見出し画像

元奴隷商人の悔い改めの歌 アメイジンググレイス

アメイジング・グレイス - 元奴隷商人が書いた極上の讃美歌

https://www.youtube.com/watch?v=76OWUx_kVgc

奴隷貿易船の船長はジョン・ニュートン悔い改め聖職者になった。
ジョン・ニュートンは、ロンドンで1725年7月24日に生まれた。父親は、イギリス東インド会社(British East India Company)の地中海貿易に携わる貿易船の船長。

母親エリザベスは、敬虔で宗教熱心な女性。足しげく礼拝堂(非国教会)に通っており、幼い頃からジョンに聖書や問答、賛美歌などに触れさせていた。残念なことに、彼女は肺の病気を患い、ジョンが7歳の頃に、30歳の若さでこの世を去っている(父はその後再婚)。

8歳になると、ジョンは全寮制の学校に通い始めるが、ラテン語を少し学んだ以外は特に興味を引かれるものはなく、2年ほどで中退してしまった。彼にとっては、幼い頃に母親から教わった事の方が、学校の授業よりも遥かに高度で価値の高いものだったのかも知れない。

11歳になってからは、貿易商であった父親の船に乗り込み、地中海への航海を数年間にわたり経験。17歳頃には父親が貿易業を止めてしまったため、それ以降は一緒に海へ出ることはなかった。

父親は、自分が船を下りた後の息子の将来を案じ、自分の友人であるジョセフ・マネスティ(リバプールの商人で船のオーナー)に、息子の面倒を見てくれるよう手紙を出した。

マネスティ氏はこの依頼に対し、ジャマイカにあるプランテーションの監督役の職を推薦。将来は園主としての地位も与えられるということもあり、ジョンはこれを喜んで受け入れたが、運命は彼に安定した将来を許さなかった。

彼女との運命の出会い

ジャマイカに向けて出発するまでの間、ジョンはイングランド南東部ケント州の州都メイドストン(Maidstone)で父親の仕事を手伝っていた。

メイドストンは、彼の母親のいとこであり親友であったエリザベス・カトレット(Elizabeth Catlett)が住んでいるチャタム(Chatham)にとても近い場所だった。

チャタム(上写真)は古くからイギリス海軍の基地があり、今日では国立造船所や造船博物館などがある歴史ある街。

ジョンが近くまで来ていることを知ったカトレットは、彼を家に招いた。一家から手厚い歓迎を受ける中、ジョンの視線は一人の女性に釘付けになっていた。

その女性とは、カトレットの娘で、自分より3歳年下のメアリー(Mary Catlett/当時14歳/愛称:ポリー)だった。

一目で彼女を好きになってしまったジョンは、彼女といる時間が楽しくて楽しくて、あっという間に予定の3日間は過ぎてしまった。

一旦ジャマイカへ出発してしまえば、少なくとも4~5年は戻って来れないことをわかっていたジョンは、なんとかあれこれ理由をつけてずるずると、予定の3日間を遥かに超えて、なんと3週間も彼女の家に長居していたという。

激怒する父親

もともとジャマイカへの出発まであまり時間はなかった。カトレットの家に長居していた間に、ジョンの将来を約束するはずだったジャマイカへの船は、彼を置いて出発してしまった。

若いジョンにとっては、彼女といることがすべてであり、たとえ将来につながる大事な仕事とはいえ、数年間も彼女と会えなくなることは耐え難かったのだろう。

この事実を知った彼の父親は嘆き、怒り、陸での仕事を与えるのは取り消しにして、商船の水夫として彼を一から叩き直すことを決意する。

ジャマイカでのチャンスをみすみす逃し、罰として父親から命じられて商船の水夫として地中海への航海をこなしている間も、ジョンはチャタムの家で出会った彼女の事が頭から離れなかった。

航海を終えてイングランドに戻ってくれば、いてもたっても居られず、次の商船に乗り込むまでの時間を利用して、なんとか彼女に会いに行こうとするほどだった。

18歳という年頃のジョンにとって、異性に対するはち切れんばかりの情熱を抑えられなかったのは無理のないことだった。しかし、この彼女への情熱が、後のジョンの人生の歯車を大きく狂わせていくことになる。

