井戸の底 (修正)

 わたしになる、という短いコピーが、目をつむった少女の広い額に細い字で印刷されている。反射的に私は額を強く手で擦った。
 どこかで知っている顔だ、と思った。子どもの頃観た映画に出ていたような気もしたし、ついさっき降りた列車の、向かいの席のひとが開いていた雑誌の表紙がこの少女だったような気もした。
 何もない部屋だった。私は湿った光沢のある真っ白な壁を眺め、少女の写るポスターを眺め、高い位置に掛けられた時計の滑らかに動き続ける秒針を眺め、首から下げた小さな鍵を眺めた。
 郵送された案内に荷物は持って来ないようにと書いてあって、貴重品も受付でみんな預けてしまった。鍵に結わえてある正方形の小さな紙札に、青いインクで私の名前が書かれている。
 ぎゅ、と強く瞬きをした。ロッカーの鍵が掛けられた瞬間ずきずきと走った目の奥の痛みが、まだ微かに残っていた。
 長い時間そうやって過ごしたあと、いつの間にかそこにいた濃い灰色のスーツ姿の女が、私の名前を呼んだ。

 天井の高い廊下を抜け、階段を上り、揃えた指先で示されるままに並んだドアの一枚を開いた。
 けたたましい部屋だ、と思った。たった今まで誰かがいたような気配があった。そう広くない室内にはさまざまなものが雑然と散らかっていて、足を踏み入れるのに少し躊躇した。
 女は平坦な話し方で私を励まし、一礼すると出て行った。鍵を掛ける音がして、足音が静かに遠ざかった。
 正面の鮮やかな赤い壁の中央にはスクリーンが設置され、かわるがわる市街地や田園、地下鉄のホームや涼しげな川辺を映している。その脇には金属製の大きな扉があり、開いてみるとダストシュートらしかった。
 隅に寄せて置かれたベッドには熱帯植物のびっしりと描かれたカバーが掛かっていて、皺の寄った包装紙とリボンが層になっていた。その脇の背の低い机には判型の違う本がちぐはぐに高く積まれており、数冊手に取って捲ってみたが、中身はどれも白紙だった。
 壁は四面きっぱりと塗り分けられていた。スクリーンのある壁のほかには、どれも同じ、額に入った例の標語が掲げられていた。
 ぐるりと見渡してもどこまでも息苦しく埋め尽くされた部屋から、ようやくもののないわずかな隙間を見つけて、そこへ顔を背けながら私はベッドに腰を下ろした。

 少しそのまま座って、足を組み、咳払いをして、ぼうっとスクリーンを眺めてみたがやはり落ち着かなかった。視線を落とすと足元に見慣れない煙草の空き箱が転がっていて、私はまず、手近なところから始めることにした。

 犇、という字で始まるその単語に見覚えはなく、何と読むのかも自信がなかった。しばらくその小さな箱を裏返したり、中を覗いてみたりしたが、何も思い出さず、何も感じることはなかった。
 これは明らかに私には縁のないもので、だからこれは私ではない。
 わたしになる、身を削いでわたしになる。
 自分の手のひらと箱との間にナイフを差し入れる想像をしながら、私は繰り返し何度も同じ言葉を心の中で唱えた。薄い刃は少しも引っ掛かることなく、滑るように削ぎ取っていった。
 そっと握り潰してみたが、痛みはなかった。
 くしゃくしゃになった空き箱をダストシュートへ投げ入れると、どこからか微かに鈴の音がした。
 私はそのまま、目に付くものを端から削いでいった。

 歩行者用信号の写真は簡単だった。縫い目の粗いぬいぐるみは少し耳が痛かった。自転車のタイヤと水色の手袋からは血が玉になってこぼれたが、シーツにできたその小さな染みは剥がれるように私から削がれて消えた。

 鈴の音は徐々にはっきり聞こえるようになっていった。
 削げば削ぐほど私は身軽になり、部屋からはものが消え呼吸は楽になった。スクリーンを投げ捨て、額入りの標語を捨て、ベッドと机も捨てて、気が付けばもう部屋には何も残っていなかった。
 私はすっきりした床の真ん中に膝を抱えて、愛想のない女が戻って来るのを待った。しかし、いくら待っても誰も来なかった。
 ノブを捻ってみたがドアは開かず、少し迷って声を掛けてみたが返事はなかった。静かな部屋を振り返って、私は途方に暮れた。そこで初めて、首から下げたままの鍵のことを思い出した。
 私ではないものを、削がなくてはならない。
 手の中に握ると、鍵はあっという間に体温を真似てあたたかくなった。しかし、これは私ではなかった。
 綺麗に整った字で書かれた私の名前を見つめ、強く握った手の痛みを感じながら、少しの間動けずにいた。しかしこれは、私ではなかった。
 わたしになる、わたしになる。
 ナイフの冷たい刃が、腕を撫で上げていった。頭を押さえつけられるような目眩と吐き気に襲われながら、ダストシュートの扉を開け、私は目をつむって小さな鍵を放り込んだ。
 鈴の音がした。
 一際大きな鈴の音がして、なにもない空間でいつまでも響いていた。

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