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先日の必修授業で発表された『とある問題作』について

今学期は、卒業制作のアイディアを練る為に、毎週5分以内のパフォーンマンスを自由に作り、それを見せ合うだけの必修授業がある。提出した作品に対して、お互いに意見を言い合ったり、創作意図を言語化したりしながら、卒業制作に向けて準備を進めていく為の授業だ。そこで先日、『とある問題作』が発表された。その一連の出来事が興味深かったので、その場に居合わせた生徒としての立場から深掘りしたいと思う。

ここでは『問題作』の内容については詳しく触れないが、その日、ある男子生徒が『イギリスで実際に起きた連続殺人事件の犯人のインタビューをリミックスした音楽にノッって踊る』というダンス作品を作ってきた。同級生たちからの反応は最悪で、その子に対する批難の嵐。また、彼が事前に『内容に関する注意喚起』をしなかった事もあり、激しく動揺する生徒が出てしまったので、結局、その日の授業は中止になった。確かに彼の作品は、控え目に言っても悪趣味で、グロテスクだった。

まず、彼が「作品を上演する前に注意喚起をしなかった事」は、明らかに判断ミスだったと思う。他の生徒達も、DVや動物虐待などがテーマも作品を作ってくることはある。ただ、殆どの場合で、事前に注意喚起があって、制作意図に賛同できない子や、フラッシュバックの恐れがある子、あるいは単純に興味が持てない子は、その作品を見なくて良い。そして毎回、だいたい2、3人がスタジオを出ていく。

この点、彼が事前に注意喚起をしなかった理由は、「『突然の悲劇』に対し、人はどんな反応をするのか?という問いを提示したかったからだ」と言った。つまり、彼の作品は「突然の悲劇」であって、それに対して観客のあなたは、どんな反応をするのか?という演劇的な問いだ。個人的に、このコンセプト自体は面白いと思う。ただ、それならば彼は、意図的に「ヤバい作品」を作ってきた事になる。実際、彼が同級生からの批判に受け答えしていた時、「だってこの授業では、作品を『自由に』発表するんでしょ。それなら、こんな『ヤバい作品』も出しちゃえるでしょ?」という本音が見え隠れしていた。

ここで僕の疑問は、もし彼が、事前に注意喚起をした上で、彼の制作意図に興味を持った生徒だけに向けて発表していたのであれば、彼は、許されていたのだろうか?という点だ。最初に書いた通り、この授業の主な目的は『自由にパフォーンマンスを作り、それを見せ合う事』である。だから彼は、この授業で求められている通り、5分以内のパフォーマンスを自由に作った。そして、必修授業なのだから、彼には『彼自身が面白いと思った作品』を、思うままに作る以外の選択肢はなかった。ここで最も重要なのは、この授業において『注意喚起をするべき内容に関するルール』が、決められていなかった事だろう。この点、実社会では、各々が自分のモラルに従って作品制作をするのだから、これは当然といえば当然かもしれない。しかし、大学の必修授業で学生は、この『曖昧さ』から、どこまで守られるべきだろうか。

例えば、彼の作品が「架空の連続殺人犯のインタビューをリミックスした作品」であれば、あの混乱は起きなかったのだろうか。あるいは、「その犯人のインタビューを聴きながら、彼が悲しんだり、怒ったりする作品」であれば、どうだろうか。どの時代に、どこで起きた、どんな犯罪をテーマしていれば、彼の作品は『大丈夫』だっただろうか。これは、実在の連続殺人犯のインタビューをリミックスした音楽にノッって踊る作品は、倫理的に許されるのだろうか、という問いだ。話を広げれば、これは、演劇と倫理の限界に対する問いである。

僕はこの出来事を「芸術は聖域か?」という話、つまり、芸術であるならば、いくら社会倫理に反していたとしても、許されるべきなのだろうか、という話に持っていくつもりはない。少なくとも演劇は『聖域』ではないと、僕は思う。なぜならば、演劇が社会と繋がっている以上、つまり、生身の人間によって演じられ、それを観られることによって成立する以上、演劇に与えられているのは『表現の自由』であって『表現の無法』ではないからだ。それから、「彼の作品は、例えネガティブな感情であったとしても、激しく観客に訴えかけた、という考え方も出来る」という話にも持っていかない。あと、こんな長文を書けるってことは、一定の価値があったんじゃないか、という話にもしない。いくら学生だろうと、ダメなもんはダメである。彼の作品は、明らかに、ダメだった。しかし、どうも僕は、この出来事に対する興味を捨てることができない。そこで、ここから僕は、これが『大学の必修授業での出来事だった』という点に注目していきたい。

