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リレーエッセイ「シュール」(連想#8)

高校時代の友人・トミーくんと始めたリレーエッセイ。前回のエッセイで、トミーくんが題材に選んだのは「宇宙」。普通に顔を合わせて遊んでいた頃に、宇宙について語り合ったことなんてなかったので、トミーくんの宇宙観が知れて面白かった。

トミーくんと同じく、私も“学研ひみつシリーズ”の「宇宙のひみつ」を小学校時代に愛読していた。誇張ではなく、リアルに本がバラバラになるまで読み込んだ。そして中学校で天文部、高校では地学部に入って星空を眺めていたので、宇宙について考える時間は周りの友人より長かったはずだ。

だが、大学で天文学や地学を学んで研究職に就こうとは思わなかった。私は、星空を眺めて「なんだかすごいや」とか「おれってちっぽけだななどと物思いにふけるのが好きだっただけで、宇宙の謎を科学で解き明かす的なミッションには興味が向かなかった。

数年前に高校時代の同窓会があり、小中高と何度も同じクラスになった友人から「はじめくんは天文学者になると思ってたよ。いまはあの頃みたいに星を見てないって本当?」と声をかけられた。少年時代は、星を見るべく夜中に出かけたり、望遠鏡をねだったりと、両親を振り回した自覚もある。いま天文をやっていない私に対して、父と母は「お前なんなん?」みたいな思いかもしれない。

厳密に言うと、研究者や専門家へのあこがれはゼロではなかった。でも、天文学を突き詰めようとすると、観測データに登場する日頃使わないレベルのばかデカい桁の数字とにらめっこしたり、電波望遠鏡で撮られた味気無いCG写真と向き合うことになったりするのだと、読む本の難度がアップするうちにわかっていった。そしていつしか「俺が好きな宇宙はそういうのじゃない」という思いが鮮明になり、「星は眺めるだけでいい」との気持ちが固まった。

高校時代の地学部の先輩たちの影響も小さくない。入部初日、まだ緊張している私を、先輩たちは「地学なんて死んだ学問だし、将来のメシの種にはならないだろうけど、ぜひわが部を盛りあげてくれ!」と自虐混じりに歓迎してくれた。当時、先輩たちは「科学雑誌や新刊の専門書を読んでも、驚くような新発見や新情報が見当たらない」ということを指して、地学=“死んだ学問”と評していたのだと思う。

80年代終盤、地学が死んだ学問だったかどうか実際のところはわからないが、いま考えると最前線で研究していた人たちにだいぶ失礼な発言だ。反論もせず「そうなのか」と納得してしまった私もひどい。30余年越しにごめんなさい。

当時はそれでも、星空を眺めるのが好きな気持ちは変わらなかったし、地学部の仲間たちと天文現象や宇宙について語り合うのは楽しかった。地学部で活動する一方で、バンドブームにのみこまれて次第に天体観測どころじゃなくなっていったわけだが、それはまた別の話。


宇宙の謎を科学的に解明する道から逸れた私だが、いま宇宙について思うことといえば、計り知れないからこその恐怖だったり、わけがわからなさ過ぎてなんか笑っちゃうーーみたいな感覚だったり。トミーくんも「わけがわからない」「恐怖」とエッセイに書いていたので、「やっぱそうだよね!」と読みながらニヤついてしまった。

宇宙には、はじまり(誕生)があり、終わり(死)もあるという。“宇宙の外側”についても議論されているが、そのあたりが本当にわけがわからない。ビッグバンってどこで起こったの? ビッグバンが起きた場所が、われわれにとっての宇宙の外側ってこと? 昔はそんな想像を巡らすのが楽しかったが、クラクラするだけで答えが出ないので、いまではすっかり考えるのをやめてしまった。恥ずかしながらの思考停止。こういった話題を科学的に考察し、謎を解き明かそうとしている科学者たちの頭脳やイマジネーションは本当にすごいと思う。


ABEMA TVで以前配信されていた「スピードワゴンの月曜THE NIGHT」は、週替わりで、お笑い、都市伝説、科学ネタ、セクシー系などなど様々なテーマを扱うバラエティ番組で、私は毎週の配信を楽しみにしていた。「宇宙」がテーマだった回には、識者や専門書の著者らがゲストとして登場し、スピードワゴンの小沢一敬と井戸田潤が素朴な疑問をぶつけていた。そんななか、小沢さんはゲストたちに向かって「宇宙の外側って何色だと思う?」と問いかけた。

なんてワクワクする質問なんだ!!! と感激してしまった。宇宙に興味はあるけれど、研究者にはならなかった(なれなかった)私にとって、こういうタイプの質問こそがとてつもなく楽しい。