ジョン(当時19歳)が次の船出を待つ商船が停泊している港の周辺は、フランスとの戦争のためにいくつもの軍艦が臨戦態勢におかれていた。

当時のヨーロッパは、ハプスブルグ家を舞台にしたオーストリア継承戦争の真っ只中で、イギリス対フランスの植民地戦争にも発展していた。

当時のイギリス海軍は、プレス・ギャング(the press gangs)と呼ばれる軍の強制徴募隊により、使えそうな若者を手当たり次第に水兵として軍艦に連行していた。

フランスとの戦争の真っ只中にあったイギリス海軍にとって兵の増強は急務であり、プレスギャングはいつも以上に港周辺で目を光らせていた。

彼女に会いに行こうと夢中になっていたジョンには、そんな周りのピリピリとした状況がまったく見えていなかった。

ジョンはちょうど商船に乗るための水夫の格好をしており、目立つ格好でフラフラと浮ついた気持ちで、プレス・ギャングの近くを通りかかってしまった。

すぐさまジョンは取り押さえられ、軍艦ハリッチ号(HMS Harwich)の水兵として強制連行。彼の運命は大きく動き出していくのだった。

海兵になったジョン・ニュートン

19歳の息子ジョンが海軍の徴兵隊「プレス・ギャング」に連行されたことを知った父親は、貿易船の船長をしていた頃のツテを使って、ジョンが連れ込まれたハリッチ号のカートレット船長(Captain Carteret)と交渉を試みた。

著名な船長の息子ということもあってか、さすがに下船までは許されなかったものの、海軍におけるジョンの階級を少尉候補生(midshipman)まで特別に引き上げてもらうことに成功した。

海軍に徴兵されたといっても一生出られないというわけではなく、ある程度の兵役を終えれば解放される予定だった。つまり、少尉候補生として大人しく海兵の役務をこなしていれば、ジョンの将来はまだ見通しがきく状態にあった。そのはずだった。

しかし、軍艦の上でも頭の中は彼女のことでいっぱいだったジョンは、手を焼いてくれた父親や船長の信頼を裏切るかのような行動に出たのだった。

脱走するジョン 三等兵への格下げ

ちょうどこの頃、オーストリア継承戦争から発展したイギリス・フランス間の植民地戦争は、東インド周辺にも及んでいた。

ジョンは、1745年の初頭に軍艦ハリッチ号が東インドへ展開することを知ると、彼は最低でも4~5年は戻って来れないことを直ぐに悟った。

5年近くも彼女に会えなくなることがどうしても耐えられなかった彼は、食料調達を命じられて船を離れた隙に、なんとそのまま脱走を試みたのだった。

しかし、彼の自由はたった2日間しか続かず、すぐに捕らえられて船に戻されてしまった。海軍において「脱走」は最悪の場合、処刑まであり得る重大な違反行為。

その処遇はカートレット船長の一存にかかっていたが、ジョンの父親との関係も考慮され、何とか処刑は免れた。階級を最低ランクの三等兵(Ordinary Seaman)へ格下げすることで、ジョンの脱走事件は何とか収拾したのだった。

どん底のジョンに訪れる転機

海軍において最低ランクの三等水兵に格下げされ、脱走歴のある下っ端として、以前よりも辛い兵役についていたジョン(当時21歳前後)だったが、彼の人生に大きな転機が訪れる。

ジョンが乗っていた軍艦ハリッチ号は、アフリカ南西の岬である喜望峰(the Cape of Good Hope)への長旅の準備のため、アフリカ北西海岸沖カナリア(Canaries)諸島の北方にあるマデイラ(Madeira)島に停泊していた。

その際、ハリッチ号の船員がギアナ商船から二人の腕のある船員を強制徴兵したところ、商船の方も人が少なくなるのは困るとのことで、代わりの船員を二人交換してくれと条件をつけたのだ。