繰り返しになるが、彼は「5分のパフォーマンスを自由に作る」という、この授業の主題には反しておらず、また、事前の注意喚起に関しては、各々の判断に任されていた。それから、いくら彼が「大人」だといっても、彼は今まで、興行的に作品を作った経験は一度も無く、ハッキリ言って素人だ。では、この出来事に関する最終的な責任は誰にあるだろうか。結論から言うと、それは、講師にあるだろう。だから、今回の出来事について僕は、講師の責任が問われる事なく、彼の責任だけが追求されたのは、マズかったんじゃないか、と思っている。

あの日、講師たちは対応に困っていた。今までだって『ヤバい作品』を出してくる生徒はいそうなもんだが、そこについては予想外だったらしい。個人的には、そりゃ考えが浅いだろうと思ったが、あの日の生徒たちの批判は、まさに瞬間湯沸かし器で沸かしたように一気に最高潮に達したので、その発言の裏には「立場上、そう言うしか無かった。」という講師たちの心情を察する事はできる。だから、とりあえず、「こんなヤバい作品は、予想外だった」という講師たちの言葉を額面通りに受け取るとする。

しかし、いずれにせよ、最終的な責任は講師にあるだろう。なぜなら「製作者(彼)が自覚していない加害性」と、「それを事前に知り得ない観客(その他の生徒たち)の被害性」のバランスを保つ事が出来たのは、立場上、講師だけであったからだ。では、今回のようなケースを避ける為に、講師は、生徒が提出するつもりのアイディアを事前に全て検査するべきだったのだろうか。これが、僕の疑問の核心だ。芸術を扱う学部の、最終学年の必修授業で、生徒の発表作品を事前検査する事によって生まれる「メリット」と「デメリット」は、何だろうか?

ここで僕は、事前検査のメリットとして、「彼の作品によって、動揺した生徒たちを守れたかもしれない事」を挙げたい。単純に、そんなグロい話は見たくないと思う生徒が居たはずだ。また、想像を膨らませれば、同級生の中には、家族や友人、身近な人たち、あるいは恋人が、被害者、もしかすると加害者として、殺人事件に関与している可能性だってあった。だから、講師が「作品の事前検査」をする事で、そんな生徒たちを守る事が出来たかもしれない。では一方で、講師が「作品の事前検査」をする事によって、生まれるデメリットは何か。

振り返ってみると、あの日以降、生徒たちは、発表前の注意喚起に対して、とても慎重になった。彼を含め、あの場に居合わせた生徒は『実際に起きた連続殺人事件の犯人のインタビューをリミックスした音楽にノッって踊る』というグロテスクな作品を、今後、不用意に作る事はおそらく無いだろう。つまり、発表前の事前検査が無かったからこそ、彼は、彼自身の認知の歪みを実感できたのではないだろうか。そして、この問題は彼個人から広がって、その場に居合わせた生徒たちの学びになった。だから、講師が「作品の事前検査」をする事によって、この経験が無くなる事はデメリットだと思う。

結論として、あの日の講師たちは、彼を『プロのアーティスト』として扱った。しかし、その態度は『教育者』として、どこまで正しかったのだろうか。個人的には、あの日、講師たちが混乱を治める方向に動かず、むしろ、じっくりと話し合う方向に向かって欲しかったが、そうはならなかった。だから僕は、講師たちが「彼を批判した生徒たち」と、殆ど同じような立場であったことが残念だった。

問題の彼は、その後、3週に渡って欠席している。必修授業では、3回以上の欠席が認められないので、おそらく彼は、次回の授業から学期末まで出席するはずだ。ただ、彼が授業に来たとしても、あの日の事は誰も蒸し返さないだろうし、講師たちも、まるで何もなかったように彼と接するだろう。僕は、そんな彼が、どんな卒業制作を作るのか、ひっそりと楽しみにしている。

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