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柳家小三治独演会に行ってきました

こんばんは。博多佐之助です。

本日、横浜にぎわい座で行われた柳家小三治独演会に行ってまいりました。

落語を生で観ることも久しぶりだったのですが、御年81歳の小三治師匠の高座は当然ながら初めて。その感想をお話しできたらと思います。

芸=人

演目はボクも大好きな噺「猫の皿」「長短」

いわゆる古典落語の演目は事前に知ろうと思えば音源はもちろんのこと書籍なんかでも、どのような話なのかやオチまでも知ることはできます。

それでも生で噺家の落語を聞くと知っている噺でも不思議な感動を覚えます。

また、落語にはマクラという本題に入る前に噺家が現在の世情などを交えて話す時間があります。このマクラから本題にスルっと入っていく訳なのですが、小三治師匠の熟練された芸はマクラが既に1つの噺として成立しているような錯覚でした。

高座で「あ~何でしたかねェ」とか「ほらアレですよアレ」、「もう今日は落語は止めてのど自慢でもしましょうか」など大御所の噺家なのに、とぼけた話し方がどこか身近に感じてしまう。だからと言って小三治師匠が黙ると全員が息を飲み次の言葉を待つという緊張感。恐らくボクも含め観客全員が「吞まれた」のだと思います。

小三治師匠の「猫の皿」や「長短」を聞けてもちろん大満足でしたが、正直ただ師匠が話しているだけで面白かったので、その話をずっと聞いておきたいとすら感じました。

恐らく経験の浅い若い噺家やボクのような役者の端くれが何かのきっかけで落語を人前で演ることになったら、「オチまで一言一句間違わずに話す」ことに意識が行き過ぎて観客席のことを忘れてしまうかもしれません。寿限無であればちゃんと間違わずに言うとか。その意識も大切ではあるけれど、今日の小三治師匠のような観客席と高座の一体感を生むような芸は長年積み上げたものや柳家小三治という1人の噺家を好きでいてくれる人が大勢いないと決して出来上がらないなと。

落語に限らず、様々な技術が溢れる時代。言い方を変えれば代用品はいくらでも用意できる。その中で唯一無二の存在になるにはシンプルにどれだけ人に愛されるのかが大切になる。

これからもっと一流のモノに触れ人間として更なる成長を遂げたいと思う博多佐之助でした!



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