仮講義録試文 「地頭」について

どうも、栗脇です。唐突ですが、今日は、「地頭」という問題について考えてみたい、というか2、3の覚書をしたいと思います。

どうしてそういうことになったかと言うと、詳しくは書きませんが、学習塾での仕事に際し、この問題にぶつかったからなのです。ですので、これは一種の「講義録」になります。しかし、通常、「講義録」が出版されるのは、「最終講義」を除けば、超有名な哲学者のそれなどに限られます。ロラン・バルトとか、ミシェル・フーコーとか、ジャック・デリダとか。言うまでもなく、わたくしの「講義録」など誰も興味を持ちません(苦笑)。ですので、「講義録」の前に「仮」をつけ、その後に「試文」をつけました。言うまでもなく、これは、『仮往生伝試文』の著者の身振りを反復しています。が、例によって、特に「深い意味」があるわけではありません(笑)。

それでは、早速、「仮講義録試文」をご笑覧いただければと思います。

まず、「地頭」という問題ですが、どうやらビジネス書やウェブ上の記事などの主題としてそれなりにホットなもののようです。そうしたものもいくつか読んでみようとは思うのですが、今日はまだ何も読んでいません。あくまでも自分の思うままに、「地頭」ということについて何かを書き連ねてみようと思います。(ですので、客観的な「定義」とは異なるものになると思います。)

「地頭」ということですが、おそらくそのまま、「地の頭の良さ」というようなことに関わるのではないかと思います。あまり好きな表現ではありませんが、「顔面偏差値」というようなそれも連想されます。いずれも「生まれ持った何か」に関係するのでないかと思います。哲学の用法では、よく、「自然/文化」というような二項対立が出てきますが、「地頭」というのは「自然」の側に位置づけられるのではないか、とわたくしは思うのです。

では、このとき、「文化」に位置づけられる「頭の良さ」は何でしょうか? おそらく、「勉強」や「教育」によって得られるそれではないかと思います。「顔面偏差値」の例を再び出せば、「化粧」や「ファッション」などがこれに当たるのではないかと思います。言い換えれば、「努力」にかかわるものではないかと思います。「顔面偏差値」――本当に嫌な表現ですが――が低い人でも、メイク術を磨けば「綺麗」と見なされることもあるでしょう。それと同時に、必ずしも「地頭」がよくなくても、「勉強」すれば、「頭いい」と見なされることもあると思うのです。

わたくしの考えはとてもシンプルです。「地頭」の良し悪しはさておき、「努力=勉強」して文化的に頭がよくなればいいのではないか、と思うのです。そして、おそらく、その方が本質的な「頭の良さ」なのではないか。「地頭」がよければ、確かに、小学校くらいの学年であればそれで「神童」と見なされることもあるかもしれません。しかし、その後、「受験勉強」や「就職活動」、「学位論文」などを経て、「努力」を通じて「成長」していくのが「現代人の生」ではないか、と率直にそう思うのです。この意味において、ジル・ドゥルーズの「生成変化」の哲学などを踏まえ書かれた千葉雅也さんの『勉強の哲学』は何らかの導きになるのではないか。

ですので、私見を要約すれば、生得的な「地頭」よりも、後天的な「勉強」の方が大事ということです。すごく一般的な主張ですが、しかし、「地頭」問題で頭を悩ませる方が一定数いるのであれば、この凡庸な主張を声を大にして繰り返したいと思います。ある一定の年齢を過ぎたならば、自分の「地頭」の良し悪しはありのまま受け入れ、むしろ「勉強」によって補っていく道を探す方が効率的だし、人生のあり方として「豊か」だと思うのです。(また「顔面偏差値」の例を引き合いに出せば、これも同じだと思います。生来の「美醜」は確かにあるでしょう。「醜形恐怖」などの症例を考えても、これは極めて実存的な深い問題ではあります。人によっては、多かれ少なかれ「整形」を試みることもあります。しかし、一番いいのは、生来の「美醜」は受け入れた上で、「技術」によって、別の仕方で、自分なりの「美」を手に入れることではないかと思います。ここで言う「技術」は「整形」というよりは、例えば、「笑い方」なども含まれるのではないかと思います。蛇足ですが、わたしが知る中で最も魅力的な笑顔を浮かべる方は「醜形恐怖」で悩んだ時期を持つ方でした。)

ということで、「地頭」問題で悩むのはやめましょう。(その信頼性が決して定かではない)ウェブ上の「地頭診断」などに人生左右されるのも、愚の骨頂だと思います。それだったら、哲学でも勉強して、『論理哲学論考』でも読んでいる方が有益、というのがわたくしの主張です――あれこそ本物の「地頭」ではないか、と思いますが。

