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震災から10年

こんにちは。最近寝ても寝ても寝足りなくて、いつも眠いです。佐藤ひかるです🙄

まずはじめに、3.11の大震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げるとともに、被災された皆さまに心よりお見舞い申し上げます。

時間が経つのは本当に早いもので、あっという間に10年が経過しました。あの時、大震災が起きた時の事は、鮮明に今でも覚えています。

当時私は中学2年生、宮城県白石市に位置する中学校へ通っていました。その日は、卒業式でいつも通り友達とあーでもないこーでもないと、ぺちゃくちゃ話しながら学校へ登校してました。卒業式が終わった私は家に帰宅して、テレビを見ていました。

そしたら、

ガタガタガタ…

と小さな揺れを感じました。
宮城県は地震がたくさん多い地方ですから、

あ〜またいつもの地震か!
どうせすぐおさまるよね〜

という感じで呑気にテレビを見続けていました。

そしたらその瞬間、大きな揺れを感じるとともにケータイの緊急地震速報が鳴りました。

ええぇ〜?!!?嘘でしょ😨

さっきの呑気な私とは一転し、一気に恐怖に見舞われた私は、運悪く家に1人だけ。
大きく揺れる中、自分の身を守るとともに、ペットの猫を守ろうとするのに必死でした。
家にいたら危ない!と感じた私は、ひたすら家を裸足で飛び出して一目散に外へ逃げました。
大きな揺れが治っても、余震は続きます。
なので、外で少し待機していました。

そしたら、外から声がしました。

ひかる〜!ひかる〜!大丈夫か!

おじいちゃんの声でした。

おじいちゃ〜ん!!😢😢😢

↑本当にこんな感じでした。

死ぬかと思うくらい怖かったので、
安心して、泣いたことを覚えています。
その後、友達から電話やメールで安否確認の嵐。

ただ、

あれ…お母さんから連絡が返って来ない…
大丈夫かな…?


全然お母さんと連絡が取れなくて大きな不安を感じていました。
家にも猫がいるし、家にたった1匹だけ怖いだろうに、猫ちゃんは大丈夫か…、早く行ってあげたいと言う気持ちと、心配で心配で気が気でなかったです。

夕方には、お母さんと弟を連れたお父さん、おばあちゃんも無事に家に帰って来ました。
家の猫も、怯えていましたがなんとか無事でした😢

その後、インターネットの回線も徐々になくなり、電気も止まって真っ暗の中家族みんな過ごしました。とりあえず寒かったです。
ケータイの充電もなくなり、その次の日は食料調達、でも売り切れが多発、

はぁ…お腹すいたあ🥲

ガソリンもなくなり、スタンドの大行列に並ぶ…そんな感じでした。

一夜が明けて
その次の日、私はお父さんと弟の3人で、車で数分の場所にある、お父さんの仲良い同級生の安否確認のため荒浜へ行きました。お父さんも友達が心配だったのでしょう。荒浜も、津波の影響がすごくて壊滅的な被害を受けた場所の一つでした。

その景色はなんとも言葉を絶するものでした。

練習試合でよく訪れていた荒浜中学校も壊滅的な被害を受けており、また、とある家の上に大きな船が乗っていました。
近くに農業高校があり、そこで育ててたであろう牛や豚などの動物たちの遺体、瓦礫で溢れかえってました。そこで私はもっと、ショックな光景を見てしまったのです。それは、人の手であろう体の一部が瓦礫の中から出ていたことです。

え…なにこれ…嘘でしょ…?