配信期間が終わっており番組を見返す術がないので、文言が正確じゃないのは勘弁してほしいが、小沢さんはこう続けた。「この質問をすると、たいていの人が“黒”って答える。次に多いのが“白”って答える人。でもね、俺は“グレー”だと思うんだよね」。

ビッグバンが起こった場所や、宇宙の外側を空想するとき、私も“グレー”の空間をイメージしていた。誰に教わったわけでもなく無意識にグレー。RGBの16進数でいうとD3 D3 D3、CMYKだとCMY=0、K=17.3みたいなライトグレー。

小沢さんはもう少し暗いトーンのグレーをイメージしていたみたいだけど、この一件で強烈なシンパシーが生まれた。元々好きな芸人さんだったけど、小沢さんをますます好きになった。宇宙の外側が何色なのか、正解は割とどうでもいい。感性で宇宙を味わう……みたいな、そういう感性が好きだ。


ということで、トミーくんのエッセイ「宇宙」からの連想で行きついた「スピードワゴン・小沢さん」についてエッセイを書こうかと思ったが、大好きな割にファンを名乗れるほど何かをしてきたわけではなく、小沢さんのすごさを漏らさずに語るにはどうしたらいいのやら悩んでしまったので、今回は見送って別のテーマで書く。

私が宇宙から連想するのは、先にも書いた通り「わけわからん!」とう感覚だ。わけがわからないけど興味が尽きず、ついつい惹かれてしまうーー、そんな存在って宇宙の他に何があるかな? と考えた結果「シュール」というキーワードが頭に浮かんできた。

シュールという言葉のルーツは、1920年代にフランスで起こったシュルレアリスム(surréalisme)と呼ばれる「超現実主義」を扱った前衛芸術運動にあるという。宇宙はわれわれが生きる時空間のことであり、言ってみれば現実そのものだが、考えれば考えるほどわけがわからなくなる。その意味で宇宙は超現実的な存在でもある!? すなわち宇宙はシュールだ!! という、わかったようなわからないようなこじつけで、今回は「シュール」について私の思いを書いていこうと思う。


美術界では、ダリ、シャガール、マグリットなどがシュルレアリスムの代表的な画家として挙がる。3人とも好きだ。だが、現代日本では本来のシュルレアリスムからかけ離れた「シュール」というワードが、お笑い、漫画、映像作品などの分野で独り歩きしている印象を受ける。

シュールやシュルレアリスムを語るためには、超現実という言葉の意味を改めて掘り下げる必要があるだろう。似た雰囲気の言葉に「非現実」がある。非現実は「法律を変えるのは非現実的だ」「身長をあと20センチ伸ばすなんて非現実的だ」などと、現実世界での無理筋な事象を指す。一方で超現実は、人智を超えた事象が成立するような現実とは別の世界を指す。

超現実的であることがシュールだと言うなら、お笑いも漫画も映像作品も、フィクションはすべてシュールということになるが、それには違和感がある。このコラムを書くために、ネットで調べ物をしていたら「志村けんのバカ殿様は、超現実の世界で成立しているけどシュールではない。あれはベタである」的な論考を見かけた。私も同じ考えだ。

じゃあシュールって何だろう? 私が人生で味わってきたシュールなあれこれを振り返って、自分なりの答えを見つけてみようと思う。


私が人生で初めてシュールを味わったのは、たぶん1985年、中学1年生のときだ。「三宅裕司のヤングパラダイス」というラジオ番組のなかに「趣味の電話」というコーナーがあった。うろ覚えが過ぎるのでコーナー名は違ったかもしれないがご勘弁を。パーソナリティーの三宅さんに向かって、電話口のリスナーが意味深なひとことを語ったり、ときには寸劇を演じたりして、すぐさまガチャ切りする……というイタズラ電話のようなコーナー。リスナーは三宅さんを笑わせようと、いろんなフレーズで勝負をかけていた。

そんなある日の「趣味の電話」で、電話口から「シャカシャカシャカ」と何かしらの液体を泡だて器でかき混ぜるような音が聞こえてきた。ひとしきりのシャカシャカのあと、リスナーはゆっくりした口調で「ときたまご」というひとことを放ち電話を切った。三宅さんがどんな反応をしたのかはまったく覚えてないのだが、当時の私はラジオの前で「なんだ今のは?」と呆然としながらも、湧き上がってくる笑いを押さえられなかった。

あの瞬間、何が面白かったのかいまだにはっきりとわからない。予期しないタイミングでまったく役に立たない音声を聞かされたという事実、それを何万人にものリスナーが同時に聞いているというあり得ない状況、電話口で「ときたまご」と言ってみようと思った人の不可思議な思考への畏怖、そもそも「このコーナー何?」という疑問、などなどがごちゃ混ぜになって笑いが湧き出た……? などといまならそれっぽく説明できるけれど、その瞬間はなんだかよくわからないのに笑ってしまった自分が不思議だった。

