デリダ「詩とはなにか」より

「そこでただちに、以下のとおり、ほんの二言ほどで――忘れないために――、答えを記そう。
 一、記憶の節約(エコノミー)ということ。一篇の詩(ポエム)は、その客観的な、あるいは外見上の長さがどれほどであろうと、まさにその省略的という使命からして簡潔でなければならない。圧縮Verdichtungと引きこもりretraitの、博識なる無意識。
 二、心ということ。といっても、高速道路のインターチェンジの上を危険もなく往来し、そこであらゆる言語に翻訳されるような文章たちの真ん中にある核心というわけではない。また単に心拍記録法(カルジオグラフィー)の文書における心臓ではない、つまりさまざまな知の対象、あるいは諸種の技術の、哲学の、そして生命‐倫理‐法律的な言説の対象ではない。おそらくは「聖書」における心でも、パスカルの語る心でもない。さらには――この点はそれほど確信を込めては言えないにせよ――、いま挙げた心よりもハイデガーがさらにいっそう好ましいとみなすような心でさえない。そうではなく、〈心〉の、ある一つの歴史=物語だ、つまり「暗記する・暗唱する〔心を通じて学ぶ〕」という固有語法のうちに、詩的なかたちで包み込まれているような歴史=物語だ。そういう固有語法は私の母国語にあるのだが、また他の言語にも――英語(to learn by heart)――あり、さらにはもっと別の言語にも――アラブ語(hafiza a'n zahri kalb)――ある。いわばそれは、ある唯一の行程なのだが、そこを行くにはいくつもの道がある、とでもいうかのようだ。」(250)

「「心を通じて」の記憶は、これは一層確かなことだが、祈りのように、自動機械のもつある種の外面性に、記憶技術の諸法則に、記憶装置の擬態を表層で演ずる典礼に、きみの情熱の意表を突き、外部からのようにきみの上へとやって来る自動車に身をまかす。ドイツ語で《par cœur》に当たるのはauswendigだ。」(252~235)

ジャック・デリダ「詩とはなにか」湯浅博雄/鵜飼哲訳、『フランスの現代詩』思潮社、1990年、248~258ページ。

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