトグラファーを目指していた加藤くんにお願いして調布だったかどこかのカラオケボックスで撮ってもらった。学生時代の加藤くんは「ドラゴン加藤」と呼ばれ、なかなかの不良少年だったのだが、何故だか急にカメラに目覚め、借金をして高額な機材を揃えてフォトグラファーを目指したとたんに、出来ちゃった結婚をしたナイスガイだった。もしかしたら今頃は孫がいるのかもしれない。

私はこのアルバム以降、下町兄弟やミュージシャンとしての活動をしながらマルチメディアやネット関係の仕事を始め、数年かけて徐々に音楽業界の仕事から離れていった。相方のMotomyとは、それぞれの人生を歩んで行く途中で何度かセッションをしたり、一緒に酒を飲んだり、バカな話をしたり、若い頃にはしたことのなかった健康の話をするようになったり、私の会社でオンラインゲームを開発した時には、そのゲームのサウンドトラックを一緒に作ったこともあった。この十年ぐらいはSNSなんて便利なテクノロジーが登場したおかげで、お互い元気でやってる様子を確認をするようになった。

数年前にMotomyが仕事で金沢に来た際に久々に会って、なんとなく「そろそろまた一緒に新曲でも作りたいね」という話をした。

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そう言い出して日々の仕事に追われているうちに月日は流れて、お互い五十代半ばに差し掛かり、世界はある日突然に妙なウィルスのせいで一変してしまった。自由に出歩くことも出来ずに居たときに、ふと「ああそう言えば今年は三十周年だったな」と思い出し、やっぱりここらで何かやりたいなと思った。思い立ったらすぐに行動する癖は、あの頃と何も変わっていなかった。そして直ぐに連絡をとり、500キロ離れた場所で数日間、遠隔で音や詩のやりとりをしながら、この曲が出来上がった。
僕らもトシをとって、あまり考えたこともなかった「人生」なんてものを考えるようになった。若かった頃の僕らはもうここには居ない。でも中身はあの頃と大して変わっちゃいない。ノスタルジーではないけれども、あの頃を思い出して人生を振り返りながら作った。

曲のタイトルは『Lifetime』。
出来れば、たくさんの人に聴いて欲しい。

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新曲『Lifetime』は、こちらでご試聴頂けます。
https://dtb.life

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また、BEAMS JAPANにて2021/6/11 - 6/30まで、下町兄弟ポップアップショップを展開してます。結成当時の雑誌記事や、前記した誤植ジャケットのファーストプレスのアナログ盤の展示、BEAMSさんに作って頂いたオリジナルTシャツとキャップの販売、また金沢のseccaが作ったライム湯呑みの他、限定30本の『Lifetime』を収録したシリアルナンバー入りのカセットテープを販売しています。感染対策にご留意の上、是非お越し頂けたら幸いです。
https://www.beams.co.jp/news/2496/

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最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
そして皆さん、健やかに。

Hit'C

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