当時は「シュール」という言葉は知らなかったと思う。それ以前に、似たような意味不明な事態に遭遇した経験はあったのかもしれない。けれど「ときたまご」以前は、意味がわからないだけで笑ってはなかったのではないだろうか。それゆえ記憶には残っていない。たぶん、ラジオの前で「シャカシャカ……、ときたまご」を聞き、自分の中で何かしらの化学反応が起こって「ヘンテコは面白い」という回路が発動した。


シュールという言葉を知ったのは「ときたまご」のほんの少しあと。友達から借りた、YMOのアルバム「サーヴィス」に収録されているお笑いパートの音声や「スネークマンショー」が録音されたカセットテープを返したときだった気がする。めちゃくちゃ面白くて、セリフを覚えるほど何度も聞いた。

カセット返却時に「これ、シュールで面白いでしょ」みたいなことを言われた私は、「ははは、そうだね」と調子を合わせてその場をやり過ごし、家に帰ってから「シュール」の意味を辞書で調べた。1920年代のフランスの芸術運動が元で……みたいなお堅い内容が書いてあり、ピンとは来なかったけど“現実離れした不条理な表現”みたいな意味を汲み取ったのだと思う。

その結果、前の「ときたまご」は、シュールな笑いに類するものだったのだと整理がついた。また、小学6年生のときに友達に勧められて見た映画「逆噴射家族」もシュールだから面白かったのだと理解できた。それからというもの「そうか、俺はシュールが好きなのか!」と思い込んで、シュールなもの、奇天烈なものを選り好むようになっていった。


前述の「サーヴィス」に収録されているコントは、三宅裕司さんの劇団「スーパーエキセントリックシアター(SET)」が演じている。SETといえば、ミュージカル、アクション、コメディを融合した娯楽演劇の王道を行く劇団だが、80年代はまだ駆け出しで、知る人ぞ知る存在だった。コント音源も、いま聞けば「計算された笑い」なのだが、当時は「こんな笑い、初めて!」ということで、はじめ少年ら中学生はSETを「シュール」という引き出しにぶち込んでいた。

当時、はじめ少年がシュールだと思っていたものには、単に目新しく刺激的な作品の他に、高尚に見せかけた駄作、それっぽいだけの偽物なども含まれていた。いまとなっては恥ずかしい限りだがそれも青春だ。


続いて、はじめ少年が心を撃ち抜かれたのは1989年、高校2年のときにテレビで見たお笑いコンビ「バカルディ」だ。当時の深夜番組「平成名物TV」は、前半部分の“イカ天”が終わった後に、「トンガリ編」なるバラエティパートが放送されていた。そのなかに「出て来いお笑い君」という新人芸人発掘コーナーがあり、さまぁ~ずに改名するずっと前のバカルディも登場していた。

真夜中に初めて見たバカルディのコントは、セリフも少なく、“さぁ笑え!”的な勢いのいい掛け合いも皆無で体温低め。でもクスクスと笑いが起き、最後にドカンと大きな笑いが生まれる展開で、見終わった後に「シュールな笑いの時代が来るぞ!」みたいな感覚がになった。ビーチの波打ち際が舞台のコントだった覚えがあるが詳細は失念。

その後、別の番組でバカルディの名作コント「美容院」を見て、飄々とボケる大竹一樹と、三村マサカズの絶妙なツッコミに完全にノックアウトされることになった。

その後、バカルディはさまぁ~ずと改名し、いつしかお笑い界をリードする存在に。三村さん流の“関東ツッコミ”や、テレビ番組「モヤモヤさまぁ~ず」での“ユルさ”が代名詞かのようになっていったが、そのルーツがシュールネタであることや、バカルディ時代の衝撃を私は忘れられずにいる。


バカルディに衝撃を受けたのと同じ頃、劇団健康のサウンド公演CD「出鱈目的」にもハマっていた。タイトル通りのデタラメな寸劇が続くも、いつしか一編一編のつながりが見えてきて、最終的に壮大な世界観が浮き彫りになる構成は、健康の主宰だったケラリーノ・サンドロヴィッチのその後の作風につながっている。ケラさんのバンド・有頂天の大ファンでもある私からすると、シンプルに「昔から一貫してるなぁ」という感想。

当時、ケラさんの源流に迫るなかで知った「モンティ・パイソン」にも衝撃を受けたし、深夜にテレビ放送されてたケラさんプロデュースの「オルタネイティブブルー」という映像作品もとんでもなく奇抜だった。