写真:マデイラ島フンシャルの町並み(ポルトガル領)。サッカー選手クリスティアーノ・ロナウドの出身地。コロンブスの生まれ故郷との説もあり。

ギアナ商船とのやりとりを見ていたジョンは、脱走による格下げで辛く厳しい待遇から逃れるため、交換要員の一人として自分を任命してもらうようカートレット船長に懇願した。うまくいけば割と早くイングランドへ戻れるかもしれないとの期待もあったようだ。

カートレット船長は、脱走歴のある三等水兵を厄介払いできるいいチャンスと考え、彼の必死の要望を受け入れた。ジョンは見事に軍役から解放されたのだった。

民間商船の使用人として新たな船出を待つジョンだったが、その先に大きな運命の荒波が待ち受けていようとは、この時の彼は知るよしもなかった。

ジョンが乗船したギニア商船は、三角貿易(the Triangular Trade)に携わる商船だった。三角貿易とは、イギリスから持ち込んだ衣類や生活用具、武器を黒人達と物々交換し、その後西インド諸島やアメリカ南部の植民地で黒人達を砂糖やたばこなどと交換し、それをイギリスへ持ち帰るというもの。

アメリカ南部で黒人らが収穫した綿花はイギリスへ輸出され、産業革命の基盤となったが、19世紀半ばに勃発したアメリカ南北戦争の大きな原因の一つとなっていった。

ジョンは約半年間、アフリカ南部から川の河口付近へ集められた黒人達を集めて船に乗せる役務をこなしていった。

一連の作業が身についてくると、商船のオーナーであったクロー氏(Mr Clow)に認められ、シエラ・レオネ(the Sierra Leone)の河口付近での作業を一人で任されるようになった。

この頃のジョンは22歳前後で若く体力もあり、熱帯地方での過酷な作業も精力的にこなしていた。

ある時熱病にかかって動けなくなる程に体調を崩してしまい、ある地元の黒人女性に助けを求めたが、助けを求めたはずの彼が受けた待遇は、病人への「助け」とは程遠いものだった。

シエラレオネでの苦難の日々

アフリカのシエラレオネで熱病にかかったジョンが助けを求めた女性は、プリンセス・ピーアイ(Princess P.I.)と呼ばれる地元の育ちのいい黒人女性。

彼女は現地で最も重要な女主人であり、ジョンが乗船した商船のオーナーであるクロー氏の繁栄は、彼女の影響力のおかげだった。

クロー氏が島を離れている間、何故か彼女はジョンに対して非情なまでに冷たく接した。それまでジョンが使用していた小屋を取り上げ、取引される黒人達を収容しておくシェルターに彼を押し込み、食事もほんのわずかな量しか与えなかった。

空腹に耐えかねたジョンは、シェルター内に生えていた植物の根を生のままかじって飢えをしのいだという。

彼女が何故ジョンにこんなにも冷たく接した理由は定かではない。クロー氏が戻ってくると、また以前のまともな待遇に戻されたが、それまでの冷遇をクロー氏に話しても彼は全く対処してくれなかった。

ジョンの不運はまだ続いた。クロー氏の使用人として更に別の船旅に出ていたジョンは、彼がクロー氏を騙そうとしているという根拠のない疑いをかけられ、クロー氏がそれを信じてしまったのだ。

ジョンは甲板上に拘束され、食事も一日にご飯一口分しか与えてもらえず、それは陸に着くまで続いた。ちょうど雨季で天候は最悪な中、激しい風雨をさえぎるものはなにもなく、粗末な着衣で空腹で雨ざらしの辛い時間は丸二日にも及んだ。

苦しみに耐えかねるジョン

ボスであるクロー氏の信頼を失い、島ではプリンセス・ピーアイに嫌われ、アフリカで一人孤立してしまったジョン。厳しい環境の中で辛い仕打ちを何度も受けてきた彼は、すでに身も心もボロボロになっていた。

そんな彼は、幾何学に関するユークリッドの『原論』(the first six books of Euclid)を読みふけることで、この悲しみや苦しみを紛らわそうとしていた。浜辺の砂浜をノート代わりに独学で理解を進めていったという。

