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ラグビー戦術の歩み<5>:ワイドライン戦法(4)

1990年代後半、低迷を続けた早稲田大学が乾坤一擲を期して考案したワイドライン戦法。最初の年、シーズン最後の日本選手権、トヨタ自動車戦でその可能性の一端が示されました。

ワイドライン戦法の最期

 しかしながら、最終的にワイドライン戦法は成果をもたらしませんでした。

 小森主将が率いた翌年の1999年シーズンは、早慶戦で21-29、早明戦で10-27と連敗。かろうじて出場した大学選手権でも、2回戦で同志社大学に対して6-43と惨敗し、年越しができないという惨状でした。この結果から日比野弘氏は退任、後を益子俊志氏が継ぎます。

 この時の雰囲気も『ナンバー』の記事から引いてみましょう。

『ナンバー』2000年2月10日号、時見宗和「早稲田大学『継承』」。

 言うまでもなく戦術は勝つための1つの方法であって、それ自体が目的ではない。そして戦術を遂行することと勝つことは、必ずしも一致しない。

(中略)

 もしも勝利を最優先するなら、戦術を投げ捨ててでも混沌に付き合い、勝負に徹することが必要なのだろうが、小森組はそうした状況においても、なお戦術を追求しようとしていたかのように思える。結果としてそうなってしまったのか、あるいはあえてそうしたのかはわからないが、いずれにせよ、閉塞感の漂う日本のラグビーにあって、オリジナリティと世界につながる可能性のあるクイック・アンド・ワイドは十分すぎるほど魅力的な戦術であったと思う。

 ここでいう「閉塞感の漂う日本ラグビー」というのは今の感覚では理解できないかもしれません。

 けれど、1995年ワールドカップでは145点を失う無様な試合を見せ、1999年ワールドカップの平尾ジャパンもなすすべもなく3連敗。国内では早明人気にも陰りが見え国立競技場では空席が目立つようになり、社会人は外国人パワー頼みのゴリゴリした退屈な試合展開。文字通りの「閉塞感」がラグビーファンを覆っていたのです(トップリーグ発足前ですから、「サントリー対トヨタ」とか「東芝対神戸製鋼」といった試合は社会人選手権でたまたま当たったときしか見られなかった時代です)。

 そんな時代に、「これが上手くいけばジャパンが世界で戦えるかもしれない」という期待を一部から集めたのがワイドライン戦法だったのです。

 そういうこともあってか、益子監督はワイドライン戦法を継承し、早慶戦では10-31と敗れるものの早明戦では46-35で勝利。トヨタ戦の前半を除けば、ワイドライン戦法におけるベストゲームで、最後はスタミナ勝負に持ち込んで走り勝った試合でした。

 しかし大学選手権では2回戦で関東学院と対戦して25-38の敗北。2年続けて正月を迎えられないという惨状でした。そしてこの試合を最後に益子氏が退任し、清宮克幸氏が監督に就任します。

ワイドライン戦法と清宮時代の早稲田

 清宮監督はワイドラインではなくよりオーソドックスな戦い方を取り、2001年シーズンは対抗戦で優勝、2002年シーズンは大学選手権で優勝します。

 ただ、ワイドライン戦法を試みた3年間が無駄だったわけではありません。この時期、清宮氏は、「前の監督がフィットネスとパススキルを鍛えてくれていたから勝てた」という意味の発言をしており、ワイドライン戦法のための練習が最後に実を結んだことがうかがえます。

ワイドライン戦法の限界

 このワイドライン戦法、理屈は正しいように思われるのですが、なぜ上手くいかなかったのでしょうか。

 理由は2つ考えられます。

 まず第1は、フォワードがあまりに弱すぎたことです。この当時の早稲田の対戦相手にはバックスにボールが回らないようにしてフォワード勝負するという選択肢が常にありました。この当時の早稲田のフォワードは、そうなったときに抵抗力があまりに弱すぎました。

