それで自由になったのかい
あなたは、ピアスしてる お爺さんを見たことありますか?
私は毎朝、見てます。 笑
さて今回は、ダメダメ男の自分探しの半生、恥の上塗りネタ。
他人の履歴書なんて、興味ないって方はスルーして下さいね。
GW前が超絶忙しく、やっと書けるようになったもんで、ついつい長くなっちゃいました。
「自由」という言葉は
福沢諭吉が作ったらしいですね。
「フリーダム」を和訳する際に、日本語で該当する言葉が無かったらしい。
それまでの日本では、お上から言われたコトしか出来ないし、個人の意見どころか自由という概念すらない時代。
そこで、自らを由とし、己を認め信じるのが「自由」だと・・・。
逆に言えば、束縛から解放されたところで、己の確固たる考えがなければ、本当の「自由」にはなれないわけですね。 深い
昔、遊び呆けたあげくに
つまらない学校へは行かず、自主退学したアホな高校生がいました。
ま、私だけど・・・。
その頃は男子校だったし・・・ね。 それは関係ないか。 笑
たぶん高校生活とか専門的な授業内容に、変な期待というか、憧れを持ちすぎたのかなぁ!?。
それと、近所のおばちゃん (母親の友達) の学歴偏重思考にもメチャ嫌気が差していたんですよね。
自分で選んだ学校なのに、行く意味を見出せなかった若き日。
当時、つるんでた女の子達には、
「俺って、自由人だから」
「まわりと同じレールなんか歩きたくないし」
「毎日ネクタイ締めて、満員電車に揺られるなんて」
「タイムカード押して、上司の顔色うかがう人生はまっぴら」
などと、小学生レベルの後付け自己顕示。
アホ男の周りには、似たような人種が集まるもので・・・。
「うん、そう思う、他人に使われるタイプじゃないよね」
「きっといつか、デッカイ事やりそうな感じがするわ」
って、矢沢永吉かよ!!。 汗
工業系大学の
付属高校だったので、親からしてみたらそのまま大学行って何かのエンジニアにでもなるのだろう、ぐらいに考えていたと思います。
それが突然「高校辞めるわ」って、バカ息子が言い出して・・・。
私立なのでそれなりに、お金の工面も大変だったんじゃないかな。
両親の心労や落胆は、イカばかりだったのか、タコ踊りも出来ない有り様・・・。 ごめん
辞めたところで所詮は
収入を得ないと生きていけないわけで、実家を飛び出してさまざまな仕事を経験しましたね。
とある、完全歩合制の営業をしていた時は、当初めちゃ売れて毎日のように高級店でランチしてたのに、数ヶ月でジリ貧に・・・。
東京赤坂の立派なオフィスの片隅で同じような境遇のヤツと、ひとつのカップ麺を半分ずつ食べる毎日、なんてブラックな青春もありました。
彼のアパートに転がり込んだり、まさにソウルメイトと呼べる付き合いになるのですが、貧乏が2人を引き裂きます。 涙
昭和枯れすすき っぽいなぁ。
(あ、そっちの関係はありません) どっちや?
ちなみにこの会社で、嫁さんとも出会いましたね。
嫁さんは「何故あの時、断らなかったんだろう、失敗した。」みたいなコトを、今でも時々ほざきます。
その後、21か22才の頃
知り合いの紹介で、学歴不問でコンピュータ・プログラマーの募集があると。
未経験者歓迎だし、PCスクールで基礎から学べるから心配ないという美味しいお話。
当時はPCなんて持ってないし、いじった事もなかったので、あまりノリ気ではないものの面接へ。
たしかに学歴不問だったが、しっかり入社試験とIQテストまであって、焦りまくり。
なかば諦めていたら、奇跡的に合格しちゃって・・・。
神かがり的な鉛筆転がしテクなのか!?。 笑
仕事の内容は
海外支店や現地法人と日本のメインコンピュータとのデータファイル通信システム。
「COBOL」という言語を使って、さまざまなプログラムを作り、最後にまとめてシステム化するのです。
結構面白い仕事で、自分でも向いていると思いましたね。
先輩達が悩んで、なかなか構築出来なかったプログラムもすぐに組めたし、過去作の無駄なロジックに気付いたり・・・。
しか〜し、その出向先
というのが、花のお江戸の日本橋!!。
某財閥系信託銀行本店なのでした。 キツい
先ほど書いた自由人気取りの否定的事案を、全て「地」でいく世界。