ちなみにユークリッドは、古代エジプトのギリシア系哲学者エウクレイデスの著書。当時は聖書に次ぐ世界的なベストセラーで、以後の幾何学の発展の基礎となった重要な書籍。

父親に助けを求めたジョン

やがてつらい状況に耐えられなくなったジョンは、父親に助けを求める一通の手紙を書いた。行方の知れない息子の身を案じた父親は、この手紙を受け取ると、すぐに親友のマネスティ氏に依頼して、ジョンの元へ迎えの船を手配した。

一方で、彼の周りの環境も劇的に改善していった。彼はクロー氏から他の貿易船で働くことを許されていた。

移った船の船長ウィリアム氏(Mr. Williams)がとてもいい人で、ジョンを一人前のパートナーとして扱ってくれ、貿易のマネージメントまで任せてくれる程に彼を信頼してくれた。

ジョンはこの信頼に応えて一生懸命取引に没頭し、仕事に楽しさや充実感まで得られるようになっていた。助けを求める手紙を書いてしまった彼でしたが、もうこのまま帰らなくてもいいとさえ思うようになっていたようだ。

彼を迎えに来たのは、やがてジョンが神の奇跡を体験することになる伝説の船、グレイハウンド号だった。

マネスティ氏がジョン救出に向かわせたグレイ・ハウンド号(Greyhound)は、黒人を乗せるための船ではなく、金、象牙、蜜蝋などを運ぶ一般の商船だった。

折角来てくれた迎えだったが、すでにジョンを取り巻く状況はかなり改善しており、新しいボスであるウィリアムス氏の下でのビジネスも順調であったため、ジョンはグレイハウンド号に乗ろうかどうか迷っていた。彼を迷わせていたのは、故郷のイギリスで暮らす彼女の事だった。

一方グレイハウンド号の船長は、ジョンを連れて帰ればマネスティ氏やジョンの父親から報奨金を貰えたため、「イギリスに帰れば年400ポンドの年金がもらえる」とウソまでついてジョンを説得しようとした。「乗客扱いにするから働かなくて済む」とさえ言ったという。

ジョンはこのウソを見抜いていたようだが、数年ぶりに彼女に会えるうれしさには変えられず、船長のウソに騙されたふりをして、グレイハウンド号に乗船しイギリスへ帰ることにしたのだった。

長旅で出会った書籍

ジョンを乗せたグレイハウンド号は、積んでいた商品の取引を終え、1748年1月にイギリスへ向けて出発した。

帰りの道のりは長く、700マイル以上の航路を何ヶ月も船の上で過ごさなければならない長旅だった。

その間、ジョンは船に積んであったスタンホープ(Stanhope)著「The Christian's Pattern」を手にしている。

この書籍はトマス・ア・ケンピス(Thomas a Kempis)が著した「キリストに倣いて(The Imitation of Christ)」をスタンホープが書き直したもの。

「霊的生活の有益なる勧め」、「内的生活の勧め」、「内的慰安について」、「聖体に関する敬虔な勧告」の4部から構成され、世俗の軽視・苦行・克己・献身の勧めをその内容としている。

心が荒んでいたジョン

この頃のジョンは、まったく神の存在を信じていなかった。それどころか、神を信じる周りの者たちをあざ笑い、からかい、神への冒涜を繰り返していたという。

幼い頃には、母親からある程度キリストの教えを受けていたジョンだったが、長い間海の上で荒んだ生活を続けている内に、見えないものを信じる豊かな心はいつしか失われていたのだった。

最初はほんの暇つぶしに何気なく読み始めたジョンだったが、その内容に次第に興味をひかれ始める。

神なんているわけがない。いないに決まっている。

でももしこの本に書いてあることが本当だとしたら?