 この後を継いだ清宮監督が結果を出したのは、ラグビーの基本、フォワードの強化に本格的に取り組んだからです。強化されたフォワードと、ワイドライン戦法のロングパスのスキル、高いレベルのフィットネスが結びついて、早稲田は黄金時代を迎えることになります。

 もう1つは、ルールの変更です。昔のラグビーは、現在と異なり、戦術的交代が認められませんでした。負傷でもない限り、先発の15人で最後まで戦い切らなければならなかったのです。それが、90年代半ばに、戦術的交代が認められるようになります。そうなると、運動量の負荷を上げて最後の20分にフィットネスの差で競り勝つ、というワイドライン戦法の1つの柱が機能しなくなります。実際、トヨタ自動車と対戦した日本選手権でも、トヨタは7人の選手を交代させています。

ワイドライン戦法に秘められた可能性

 ワイドライン戦法は、ショートライン戦術全盛時に、完全にオリジナルな発想から取り組んだ戦術でした(なお、ワイドライン「戦術」と呼ばずに「戦法」と呼んでいるのは、当時の呼び方に基づいています)。

 しかし、それに追随するチームは日本のどこにもなく、なによりも直接的に結果につながらなかったのは厳然たる事実です。それでもなお、私はワイドライン戦法は日本のラグビー戦術史の中で重要な意味を持つと思うのです。

 ワイドライン戦法に必要となるロングパスのスキルと高いレベルのフィットネスが現代ラグビーに不可欠であることは、清宮克幸氏の優勝後の発言からも明らかで、そこからみても、大まかな方向性は間違っていなかったといえます。

 そしてそれだけでなく、ワイドライン戦法には現代ラグビー戦術の基本であるポッド戦術につながる萌芽を見ることができるのです。

 ここでワイドライン戦術の手順をおさらいしてみます。

(1) ブラインドサイドを突いて、エッジ(タッチラインから10mの幅)にブレイクダウンを作る。
(2) アタックラインは広い間隔を取り、反対側のエッジまで選手を配置する。
(3) ボールを出したら、チャンネル2あたりで正面を突いて、ステップを踏んでわずかでもゲインを稼ぐ。
(4) オフサイドラインを押し下げ、相手のディフェンスのポジションが再編される前のわずかな時間にボールを出す
(5) これを繰り返し、最終的にはスペースを使ってトライを狙う。

というものです。このプロセスは、実は今のポッド戦術とほとんど同じです。

 また、2年目の1999年シーズンの『ラグビーマガジン』を見てみると、こんな記述があります。(今日の表紙に上げた帝京戦の記事からです)

去年から取り組んでいるワイドライン。各チームともその対策としてFWをBKラインに立たせて、人数で対応しようとしてきている。

 つまり、早稲田の対戦チームは、流れの中からということではなく、意図的にディフェンスラインにフォワードを立たせるようになってきたと言うことです。そうなると、次に早稲田が対応するのは、ワイドなアタックラインにフォワードを意図的に立たせることだったはずです。

 この「意図的」という部分を詰めていけば、フォワードのポジショニングを縦方向のレーンに沿って決めるアイデアが出てくるのは自然です。そうなればまさに現代のポッド戦術そのものです。そう考えると、ワイドライン戦法の延長線上に今のポッド戦術と似たような攻撃システムが浮かび上がって来る可能性は高かったと考えられます。

 そう考えると、ワイドラインをもっと突き詰めていったら、現代ラグビーの基本戦術であるポッド戦術が、日本発の概念として生まれてきた可能性があると思うのです。そう思って、未完の戦術ではあるものの、ここで取り上げることにしました。

世界のラグビーは?

 この間、世界のラグビーも進んでいます。日本の主要チームがショートライン戦術を採用し、早稲田がワイドライン戦法を試している間、世界のラグビーのディフェンスシステムは大幅な進歩を遂げることになります。「シールドロック」の出現です。

(続く)