ベルクソン『物質と記憶』より
「この問いに答えるために、意識的知覚が生じる条件を、まずは非常に単純化しよう。実際上は、記憶の染み込んでいない知覚など存在しない。感官の直接的な現在の与件に、われわれは過去の経験の細部を無数に混ぜ込んでいる。ほとんどの場合、そうした記憶のほうが現実の知覚に取って代わってしまい、そうなると知覚のうちでわれわれが保持するのは、何らかの標識、過去の古いイマージュを想起させるただの「記号」ばかりとなる。このことと引き換えに知覚は便利かつ素早いものになるわけだが、ここからは実に多様な錯覚も生じてくるのである。そこで、われわれの過去がすっかり染み込んだこのような知覚の代わりに、すでにしっかり成熟してはいるが、現在のうちに閉じ込められ、外的対象に合わせて自分をかたどる仕事にひたすら没頭して、他の作業はいっさい行わない意識がもつような知覚を考えても構うまい。恣意的な仮説を立てている、個人的なあれこれの偶然的要素を消し去って得られるそんな理念的な知覚はもう何ら実在に対応しない、と反論されるだろうか。しかし、われわれがまさに示したいのは、個人ごとの偶然的諸要素はこの非個人的な知覚の上に接ぎ木されるのだということ、事物についてのわれわれの認識の土台そのものにはこの非個人的な知覚が存在していること、そしてこの知覚をきちんと捉えず、記憶力がそれに加えたりそこから差し引いたりするものからはっきり区別しなかったために、知覚というものが一種の内的で主観的なヴィジョン、より強いという以外には記憶と何ら異ならないようなヴィジョンにされてしまったということなのだ。以上が、われわれの第一の仮説になるだろう。しかし、当然、それはもう一つの仮説を引き連れてくる。実際、いかに短いものと想定しても、知覚は常に一定の持続を占めるのであり、したがってそれは複数の瞬間を互いのうちへと引き延ばす記憶力の努力を前提としている。そればかりか、またあとで示そうと思うが、感覚的性質のいわゆる「主観性」は、われわれの記憶力が行うところの、言うならば実在の凝縮にとりわけ由来するのである。要するに、記憶力こそが、直接的知覚という基盤をさまざまな記憶の層で覆い、かつ多数の瞬間を凝縮するという二つの形をとりながら、知覚の中で個々の意識の側から提供される主な部分、すなわちわれわれの事物認識の主観的側面を作っているのだ。われわれは考えをはっきり示すためにこうした提供分は無視するわけだが、そのせいで、自分で選んだ道を適切な限度のはるか先にまで進んでいくことにはなる。しかし、あとでまた引き返して、特に記憶力をもう一度話に組み込み、われわれの結論のいきすぎたところを修正すればよいだけのことだ。」
アンリ・ベルクソン『物質と記憶』杉山直樹訳、講談社学術文庫、2019年、43~45ページ。