彼の中にわきあがってくる心の声に、ジョンは慌てて耳を塞ぎ、また仲間との他愛のない笑い話に戻っていった。しかしこの時の彼の内なる疑問は、グレイハウンド号での出来事を通して、ある種の確信へと変わっていくことになる。

嵐に巻き込まれるグレイハウンド号

イギリスに向けて出発してから2ヶ月が経過していた3月の初め頃、グレイハウンド号の海路上を激しい西風が猛威を振るい始めていた。

ある晩、ジョンは突然の激しい揺れと、船室へ流れ込んでくる海水に驚いて、目を覚ました。

「船が沈む!」

誰かが叫んだ。甲板では、船員が激しい波にさらわれ海へと投げ出されていく。船体は激しく損傷し、強風に舵はきかず、船員が出来ることと言えば、必死になって海水を外に汲み出すことぐらいだった。

水を汲み出せど汲み出せど、激しい波を受けて破損した船体から次々と流れ込んで来る海水。もう沈没は時間の問題かと思われた状況の中で、彼らにとって運が良かったのは、積んでいた大量の蜜蝋(みつろう)や木材が水より軽く、それらが何とか壊れかけた船を浮かせるに足りる浮力を持っていたことだった。

強風がおさまって来たのは明け方の頃。しかし波はまだ依然として荒く、船員達は海に投げ出されないように自分の体をロープでしばりつけ、昼頃になってもまだ海水を必死になってかき出し続けていた。

船員達は少しでも漏水を食い止めようと、シーツや衣類をかき集め、破損した船体の隙間に詰め込み、上から板を打ち付けていく。

何時間作業を続けても一向におさまらない漏水に、誰もが最悪の状況を予感しつつも、ずぶ濡れでクタクタの心と体に鞭打ちながら、船員達は休むことなく懸命に体を動かし続けていった。

人生を振り返るジョン

ジョンは9時間以上の排水作業で疲れ切り、半ばあきらめたように横になり休んでいると、しばらくして船長から呼ばれて舵を任された。

彼は、荒れ狂う海原を前に舵輪を握りしめながら、ふとこれまでの自分の人生を思い起こしていた。

母親の死、父親との航海、彼女との出会い、海軍への連行、脱走、商船での苦難。母の教えを忘れ、父の期待を裏切り、軍役から逃げ出し、そして神を愚弄しあざ笑っていた自分。

沈み行かんとする船の上で、自分たちが助かるとすれば、もはや神の奇跡以外にはありえない。しかし僕のように罪深き人間を、神様はきっと許してはくれないだろう。

彼はそんな絶望的な思いを抱きつつも、最後まで諦めることなく、一縷の望みにかけて舵を握り続けていた。

訪れる神の奇跡

どのくらいの時間が経っただろうか。船員総出の努力の甲斐があってか、気が付けば漏水はおさまり、船の揺れも幾分穏やかになっていた。

真っ黒い雲間からは青空がのぞき、一筋の光が差し込んでグレイハウンド号を明るく照らし出していた。

沈没の危機をからくも脱したグレイハウンド号の甲板の上で、ジョンは自分が助かったことがまだ信じられず、ただ呆然と立ちつくしていた。

もちろん、まだ陸についたわけではなく、危険な状況であることには変わりはなかった。

しかし、絶望的とも思えた危機的状況を乗り越えたジョンの目は、まばゆい光の中で自分に手を差し伸べる神の姿が確かに映っていた。

僕はまだ生きている。今まで数々の不徳を繰り返してきたこの僕が。これが神の所業というものか?神はこんな僕を助けてくれたというのか?

大きな危機を一つ乗り越えた彼らだったが、もう一つの大きな問題の存在に気が付くまでそれほど時間はかからなかった。

沖へ流されるグレイハウンド号

沈没の危機を乗り越えたものの、「食料不足」という問題が彼らを更に苦しめた。船体の一部を破壊する程の強風と荒波により、家畜はすべて海に投げ出され、食料を入れた樽は砕けて中身が飛び散り、もはや食べられる状態ではなくなっていた。

運良く残っていたのは塩漬けのタラと飲料水の樽。これらも少しずつ大切に摂らなければすぐになくなってしまう程の量しか残されていなかった。

どんなに節約したとしても、岸に着くまで食料が持つという保障はなく、風で更に沖へ流されてしまったらもはやそれまでという状況だった。

気が付くと、船はアイルランドの西方沖をただよっていた。遥か遠くかすみの中に、おぼろげながら陸らしきものが見えはじめていた。

しかし、食料や水が尽きる前に港へ辿りつかんとする船員達の願いもむなしく、沖へ沖へと吹き付ける風。なかなか港に近づけず、波間を漂っている間にも確実に減っていく食料。

