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神道のルーツと聖書

日本の宗教

  • 教典や具体的な教えはなく、開祖もいない

  • 神話、八百万の神、自然や自然現象などにもとづくアニミズム的・祖霊崇拝的な民族宗教

  • 古代日本に起源を辿ることができるとされる宗教

伝統的な

  • 民俗信仰

  • 自然信仰

  • 祖霊信仰

を基盤に、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立し、日本国家の形成に影響を与えたとされている宗教です。

自然豊かな日本は、自然崇拝(自然物・現象そのものが崇拝対象)やアニミズム(万物に精霊が宿ると考える)信仰、宗教が創作された。

聖書は、神は6日間で天地万物を創造し、6日目に神に似せて人を作り、自然を管理・支配する。

神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。

人間の持つ感覚、考えで人間「が」作った神々の宗教が神道
一方、聖書は人間「を」6日目に、特別な存在としてお造りになった神が存在する。書いてあります。
さて、神道と聖書は似ているのでしょうか?

「聖書に記されている神様の素晴らしさ」を、真似て創作された宗教

 平田篤胤(ひらたあつたね 1776~1843)は、独自の神道をつくり、国学(江戸時代の学問の一つ)に新たなムーブメントを起こしました。仏教・儒教・道教・蘭学・キリスト教など、さまざまな宗教を研究しています。世界の創造・天の神(天津神 あまつかみ)と地の神(国津神 くにつかみ)・生死・現世と来世などに新しい解釈をして、キリスト教も取り入れました。

 『本教外篇』は篤胤のキリスト教研究ノートと言われていて、明時代に中国で宣教したイタリア出身のイエズス会宣教師マテオ・リッチ(1552~1610)の著書の翻訳などが記されています。

義の為にして窘難(こんなん)を被(こうむ)る者は、これ即ち真福にて、その已に天国を得て処死せざると為るなり、これ、神道の奥妙(おうみょう)
(現代語訳)
義の為に苦難に遭(あ)った者は、すなわち真に幸福であって、その者はすでに天国を手に入れて、不死の身となる。これこそ神道の奥義(おうぎ)である。

『本教外篇』(1806 年)より

 この一文ですが、新約聖書の・・・

義のために迫害されている者は幸いです。
天の御国はその人たちのものだからです。
[マタイの福音書 5:10]

・・・の引用です。
聖書のことばをコピーして、平田篤胤はこれが「神道の奥義」だといったのです!

 本居宣長(平田篤胤は宣長の後継者として登場しました)までの神道では、死者は「黄泉国=夜見国」(よみのくに)にいく者とされていたのですが、篤胤はこれを大改造して、それまでの神道にはなかった死後の世界をつくり出したのです。
 篤胤は死後の世界を次のように書いています。

人の霊魂は原(もと)より一身の主なり。形骸百体は霊魂の従役なる者なり。〈略〉形骸は土に帰し、主は自存 して滅亡せず、必ず幽世に入りて、幽神のその賞罰を審判することを聴き〈略〉善人は〈略〉永々此の国土の幽世に侍(さぶら)はしめて〈略〉天上に往来しつつ〈略〉悪人は〈略〉遂に予美都(よもつ)国に逐(お)はれて〈略〉懊悩痛哭して永々身に脱せざらむ。
(現代語訳)
人の霊魂は一身において主であり、肉体は霊魂の従者である。〈略〉人が死ぬと肉体は土に帰るが、主たる霊魂は存続して、かならず幽世(かくりよ 死者の世界)に入り、幽神(死者の世界を司る神)によって生前のおこないについての審判を聞くこことなる〈略〉善者は永久にこの国土とともにある死者の国にいながら天上世界を往来し〈略〉悪人は「黄泉国」(よみのくに)に追いやられて、永久にそこで苦しむことになる。

『本教外篇』より

 彼は、死者は生前のおこないの善悪に応じて、死後に審判を受ける。正しいおこない(「義」)をした者は、現世では報われなくても、天国にいける。悪人は地獄で永久に苦しむとしたのです。

外国々に上帝、天帝、梵天(ぼんてん)王、閻魔王などいひて、種々の事実あるは、大国主大神(おおくにぬし のおおかみ)の分霊
(現代語訳)
諸外国に上帝、天帝、梵天王、閻魔王などといって、審判をおこなう者がいろいろいるのは、すべて大国主大神の「分霊」である)」

『本教外篇』より

 宇宙の最高神を、『古事記』等で最初に登場する天御中主神(あめのみなかぬし)としました。
日本神話を、宇宙の創造からの歴史を記した、他の歴史書とは比べるものがないほどの完全なものと主張しました。

遥か西の極(はて)なる国々の古き伝に、世の初発(はじめ)、天神(あまつかみ)既に天地を造り了(おわ) りて後に、土塊(つちくれ)を二つ丸めて、これを男女の神と化(な)し、その男神の名を安太牟(あだむ)といひ、女神の名を延波(えば)といへるが、此(この)二人の神して、国土を生めりといふ説(こと)の存(あ) るは、全く、皇国(みくに)の古伝の訛(よこなまり)と聞えたり。
(現代語訳)
遥か西の果てにある国々の古伝に、世界のはじまりの時、主宰神が天地を造り終わったあとで、土まんじゅうを二つ作って、これを男女の神とし、男神をアダム、女神をエバと名付けたが、この二神が国土を生んだというのは、まったく我が国の古神話が誤って伝えられたものである。