さて、しかし、ひとが「地頭」問題から完全に解放されることがあるかと言えば、そうとも言えません。わたくし自身も、多かれ少なかれ、この問題に頭を悩ませたことがないではないのです。率直に言えば、わたし自身は「頭のいい子供」でした。中学受験では、一年しか塾に通わなかったものの、都内の有名私立大学の継続校に合格しましたし、一年間の浪人を経て、「最高学府」と呼ばれる大学にも合格しました。その後の「進学振り分け」でも、人気の学科に進学しました。それなりの「地頭」は持ち合わせているつもりです。しかし、常に「上」はいたように思います。小学生のときも、中高生のときも、常にトップにいるような学生ではなかったと思います。とりわけ大学進学後は、「逆立ちしても適わないような」沢山の知性と遭遇することにもなりました。

そうした経験から思うことがもうひとつあるとすれば、「地頭」にも色々あるということです。例えば、頭の回転が速く、記憶力がいい人間は、固有名を綺羅星のように散りばめながら、ぺらぺらと話を続けることができます。自分の通った大学にはそういう知性は本当に沢山いて、凄いな、とも、ウザイな、とも思いました(笑)。それが「地頭」の良さを示す能力であることは否定できないでしょう。事実、その後も水準の高い仕事をしているひともいます。ですが、そうした人が本当に何でもできるかというとそうでもないのです。日本語で流暢に話せるからといって外国語が出来るとは限りませんし、とりわけ、入試以後に学ぶ「第二外国語」は、そういう「地頭」がいい人は案外出来るようにならなかったりもします。

また、「話す」というのは言語を通した表現方法のひとつの道でしかありません。「書く」ことだって重要な手段です。人前で話すことが苦手でも、書くとすごい、というひとはいくらでもいます。いずれも別の仕方で「地頭」に関わっているのではないか。ないしは、いずれも別の仕方で「勉強」に関わっているのではないか。そのようにわたくしは思います(参考までに、前者を浅田(彰)型と、後者を松浦(寿輝)型と呼んでみてもいいかもしれません。浅田さんの喋りは本当に芸術的ですが、ある時期以降、彼は書物を書くのをやめてしまいます。一方、松浦さんはぺらぺらと話すようなタイプではありませんし、時折固有名が出てこないこともある――わざと対話者を試しているときもあるのかも知れませんが。しかし、彼の文章が現代の日本における最も美しいそれのひとつであることは疑いないでしょう。「地頭」を云々するならば、せめて、このふたつの「型」くらいは押さえてほしい。と、そう思います。さらに複数化することはいくらでも可能でしょう。もちろん。)

ということで、結局今回もとりとめのないものになってしまいました。また、議論として詰め切れていない部分は沢山あります。「地頭/勉強」や「浅田/松浦」の二項対立を「脱構築」することはいくらでも可能でしょう。しかし、色々書いた後でやはり思うのは、「地頭」は変えられないかもしれないが、「勉強」によってひとはいくらでも変わる――「生成変化」する――ことが出来るのではないかということです。脳の整形はない以上――と書くと千葉雅也さん由来のカトリーヌ・マラブーの哲学を思い出してしまったりもするのですが、それはさておき――、「勉強」という一応は民主的な「努力」によって自分を変える方が一番手っ取り早いし、それによって人生が豊かになることもあるのではないか、とわたくしは思うわけです。

最後にまた補助線を引きますが、最近、齢30を過ぎると、「若くて綺麗な女の子」にはあんまり興味がなくなってきました(笑)。ある時代にもてはやされる「顔」ってすごく「同質的」だったりもしますし。それよりも、一世を風靡した後の女優などが「化粧」や「ファッション」、「ライフスタイル」などで自分の美を追求している方が魅力的だと思うようになりました。単に「熟女好き」になっただけかもしれませんが(笑)、「地頭/勉強」問題について考えることとも並行しているような気もしないではありません。

あえて哲学に引きつけて言えば、やはり、「技術」(テクネー)が大事なのではないか。西洋における極めつけの「技術」と言えば、やはり、「詩」(ポイエーシス)だと思うのですが、これもやはり、本当は「地頭」ではなく「勉強」に依拠するものなのではないか。そう考えた上で、しかし、アルチュール・ランボーのことがすぐに頭に浮かんでしまうのは、まだ、わたくし自身も完全には「地頭問題」から解放されてはいない、ということなのかも知れませんが…。

それでは今日はここまでにいたします。(誰も聞いていませんが笑)ご清聴ありがとうございました。

栗脇永翔

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