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雑記: 「考え続けなきゃ」という欺瞞(2024/04中旬)

先日、ウクライナ人の友達と、地下鉄のプラットフォームだった場所で暮らしている人たちのドキュメンタリー映画を観に行った。その映画で「廃墟」として紹介された街は、彼の実家があった街だった。

そのシーンを観ている時、その廃墟が、いま隣に座っている友達の故郷だとは信じられなくて、「さっきまで一緒になってヘラヘラ雑談してたのに?」とか思っていた。映画を観終わって、サクッと飲んで帰った。彼と会う時は、いつもそうだ。まるで業務連絡みたいに、お互いの話したい事だけを話して終わりだ。それが心地よい。

帰りの電車を待つプラットフォームでなんとなくユーチューブを開いたら、「ガザでは、合計3万人以上が死んで、その内の1万人以上が子供だった」というニュースが目に入り、「今はムリだな」と思って閉じて、かといって別にすることも無いから、久しぶりにtwitt…エックs、SNSを見ていたら、日本でのパワハラに関する投稿が目に入ったが、「これもムリだな」と思って閉じて、インスタならいけるか、と思って開いたら、さっきまで一緒にいたウクライナの友達が、ウクライナ支援の募金先に続いて、ガザの人道支援の募金先に関する発信していた。

こういう時、「考え続けなけきゃ」と思う。逃げずに向き合わなきゃ。だって、彼らは逃げられないんだから、せめて考え続けなきゃ、と思う。でも、「考え続けなきゃ」という結論が、嫌いだ。なぜなら、考え続けていようが思いつきで話そうが、出した結論が間違っていたら、無意味だからだ。伝えた相手を不快にさせる分、自己満足よりも悪質だ。「考える」というのは、足踏みをしているだけの状態で、一歩も前に進んでいない。それをまるで、少しずつでも前進しているかのように振る舞うのは、欺瞞だ。

だから、「考え続けなきゃね」とウッカリ言ってしまった日には、とても憂鬱になる。これまでの人生と、これからの人生で「自分が間違ってしまった場面」と向き合う時、『確かに間違ったけど、あんなに考え続けたんだから、仕方ないさ』と、自分で自分に予防線を張ったような気分になるからだ。

これは、『練習は裏切らない』という欺瞞と似ている。練習しようがしまいが、本番で結果を出せる人だけが、評価される。だから、「正しい練習法を続けていけば報われる可能性が高くなるかもしれないが、それは、才能、環境、運に恵まれた人だけに限った話です。」と言うべきだ。どれだけ自分や他人と向き合い、頑張り、苦しもうが、結論が全てだ。

さっきから、成果主義に取り憑かれた限界係長みたいなことばっかり言ってるが、おそらく「考える」とは、筋トレと同じだ。普通の人は、100キロのダンベルを急には持ち上げられなくて、50キロ、70キロと段階的に上げていくだろう。それも、1、2週間の話じゃなくて、長期的に、定期的に、正しいトレーニングを積んでいけば、いつかは100キロのダンベルが持ち上がる、かもしれない、という話だ。

だから例えば、「難しい本」が100キロのダンベルだとすると、その本の内容を理解するには、前提になる土台が必要で、その為に基礎的な情報から調べて、知識を積み上げていけば、いつかは難しい本が理解できるようになる、かもしれない。100キロのダンベルを持ち上げる為に、50キロ、70キロと積み上げていくように。しかし、ここでの問題は、難しい本は、「読める」と言う事だ。文字の話だ。これが厄介で、なまじっか読める分、理解して前に進んだ気になる。

こんなことは、もう、難しい。何がなんだか分からない。それはまるで、そこらじゅうに転がっている物を手当たり次第に持ち上げて、これが50キロで、あれは70キロで、と、その重さの判定を、一人だけで続けていくような、孤独な営みだ。

今日は以上。最後まで、有難うございました。トップ画は、ロンドンは建物が低いから空が広いな、左上の白い点は三日月だけど、写真にすると壁に付いてる鼻クソみたいだな、の写真。


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