『霊の真柱』より

 信じられないことですが、彼は、誤って伝わっていった日本の神話が、西洋で聖書に影響を与えたとしてしまったのです。

 明治のはじめからアジア太平洋戦争(第二次世界大戦)が終結するまでの間、平田篤胤は「神道史上空前絶後の偉人」と評価されていたそうです。彼は国内外の様々な宗教を学び、それらから有用なものを都合良く利用しました。
そして、日本人に受け入れやすい神道をつくり出してしまったのです。

その冥府と云ふは、この顕国をおきて、別に一処あるにもあらず、直ちにこの顕国のうちいづこにも有なれども、 幽冥(ほのか)にして〈略〉その冥府よりは、人のしわざよく見ゆめるを〈略〉顕世よりは、その幽冥を見ることあたはず。〈略〉燈火の籠〈略〉一間(ひとま)におきたらむが如く、その闇(くら)き方よりは、明き方のよく見ゆれど、明き方よりは、闇き方の見えぬを以て、此差別(このけじめ)を暁(さと)り〈略〉冥府は闇く、 顕世のみ明きとのことにはあらず、〈略〉実(まこと)は幽冥も、各々某々(おのおのそれぞれ)に、衣食住の道もそなはりて、この顕世の状(さま)ぞかし。
(現代語訳)
あの世というのが、この世と別にあるのではない。この世の内のあらゆるところにあの世があるのだが、それはかすかでほの暗い〈略〉あの世からは、人のしていることがよく見えるのだが〈略〉この世からほの暗いあの世を見ることはできない〈略〉灯明を部屋に置いたとき、暗い方から明るい方はよく見えるが、明るい方から暗い方はよく見えないようなものだ〈略〉とはいえ、あの世がひたすら暗く、この世だけが明るいということではない〈略〉実際にはあの世も同じように衣食住はそろっていて、暮らしぶりはこの世とおなじようなものなのだ。

『霊の真柱』より

 平田篤胤は、死んだ人は神となって生きている者を見守ってくれる。そのかわり、生きている人は霊(神)をまつる義務があるとしたのです。

篤胤は人は死後、黄泉の国へいく霊は神となって神々の国(幽界)へ行くとしました。死者の魂(神)は幽界へいくが、その幽界は現世のあらゆる場所にある。神々が神社に留まっているように、死者の魂(神)は墓に留まる。現世からは幽界を見れないが、人々の身近なところにあるその幽界には、この世から離れた魂(神)がいる。幽界から現世を見ていて、祭典を通じて現世にいる者と交流し、永遠に近親者を見守る。また、現世は仮の世であり、死後の世界こそ本当の世界としたのです。
これはキリスト教からの影響です。

 明治初期の日本において、「義」をもっともよく果たした者は、戊辰(ぼしん)戦争(江戸幕府を倒すための戦争)で国家のために戦死した兵士たちでした。戊辰戦争の戦死者は英霊、つまり「神」として明治政府によってあがめられる存在となったのです。
そして1868 年に東京招魂社が建てられました。これが今日の靖国神社です。
アジア太平洋戦争(第二次世界大戦)までは、この靖国神社は宗教施設ではありませんでした。(神道は宗教とされていなかったからです)
靖国神社は、平田篤胤の神道の延長線上に存在しているのです。

第6学年 社会科学習指導案「明治の新しい国づくり」より

明治政府は宗教の自由を憲法で保障しました。
一方で、天皇を崇拝するように国民を教育していき(神社参拝の強要など)、実際には「宗教の自由」は限定されたのです。
平田篤胤がつくり出した日本人に受け入れやすい神道をベースにして、明治時代の日本は近代国家として歩み出したのです。

 明治は1868年から始まりました。そして第二次世界大戦終結まで日本での「宗教の自由」は限定されていました。
 2020年は戦後75年となりました。日本国憲法第20条で信教の自由の保障がされています。これは限定されていない保障です。

 あなたがここまで読んできて、日本の宗教をどう思われたでしょうか?
平田篤胤は聖書から影響を受けて神道を作りました。
しかし、聖書の語る救済は、信じてなかったのではないでしょうか?
確かにそれは極めて歪んだ形で、明治以降の神道および国の政策に組み込まれましたが、逆に言えばキリスト教は断片化して日本人に浸透していったと考えられないでしょうか。
 今後、日本で正確に聖書が伝えられていけば、聖書に記されている神様の素晴らしさは必ず人々に受け入れられていくでしょう。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたし(イエス・キリスト)が遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。そして、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」
[ 聖書 ]

掲載元 https://note.com/tomakomaicc/n/na8cf30729aff

「信仰による義」とは、正しい関係という意味です。天地万物の創造主なる神様との和解、 キリストは十字架の死をもって、損なわれていた神と私たちとの間を正しい関係に回復してくださった。 私たちは、この事実を受け入れる信仰によって「義とされ、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得て」いる。(ローマ5・1)


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