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「初志貫徹」の脆弱さを歓迎したい

タイトルの通りである。部活動の横断幕などにもよく使われる、とてもメジャーなこの四字熟語が、いかに弱く、自己成長を妨げるものか、説明していきたい。私はこの言葉がとても苦手だ。

分解して具体的にみていこう。
まず、「初志」だ。そもそも、初志って何なのか。部活で言えば、最高学年が決めたその年の目標?(県大会ベスト4!とか)座右の銘にしている人であれば、人生そのときどきで決めた中長期的な目標、もしくは、ずっと抱き続けてきた夢のようなものであると考えられる。
一方「貫徹」は、物事を貫き通し、最後まで続けることという意味だ。ライザップ的な思想である。

さて、この言葉の何が悪いのだろう。それは、「変化に対応することを放棄している」ことである。つまり、「初志」を大義名分に、時代に合わせた生き方の変化を放棄することを認め、その人自身を生きづらくしている。
よっぽどの才能がある人でない限り、時代の変化に対応せずに成功するというのは難しいだろう。
去年は特に時代が大きく変わった。最初にも述べた部活動の例で言えば、目標の「県ベスト4」は大会自体が消滅したことにより達成は不可となり、多くの部活生が練習する意義を見いだせない状態に陥っただろう。こんなときに、人生におけるなにか別の意義であったり目標をすぐに見つけられる人、つまり、一つの目標に依存しない、悪い言い方をすれば責任感のない人であれば、目指すべきものを乗り換え、その後の学生生活を有意義にすることができるだろう。しかし、「初志貫徹」をモットーに生きてきた人は、責任感が強いという強みを持っているからこそ、自分への無力感に苛まれ、立ち直るのが遅くなる。

何が言いたいのか。それは「うまくいかないときはすぐに諦め、別のことを考える」というスタンスが「生きやすい」ということだ。「行雲流水」が近いだろうか。

生き方を強制するつもりはさらさらないが、変化が大きく早いこの時代において、自らを強固な価値観の中に留めて自分を保持している人を見ると「おっ、ハードモードとは通だねぇ」という2chでお馴染みの煽り文句が頭をよぎってしまう。さながら、川の流れに身を削られつつもその場で耐えている石のようである。このように場所をとどめて生きることは容易ではない。私は常にはぐれメタルを見つけるために動き続けたい。効率的に自らのレベルを上げることで人生をイージーモードに突入させたいのである。

社会や他人を矯正する(川の流れを変える)ことは、自分の価値観を変える(身を削って小石となり川底を転がる)よりよっぽど難しい。し、時間がかかる。だとすれば、自分が柔軟性を持ち、より大きなハード(社会)の変化に合わせてソフトである私たち自身が変化していくほうが得策ではないだろうか。さながらiPhoneのアプリのように、機種の特性を把握した上で人々が求めるものを追及する、定期的なアップデートが不可欠である。人間の優れている点は、それがボタンを押下することで起こるデジタルなものではなく、脳を通してアナログ的に毎秒変わることができるという点だ。人間にのみ許された特権だ。使い果たそう。

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