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パンケーキから冷や飯、炒飯などてんこ盛り

●コラム風英堂=パンケーキから冷や飯、炒飯などてんこ盛り

美味しい<フランスパン>を食べたいと言う願望は捨てきれないが、下町では良きパン屋を探しきれない。
<ご飯論法>はご存知であろうが、「朝ごはんを食べましたか?」という質問に「パンは食べたけど、お米は食べていない」と答える術だ。質問に答えているようで実は答えていない。論点をすり替え、相手を煙に巻き、時間がなくなれば議論を打ち切り、嘘をついたわけではないと強弁することだ。ならば「パンケーキを食べた? ホットケーキなら食べたけど」と言ってくる。

どこかの国の宰相は永田町のホテルで美味しそうな<パンケーキ>を食べているらしい。パンケーキは「スクランブルエッグやベーコンと一緒に食べるもの、ホットケーキは蜂蜜やメープルシロップをかけた甘いもの」と定義する人がいる。厚いのが<ホットケーキ>、薄いタイプは<パンケーキ>とてっきり思っていた。語源的にはフランス語の「パヌケ=pannequet」が、英語の「Pan cake」になり、パンケーキの中にクレープもホットケーキも含まれるようだ。

どうやらパンケーキおじさんは国民に<冷や飯>を食わせるようだ。官邸の中にある杉の田んぼで食べる<冷や飯>はさすがに不味いだろう。だが、チャーハンには冷や飯は欠かせない。「ご飯論法」の名付けた親である法政大の上西充子教授は日本学術会議の会員候補の任命拒否問題をめぐり、過去の国会答弁との食い違いはないとする官房長官の説明をチャーハンに例えて批判した。
「エビチャーハンを作っていたのを玉子チャーハンに変えましたよね」という質問に「同じシェフが作っており、その点においてなんら変わりはない」と表現した。「炒飯を作っていたのを、焼き飯に変えましたね」と言えば同じものでも関東か関西風の言い方になる。

GOTOで一番儲かる飲食店紹介サイト、ぐるなびの創業者が文化功労者に選出された。この方はパンケーキおじさんの後援者らしい。作家の森功氏は、ブレーンの言いなりになって「丸呑み」と喝破し「お手盛り」と辛辣に揶揄する者も多い。我々も炎上するようなら「すべて、ひとつも、全く、一つ一つについて、だけ、一切」などの言葉を多用し、「指摘は当たらない」と主張すれば逃げられるかもしれない。

その貧相な顔付きの方は「パンケーキおじさん」「令和おじさん」と呼ばれ、最近ネット社会では「権力快感おじさん」と呼ばれている。いかにも貧乏らしい容貌や貧弱な様を言うが、「みすぼらしい」と言う言葉もあり、「情け無い、哀れ、嘆かわしい、浅ましい」の表現もある。書いているだけで「侘しい気持ち」になり、「哀れさ」が漂い、「儚さ」を感じてくる。今、私は「上品な顔付き」か「貧相な顔」だろうか、気になるところである。

その方には独特の話法がある。「その指摘は当たらない」「答弁は差し控えておく」「今答えた通り」を頻発し、表現の自由に関しては「総合的、俯瞰的」「多様性が大事」「判断とは直結しない」などの言葉を駆使する。さらには論点のすり替えや迷走を経て、支離滅裂、意味不明になってくる。説明を逃れ、はぐらかし、時間を稼げば世間は忘れると言う強権的なシナリオを描いているようだ。

何かを求めて満ち足りたら、さらに欲望が芽を吹き、また求め始める。その人間の欲を戒めるものとして禅宗に「足るを知る」と言う言葉がある。京都龍安寺の茶室前の手水鉢は「知足の蹲踞(つくばい)」と呼ばれる。蹲う(つくばう)というしゃがむ姿勢から来たもので、手水で手を洗うときに身を低くして手を清めたことが由来となっている。

「吾唯足知=われ ただ たるを しる」の路までは、まだまだ遠いようだ。60歳代初め、退職後は海外での生活を選んだが、来年70歳代を迎えて何をすべきか、また考え始めている。帰国後は「皿洗いのパート主夫」と思っていたが、コロナ禍で思うように動けない。さらに自宅のリフォームが年明け早々に始まることになり、2カ月近い仮住まいになる。コロナ禍の中、身を清めて身体や精神も一休みしなさいと言うことなのか、それにしても長過ぎる。「足るを知る境地」にはまだ至らず。

※「鎮守稲荷大明神」はJR錦糸町駅から徒歩5分位。以前は古い社だったが、いつの間にかピカピカになっていた。
※「廣得稲荷神社」はトタン屋根の駐車場奥にある小さな小さな神社。都営新宿線/地下鉄半蔵門線「住吉」駅近くにある稲荷神は商売繁盛、五穀豊穣を願う。

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