頭の中は真っ白に、思考停止状態。
それ以上、なにも言葉にできなかったです。
ショックというかなんなのか、

いつも見慣れていた場所が、
こんな光景に変わってしまうなんて…

とひどく心が抉られました。

よく練習試合をしていた、中学校のみんなは無事なのかな…あの子もあの子もあの子も…みんなどうなったんだろ…

と、怖くなってしまいました。
その日は、ご飯も食べる気にもならず何かをずっと考えていました。

私の住んでいる場所は、山の方だったので土砂崩れなどの被害はありましたが、沿岸部ほどひどい被害はありませんでした。
当時、電気も止まってテレビも見れなかったので、不謹慎ではありますが沿岸部がそんなに大変になってるなんて知りませんでした。

でも、私はその日お父さんたちと荒浜に行ってあの光景を見てなかったら、その後何も行動は起こしてなかったはずです。

復興支援活動

震災から約6年後、私はインターネットであるページを見つけました。

福島県南相馬市復興支援活動員募集中!

と言う記事でした。私はふと、あの時見た光景、あの時言葉を失った自分に、何か背中を押されたような気がして、すぐ応募を決意し、数日後現地入りしました。

南相馬市は、津波の影響と原発の影響が重なり帰宅困難区域にもなった場所です。
(※以下写真)

↑※時間が震災から止まったままです。

自分が生まれた場所が津波でなくなり、同時に急に帰れないだなんて、同じ立場に立って考えてみたら、なんて言ったら良いのででしょう…
今でも胸が痛くなります。

なので、そこへ行く事は色々な意味で、すごく勇気がいる事でした。でも、あの時のことを思い出すと、居ても立っても居られなかったんです。
↓※こちらは最後の記念写真📸

いざ、現地入りをしたらそこにたくさんの県外ナンバーの車が止まっていました。色々な地方から、色々な思いを抱えて、支援活動に来てるということです。

そこでは、瓦礫撤去を主な活動としていました。そして、被災地の方々とお話し、交流する機会もあったりしました。
それから、何回も車で往復4時間ほどかけ、
その復興支援活動に参加してきました。

6年経ったのに、

帰宅困難区域だったこともあり、復興が追いついておらず、人もあんまり住めない状況

という、ことが見て取れました。そこから、被災地の大変さをを身を持って実感していました。とてもつらいのに、みんな素敵な笑顔をしていて、復興に向かって前向きに頑張ってる、そんな被災地のみなさんを見て、逆に自分が元気付けられてしまいました。

被災地の人のために、何かできる事はないのか?と、考えてた私にできる事は、この復興活動を通して、被災地を知り、周りに伝えていく事だと思いました。

話は脱線して、今もふと思う事があるのですが、
もし、あの時自分が沿岸部にいたら
どう行動してたのか、今どうなっているのか…

たまにこの時期(3.11)になると思うんです。
人はいつどこでどんなことで逝ってしまうか分からない、昨日まで元気だった人が急にこの世から突然いなくなってしまう。命とは、何にも変えられない大切なものであり、また儚いものなんだと。だからこそ一日一日を大切に生きることが大事なんだと、震災を通して改めて思ったんです。

話を戻し、私はこれからもあの時経験した震災のことはずっと死ぬまで忘れる事はないし、後世にも伝えて行きたいと思っています。

そして1番は、世界、全国のみなさんにも、こんなことがあったということと、被災地の方々の今、を知って欲しいです。


今でも、あの時の光景、映像を見ると心が痛くなり、被災地の方々の気持ちを考えると本当に胸が痛くなります。でも、現実を受け止め、前に進まないといけないといけません。

なので、これからも私は被災地に、足を運んで復興を見守るとともに、被災地の今をどうにかして色々な人に伝えていきたいと思っています☺️🌟

終わりに、これまで震災以降、色々な被災地へ出向いて来たときに撮った写真たちを載せます。

上から、
南三陸町→石巻市→相馬市野馬追祭り→気仙沼市→福島県いわき市

これからももっともっと
素敵な東北になりますように☺️🌟

同じ東北の人間として、宮城県民として、一緒にこれからも発展と復興を祈っております🌸

これを結びの言葉とし、
終わりとさせていただきます。
今回も読んでいただきありがとうございました!

ではまた会いましょう☺️

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