折角必死の努力で嵐の中を乗り越えたのに、自分達はこのまま船上で飢えてしまうのではないか。船員達は不安と空腹と必死に戦いながら、最後の気力を振り絞って、船を陸へ近づけようとできる限りの努力を続けていた。

舞い降りる神の奇跡

そんな彼らの願いが神に届いたのだろうか。イングランド沖を2週間も風に流され、食料もまさに底をつきようとしていた。

船員達もなかば諦めかけていたその時、突然風向きが変わり、グレイハウンド号を静かに陸の方へ導き始めた。

穏やかな風は、壊れかけた船体を優しくいたわる様に、グレイハウンド号を港へと近づけていった。

嵐の日から約1ヶ月後の1748年4月8日、ついに彼らはアイルランド北部のドニゴール州スウィリー湾(Lough Swilly/Donegal)に命からがらたどり着くことができた。

グレイハウンド号が着岸したとき、船のキッチンでは鍋で最後の食料を調理していたところだった。

更に驚くべきことに、彼らが2時間前にいた風の穏やかな海上は、彼らの船が陸の近くの安全な海域まで達するや否や、嵐のような天候に一変した。

それはまるで、神が彼らのために少しの間だけ晴れ間をもたらしてくれていたかのようだった。

写真:アイルランド北部のスウィリー湾(Lough Swilly / 出典:wikipedia)

奇跡とも言うべき数々の現象を目の当たりにしたジョン(当時22歳)は、心の底から沸き上がる確信とともに、こうつぶやくのだった。

私には分かる。祈りを聞き届けてくださる神は存在すると。私はもはや以前のような不信な者ではない。私はこれまでの不敬を断ち切ることを心から誓う。私は神の慈悲に触れ、今までの自分の愚かな行動を心から反省している。私は生まれ変わったのだ。

グレイハウンド号がたどり着いたアイルランドから故郷のイングランドに戻ったジョンは、父親が仕事で航海に出ていたため、父親の友人でありグレイハウンド号のオーナーであったマネスティ氏を訪ねた。

当時ジョンはまだ23歳という若さだったが、数々の修羅場をくぐりぬけて逞しく成長した精悍な面構えがマネスティ氏に気に入られ、彼の船の船長として働くことを勧められた。

ジョンはこの提案をとても喜んだが、正直自分にはまだ経験が足りないと感じていた。まずは船員として色々な事を学び、納得がいく仕事ができるようになってから船長として働きたいと、マネスティ氏に伝えた。

そこでマネスティ氏は、ジョンをハーディー船長(Captain Hardy)のブラウンロー号(the Brownlow)に一等航海士として乗船させ、将来の船長候補としての経験を積ませることにした。

奴隷貿易船だったブラウンロー号は西アフリカへ向かい、熱帯の厳しい気候の中、ジョンは昔のように、川に沿って黒人達を買い集める任務に従事していった。

乗組員や黒人達は熱病で次々に倒れ、黒人達の暴動で死傷者が出るなど、以前と変わらず大変な航海だった。

しかしジョンは、船の上で独学でラテン語の勉強を続け、聖書も少しずつ読み進めていき、知識と精神の向上に努め続けた。ジョンの中で、イエス・キリストの存在は日に日に大きなものとなっていった。

初恋の彼女へのプロポーズ

アフリカでの航海を終えて、リバプールへ戻ってきたジョン。一等航海士としての役目を立派に果たして帰ってきたジョンの姿を見て、マネスティ氏は約束どおり彼に船長の地位を与え、ジョンもこれを喜んで受け入れた。

次の航海シーズンまで時間があったため、ジョンはチャタムにいる初恋の彼女カトレット(ポリー)に会いに行きました。この頃彼女は二十歳過ぎで、ジョンは24歳になっていた。

実はブラウンロー号での出港前にも彼女に会いに行っており、彼女の素っ気無い態度にくじけそうになったジョンだったが、あきらめずにこれまで何度も彼女に思いの丈を手紙で伝え続けていた。