なんせ銀行本店です、厳格、真面目、大人しい。 く、くるしい。 息がぁ〜
ちょっとでも目立つことをすると、始末書がデスクの上に置いてあって、「今週中に提出」なんて付箋が貼られてましたわ。 汗
ネクタイ締めて、アタッシュケース持って、満員電車に乗る毎日。
偉そうなコト言って突っ張ったところで、結局はコレが現実だよなぁ〜、って思いが常にあった時代。
まぁ、高校中退のわりにはマトモな仕事してるのか!? なんて、自分で自分を慰めていた。
ちょうどその最終時期に
ウチでは三男の出産が重なり・・・。
本来なら開発したシステムの移行の為に、香港、シンガポール、ロンドン、NY、LAと地球一周の海外出張が控えていた。
が、さすがに臨月の嫁さんを置いては行けないし、長男、次男の世話もあるので香港のみ応援して、すぐに帰国することに・・・。 涙
後にも先にも、ビジネスクラスに乗ったのは、この時だけですねぇ。
で、やっと銀行での
堅苦しい出向業務も終わり、次な出向先は? なんてタイミングで、仕事をくれていた元請け会社2社のU社とB社の合併併合が決まり、下請け零細企業は宙ぶらりんになるのです。
合併後のコトは完全に白紙状態だと・・・。
おまけに家庭内では、嫁さんのワンオペ育児が限界に近づきつつありました。
西新宿に住んでいたので、上の子たちが走り出すと危なすぎるし、街に人が多すぎて育児出来る環境ではないと。
今、都庁がある辺りが公園までの散歩道でしたね。
そして心機一転、会社も辞め、嫁さんの生まれ故郷の名古屋へと引っ越すのでした。
続きはCMの後で
ウソです・・・。
名古屋でも、プログラマーや色々な仕事を探したんですが、どうもしっくりくる所がない。
欲を言えば、ネクタイを締める仕事はもう嫌だなぁ、ってのがありまして。
まぁ何やかんやで、今の会社に入りました。 ざっくり
まだ籍を置いているので詳しくは書きませんが、割と特殊な金属加工の会社です。
決め手となったのは、比較的個人の自由が許されている雰囲気ですかね。
もちろん仕事がきっちり出来た上でのハナシですが・・・。
仕事自体もかなりセンスというか、性格や力量が出ちゃう仕事で興味がありました。
んで、入社2年目には、髪を染め、無精ひげにピアスとなってしまうのです。
28歳、3人の子持ち・・・。
もうアウトですねぇ、社会人失格であります。
先輩達には、ぺーぺーのくせに目立ち過ぎだぞ!! って、かなり言われましたけどね。
私も若くて少し、とんがってました。
そんな会社で
35年目突入、今や髪は真っ白となり、無精ひげとピアスだけが残りましたわ。 笑
これだけ長くいられたのは、やはり水が合っていたのかもしれません。
そもそも何で、ピアスなんか付け始めたのか??
なんで毎朝、ヒゲを剃るコトに抵抗を覚えたのか??
自分でも不思議です。
左耳に鉄の輪っか
付けたところで、自由になれるとでも思ったんでしょうかねぇ。
いったい何に対しての反抗だったのか。
何からの解放だったのか。
17才の自分への、せめてものシンパシーだったのか。
サラリーマンにしかなれなかった自分への、アンチテーゼだったのかもしれませんが・・・。
小さい頃から
無口で、恥ずかしがり屋、引っ込み思案。
そんなコミュ障だった私が、いわゆる「普通」をオーバーランしてしまいましたねぇ。 笑
それがピアスのせいなのか、年齢的なものなのか、環境なのかは分かりませんけど。
まっ、これからも皆様にご迷惑かけながら、私は私であり続けたいと思っております。
ピアスを外す日は来るのか??
何の学びにもならない独り言にお付き合い頂き、ありがとうございました。
岡林信康で 「私たちの望むものは」
バックバンドには、「はっぴいえんど」です。
タイトルにも使わせていただいた
「それで自由になったのかい」
最後に、もう一曲
少女の作文を元に作られたという、放送禁止歌。
上記の動画は切れてましたねぇ。
YouTubeリンクあるあるっす!!
新しいのを貼りました。
救われないコトってありますよね。
この曲を聴くのも嫌だって人もいます。
封印したい過去が蘇ると・・・。
では、では、また次回。 ありがとうございました!!