仮講義「松浦寿輝の〈フーコー・ドゥルーズ・デリダ〉」(Leçon 13)

「ところでここに、一見これらの語(それらはまさに一つの「系列〔セリー〕を成している)と関わりのなさそうな一つの語がある――ふつう「浜辺」「砂浜」を意味するplageだ。すでに見た失語症患者についての条りの直後には、患者の試みるあやふやな分類らしきもの(明色の毛糸、ウールらしいふわふわしたもの、長いもの、毛玉になったもの、など)の支えとなっているものが「同一性のプラージュ」と呼ばれている(これは先に見た、「タブロー」ないし「ターブル」とほとんど同義と見てよい)。同じ本の中で、古典期の文法において特権的な地位を与えられていた存在動詞êtreに対し、それを中心としそれに従属する他の諸品詞が「プラージュ」と呼ばれ、また別の個所には、「歴史(学)は、ひとも知るように、われわれの記憶の最も博学な、最もわきまえのある、最も目覚めた、たぶん最もすし詰めになったプラージュである」と読まれ、さらには、「人間」の兄弟であり雙児である〈他〔オートル〕〉としての、「考えられざるもの」(l'impensé――例えば、「無意識」もその一つの名だ)が、「プラージュ」と呼ばれている――「ひとが好んで人間の中の深淵的な地帯として解釈する、このほの暗いプラージュ(……)それは人間にとって外的であると同時に不可欠なものである。)――この条りにはまた立ち戻ることになろう。また、『レーモン・ルーセル』にもこの語はさかんに用いられているが、一例にとどめると、『新・アフリカの印象』に出てくる、類似した物のグループ分けが「プラージュ」と呼ばれており、ある研究者がそれを「系列〔セリー〕」と名づけたのは正しい、とフーコーは言っている。これらの例における「プラージュ」という語の用法はかなりまちまちのようだが、それはまず何よりも地質学の用語――「平面」ないし「表層」と訳せよう――に近いと思われる。そこから読みとれるのは次のことだ――「プラージュ」はまず、言語による命名、分類の作業が、さらには言語活動一般が行われる支えとなる無色の拡がり(砂浜を思わせる)であり、謂わば言語という系列〔セリー〕の系列〔セリー〕である(「タブロー」が、そのあらゆる意味で「諸系列〔セリー〕の系列〔セリー〕」とされていることを思い出しておこう)。だが一方、この語はそのような支えの上に拡げられる言語そのもの――ただし、「人間」にとっての還元不能な「外」ないし「他者」としての――をも指している。要するにそれは、場合によって、言語と言語ならざるものとをひとしく指しているのだ。」

豊崎光一『砂の顔』小沢書店、1975年、130~132ページ。

先日、「波打ち際」について少し書いたので、その後、豊崎さんの『砂の顔』を読み返していました。で、ある個所を読み、ちょっと驚きました。冒頭で引いたのがその個所。フーコーの『言葉と物』(および豊崎さんご自身が訳された『レーモン・ルーセル』)についてですが、そこで、豊崎さんはplageという単語に着目します。まさに「浜辺」ですね。しかし、これが、「平面」ないしは「表層」という言葉と接近させられるわけです――偶然でしょうが、ここで、松浦さんの『平面論』(1994年)と蓮實先生の『表層批評宣言』(1979年)を思い起こすのはわたしだけではないでしょう。

実際には、どうなんでしょう。松村剛先生のDictionnaire du français médiévalなんかをみると、plage(「浜辺」)はplajeと書かれ、ギリシア語のplagiosに由来すると書かれています。ちょうど下にplan(「平面」の意)がみえますが、そちらの語源はラテン語のplanusと書かれています。厳密には別物な気もしますが…しかし、何かしら関係はあるのかもしれません(偽の「語源」が想像力を刺激することもありますしね)――ちなみに、ドゥルーズにもMille Plateauxという著作がありますね。これは、むしろ、「高原」「大地」のイメージでしょうか。

浜辺-平面-高原。松浦さんの「退官記念講演」では、まさに、「スクリーンという波打ち際」なんていう節も挿入されています。ちょっと引いてみましょうか。

「映画館のスクリーンとは、その彼方からイメージと音響の波がダイナミックに打ち寄せてくる、危機的にして魅力的な境界にほかなりません。打ち寄せてくる映像と音響の波動に身をさらし、心もとなさといとおしさとでもって、それと出合うという体験。映画とはわたしにとって、それ以外の何ものでもなかった」(松浦寿輝『波打ち際に生きる』羽鳥書店、2013年、15ページ)。

