「花様年華」ふたたび
再び「花様年華」を観て、まだ色々な余韻を味わっています。ここで一つの気づきをシェアしたいと思います。それは周慕雲(トニー)と蘇秘書(マギー)の交流が深まるきっかけになった、武侠小説です。日本語の字幕には、「小説」だけに訳したけれども、それはそれで問題がありません。字幕の時間と字数が限られているし、映画の全体には影響がありません。
ただし、「武侠小説」をもっと知っていればその時代の香港を深読みができるのではないかと店主は思っています。
武侠小説と言えば、第一人者の金庸でしょう。彼は元記者で(周と同じ)、1955年から香港「新晩報」(新聞紙)に「書劍恩仇錄」という武侠小説の連載を始めました。一気に人気を博した。1959年に彼が独立して「明報」を創刊したと同時に「神鵰俠侶」の連載開始。資本が少なく小さな新聞紙だったので、「明報」の売りは金庸の武侠小説連載に頼っていた。
50、60年代の香港は経済発展はまだ途中だったので、テレビ、ラジオまだ普及していない時代には庶民の娯楽は少なかった。新聞連載小説を読むのが毎日の一つの楽しみでした。特に武侠小説。
映画の中に、マギーが隣の大家さんに訪ねて、買い忘れた新聞紙を借りようとするシーンがありますね。武侠小説の連載を1日読まずにいられなかった時代でした。店主の父もその一人でした。映画の背景は1962年なので、マギーが読んでいたのが金庸の「倚天屠龍記」(1961〜63年明報に連載)かもしれない。そこで留守の大家さんの代わりにトニーが新聞紙をマギーに渡した。「武侠小説が好きですか?」「はい」「私はたくさんの単行本を持っていますよ、貸してあげましょうか?」。それが彼らの交流の始まりです。その後、トニーが自分も書いてみたいと言って、マギーの手伝いを求めました。
その時代は「武侠小説の黄金期」と呼ばれ、多くの文化人は金庸のように武侠小説を書いて生計を立ていた。
1972年金庸の最後の小説「鹿鼎記」が連載終わったと共に「武侠小説黄金期」も終わったと言われた。ただし、それ以降金庸の小説の人気が続く、相次ぎドラマ化、映画化されていました。WKW監督の「東邪西毒」も金庸の小説人物に基づいて作られました。
武侠文化は世代を超え、香港の映画、漫画、テレビドラマ、様々な分野に影響を与え続いている。香港ノワール映画は、「男たちの挽歌」から、ジョニー・トーの傑作まで、武侠のDNAを引き継いでいます。最近香港興行収入記録を更新した「九龍城寨之圍城」も背景は80年代の城寨ですが、それ以外のストリーから人物の関係、武術の表現、全体の構成まで、まるで武侠小説のままだ、と店主は思っています。
さて、「花様年華」に戻りましょう。大家の顧さんが酔っ払って、麻雀仲間たちが予定より早く帰ってしまって、トニーとマギーが部屋に閉じ込まれたシーンがありますね。そこにトニーが小説を書き始めたところ、マギーの問いに答えたのが、さき大家さんの様子を見て、「新たに“大酔俠”という人物を小説に入れようかな」と。
「大醉俠」というと、武侠映画巨匠キン・フ(胡淦銓)の1966年の名作映画ですね。もしかして、周慕雲が創作した人物はキン・フ映画の原型では、と店主が勝手に想像してしまいます。
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