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創作と表現と、調整という仕事の持つ意味。

どうも、体調が優れない日が続いている。
寒がりなので暖冬はありがたいはずなのに、なぜかスッキリしない。
週末にはぐったり疲れてしまい、家にこもってテレビや読書ばかりしている。

そこでちょっと気になったのが、最近の創作する側と表現し売る側の揉め事。
わたしはあまり漫画もドラマも見ないけど、今回、作家が死を選ぶところにまで追い込まれた事にはショックを受けた。

小説や漫画が原作の映像作品はよくあるけれど、作品の良し悪しを決めるポイントは「原作に忠実であるか」ではないのは確かだ。黒澤明の「羅生門」なんて、芥川の羅生門とは何の関係もないしね(映画の原作となったのは「藪の中」)。でも映画としての評価はとても高い。逆に、原作を忠実に再現した映像作品が「動く絵本」と低評価されるのもよくある話だ。

文学や漫画も、優れた表現者が独自に原作を解釈し、新たなコンテンツとして命を吹き込んでくれる事が理想だろう。音楽の世界で創作者:クインシー・ジョーンズと表現者:マイケル・ジャクソンが社会を変えるようなものすごい作品を生み出した様に。

孤高の天才はひたすら創作に励み、表現者はそれを誰もが楽しめるものに整える。どちらの仕事にも価値があるし、どちらが欠けても私たちの日常は色褪せるはず。ただ作品を徹底的に管理したい原作者と、クールごとに番組を作って放送しなければならないテレビ局のエゴは必ずぶつかる。そこでコーディネーターや調整役という仕事が意味を持つのだ。

ただ(エンタメ業界に限ったことではないけれど)直接的に稼げる訳ではない調整役が軽んじられているここ最近、同じような悲劇がまた起きてしまうような不安が拭えない。

なんでもできる神の様な人が実在して、その人を崇拝し(推し)ていれば間違いないと思いたい気持ちは分かるけど、本当に優れたコンテンツって、以外に多くの人の手が加わっている事を忘れずにいたい。

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