フーコーからは大分離れているような気もしますけどね…(例えば、松浦さん自身が、フーコーが問題にしたような近代の「人間」なんていうものにフーコーほどこだわっているかというと少し微妙です)。しかし、こうして追ってみると、「波打ち際」という表現=イメージを結び目(noeud)として、上記の問題系がゆるやかに繋がっているようにみえなくもないわけです…。

松浦さんの「平面」と蓮實先生の「表層」の比較なんていうのはどうでしょうか? 比較をする意味があるかどうか、微妙ですね…。『表層批評宣言』も久しぶりに読み直しましょうか…。しかし、何か思いもよらない仕方で、両者の本質的な差異がみえてくる予感もいたします。ちなみに、この評論集のなかには「表層の回帰と「作品」」という章があり、ここでも、やはり、フーコーの『言葉と物』に言及がなされています…。

きょうは、もう、「オールスター」でいきましょうか。笑 「波打ち際」という表現は田中純先生の『都市の詩学』にもみられると前回書きました。いまみなおしたら、このパート、『イメージの自然史 天使から貝殻まで』(羽鳥書店、2010年)で「変奏」されていました――わたしの頭に残っていたのは、多分、こちらの方でした。例えば次の一節。

「波打ち際や岸辺は生と死の境界でもある。軟体動物としての都市やことばなき奇妙な生き物としての建築をめぐる想像力の分析は、この境界線上で揺らぐ生命の考察、一種の生命論を胚胎することになった。」(同書、245ページ)

「生と死の境界」としての「波打ち際」。このシリーズは、当初、ドゥルーズの「内在――ひとつの生……」あたりから動き始めたのですが、この最晩年のテクストを書きながら、或いは、ドゥルーズもまた「生と死の境界」に身を置いていたのかもしれない、なんてことも思いますね。そして、松浦さんご自身も「研究と創作のはざまで」この講演を行っていたわけです。

ふと思い出しましたが、黒沢清監督に『岸辺の旅』(2015年)という作品がありますね。浅野忠信さんと深津絵里さん。ハートフルな作品だったと思いますが、これも、数年前に死んだ男が妻の元に帰ってきて、旅をするという話なんですよね。「岸辺」という表現が使われています。

すごくシンプルに言えば、「波打ち際」というのは「曖昧」な場所で、「両義的」なトポスなんでしょう。ambiguousということです。内でもなく外でもなく、右でもなく左でもなく、生でもなく死でもなく…。マンデリシュタームの論考を取り上げ、ツェランが「投壜通信」を問題にする等という文脈もあるのですが、まあ、それはいいでしょう…。

整理しましょう。「波打ち際」というのは、ひょっとしたら、複合的に「曖昧」というか、「フラジャイル」なのかもしれません。潮の満ち引きという「流動性」があり、plageとしての、「平面=表層」としての、外にさらされているという「ヴァルネラビリティ」がある、なんて言ってみてもいいかもしれない。実際、「浜辺=砂浜」の安定性を揺るがすのは「水」であり、「風」でもあるのでしょう――「砂上の楼閣」は、たとえ波に流されなくとも、「風化」する運命にあるわけです。

ところで、松浦さんには独自の「詩論」があります。前にも書いたかと思いますが、「火の詩」と「風の詩」という二項対立で説明されます。しかし、もうひとつ重要なのは、この「二項対立」が「脱構築」されるものだということです。言語の「波打ち際」としての「越境」、「翻訳」、「エクソフォニー」(多和田葉子)――なんて言ってもいいかもしれませんが、少し横に滑らせすぎたかもしれません。しかし、これを収める書物の題が、そもそも、『詩の波 詩の岸辺』だったりもするわけで…。

こうしたことをいままた考えるのは、やはり、どこかで現代の「スクリーン」のことを考えているからかもしれません。パソコンやスマホの「スクリーン」は、果たして、新しい「平面=波打ち際」になり得るのか? 松浦さんご自身はそれに懐疑的でしょう。しかし、わたし自身はと言えば…?

「スクリーン」の海は、文字通り、「スクリーニング」の空間になってしまったように思います。結局、無限の「歓待」など現実にない以上、最終的には他者を「ブロック」するほかないという「有限性」の問題がある。ひとびとを結び付ける力を持つ(かのようにみえた)インターネットは、しかし、結局は「分断」の装置にもなり、むしろ、今日ではそちらの側面の方が大きくなっているような気もしないではない――「サーバーパンク」というのは言いえて妙だったのかもしれません。

いや、しかし、結局は「波打ち際」など本来的に孤独な(文学)空間でしかないのかも知れない。リオのビーチを想いながら――「イパネマの娘」を想いながら――「孤独」こそが「波打ち際」だと言ってみたくもなる。

それでは、本日は以上にいたします。

栗脇



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