今回の訪問では何故か優しく接してくれた彼女に、ジョンは勇気を振り絞って結婚を申し込んだ。しかし、男女の駆け引きというものか、彼女はジョンの一回目のプロポーズを受け入れてはくれなかった。

だがジョンにとっては7年越しの恋。そう簡単に諦めるわけには行かなかった。日を改めて再度彼女にプロポーズしたが、これもまた彼女は首を縦に振ってはくれない。

きっと彼女は、ジョンがどれだけ自分の事を本気で想ってくれているのかを試したかったのだろう。

これまでいくつもの試練を乗り越えてきたジョン・ニュートン。2回ぐらいの失敗で諦めてしまう程やわな男ではなかった。

3回目のプロポーズの数日後、彼女はとうとうジョンの求愛を受け入れ、1750年2月12日、チャタムの聖マーガレット教会で二人はめでたく結ばれたのだった。

上写真:現在の聖マーガレット教会(出典:wikipedia)

船長として4年の航海

1750年8月にジョンが25歳の若き船長として乗り込んだのは、2本のマストを擁するスノー型帆船アーガイル号(The Duke of Argyll)だった。

彼の下についた30人の部下の模範となるべく、ジョンは規律の維持と食料の節制に努めた。

船内は定期的に清掃され、黒人の暴動が起きたときも冷静に対処し、当時にしては人道的な扱いを心がけていました。仕事の合間を見つけて、聖書やラテン語の勉強も続けていた。

ジョンはその後も順調に新たな航海をこなしていったが、ある時突然の病気に襲われたことがきっかけとなり、1754年の航海を最後に、船長の仕事から身を引いている。

牧師になったジョン・ニュートン

病気をきっかけに船を下りたジョン・ニュートンは、その後マネスティ氏の紹介を受けて、リバプールの潮流調査官を1755年から5年間務めた。

その後ジョンは、福音伝道家で英国教会の執事だったジョージ・ホイットフィールド(George Whitefield/1714-1770)と出会い、彼の熱狂的な弟子となった。

一方で、これまで独学で学んできたラテン語にくわえ、ギリシャ語やヘブライ語まで独学の幅を広げ、メソジスト派の創設者であるジョン・ウェスリー(John Wesley)とも交流を深めていった。

その後、聖職者としての道を歩むことを決意したジョン。ヨークの大司教に一旦は拒否されたものの、イングランド東部のリンカーンの司祭から聖職位を授かり、イングランド中南東部バッキンガムシャー州にあるオルニー教会の牧師となった。

アメイジング・グレイス誕生

やがて詩人ウィリアム・クーパー(William Cowper)がオルニーへ移り住み、ジョンと親友になると、彼はジョンと行動を共にし、毎週の礼拝のための賛美歌を共同で書き上げた。

二人が書き上げた新たな賛美歌は、ジョン牧師が54歳の1779年に「オルニー賛美歌集」として発表された。

この「オルニー賛美歌集」に収められた一篇の詩にいつしかメロディが付けられ、イギリスからアメリカへ広まり、『アメイジング・グレイス Amazing Grace』と名前を変えて、世紀を超えて世界中の人々から愛されることとなった。

ジョンは1780年にはオルニーを去り、ロンドンの聖メリーウールノース教会(St. Mary Woolnoth, London)の司祭となって、それから晩年まで説教を続けた。

ジョン・ニュートンが人々に与えた影響は計り知れず、その中には後にイギリスにおける奴隷制度廃止運動の指導者となるウィリアム・ウィルバーフォース(William Wilberforce)の名前もあった。

82歳を迎えた1807年12月21日、ジョン・ニュートンは神の御許へ旅立っていった。晩年、彼はこんな言葉を残している。

"My memory is nearly gone, but I remember two things, that I am a great sinner, and that Christ is a great Saviour."

「薄れかける私の記憶の中で、二つだけ確かに覚えているものがある。
一つは、私がおろかな罪人であること。もう一つは、キリストが偉大なる救い主であること。」

「主の御名を呼び求める者はみな救われる」
ローマ10章1~13節

『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。 聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。』

主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。