その次にシュールで衝撃を受けたのはふかわりょうだ。デビュー当時のネタ「小心者克服講座」は、インストラクターに扮したふかわさんが、音楽に乗ってバックダンサー(?)とともに横揺れしながら自虐的な「あるあるネタ」を無表情で連発していく様子が奇天烈で、テレビで見るのがとても楽しみだった。

ふかわさんは、シュッとした見た目だったこともあり「シュールの貴公子」とあだ名されたわけだが、冷静に考えるとネタ自体は“あるある”なので本質的にはベタである。だが、インストラクター、音楽の使い方、バックダンサーを従えてダンス、といったパッケージの妙によってシュールな世界観を生み出していた。


時代は近年に飛ぶが、天竺鼠の川原克己もシュールで知られる芸人さんだ。しかし川原さんは、私がインタビュー取材をさせていただいた際に「僕はベタが好きなんです」「先輩から“お前ベタやのぅ”って言われるとわかってもらえてる気がするんです」と語っていた。確かに、川原さんの作る笑いは、突飛で奇抜なのでシュールだと感じるが、ボケ単体を切り抜くとポップでわかりやすい印象がある。

ふかわさんと川原さんの例から考えてみると、見せ方や状況、タイミングなどによって、ベタはシュールへと変貌すると言えそうだ。

また、ふかわさんも川原さんも、ボケるときは無表情である点が共通している。飄々と、淡々と、ボケを投げ放ち、笑いは受け手に任せる雰囲気がある。そういえば、バカルディの大竹さんも、ヤングパラダイスで聞いた「シャカシャカ……ときたまご」も、飄々かつ淡々だった。シュールに類される笑いの特徴は、突飛、奇抜であることの他に、飄々淡々といった要素も重要なのだろう。

「ちょっと何言ってるんだかわからないんですけど」と語るも、本当に何を言ってるんだかわからないのは自分のほう、というぶっ飛んだ笑いをナチュラルに繰り出すサンドウィッチマン・富沢たけしも、そういえばコント中は終始飄々としている。

シュールな笑いを極め続ける、バカリズムラバーガールも大好きだが、どちらも飄々淡々が特徴だ。彼らの、周囲に流されず孤高の笑いを貫いているような雰囲気には気高さを感じる。「志村けんのバカ殿様」の面白さをシュールだと感じないのは、飄々淡々からかけ離れた世界観だからなのだろう。


飄々淡々とは異なるスタイルでシュールを醸すパターンもある。フジテレビで放送された「ウゴウゴルーガ」(92~94年)、「よいこっち」(97~98年)は、子供番組のテイで確信犯的にシュールをぶっ放した番組だった。健全かつ明るいパッケージで毒々しく意味不明なものを見せられると、その不条理感に脳がバグる。「よいこっち」は深夜番組だったこともあって知る人ぞ知るマイナーな番組だったが、とにかく悪い夢でも見たかのような奇天烈さだった。動画配信希望。


当たり前に見ていたが子供番組「ひらけ!ポンキッキ」も、脈絡なくアバンギャルドなビデオクリップが数珠つなぎに放たれる展開で、どことなくアシッド感がある。ポンキッキで流れていた「パップラドンカルメ」という曲もすごい。“未確認お菓子物体・パップラドンカルメ”についての歌で、一曲まるまる聞き終えてもその正体が何なのかわからない。そんなモヤモヤした内容の曲が、子供の頃ほんとうに大好きだった。ヤングパラダイスの「ときたまご」がわがシュールの出発点だと思っていたが、パップラドンカルメこそが原点だったかも、と書いていていま気づいた。


ポンキッキの歌では「運の悪いヒポポタマス」もシュールだ。間奏をはさんで急展開する歌詞に衝撃を受ける。なぜこの曲を子供番組で流していたのか。


はんにゃ
「ズクダンブングンゲーム」や、8.6秒バズーカ「ラッスンゴレライ」なども、ポップな雰囲気と耳に残るフレーズが印象的ながら、結果的に「何を見せられてるんだ!?」と感じてしまう。カテゴライズするならポップシュールか。中山きんに君もう中学生もポップでシュールだ。見た目から奇抜なゴー☆ジャス「わけわかんねぇだろ」というフレーズで、シュールをごり押ししてくる感じも好きだ。この部分でいつも笑ってしまう。

近年は、永野トム・ブラウン野生爆弾といった、パワー系シュールな芸人さんの活躍も目出つ。飄々や淡々とは真逆、かつ、不条理ポップとも異なるやり口で、われわれは半ば強引に力づくで超現実の世界へ引きずり込まれる。その強引さゆえ、好き嫌いが分かれるところかもしれないが私は大好きだ。テレビに出ているとつい見てしまう。

漫画の世界では斉藤富士夫「激烈バカ」うすた京介「すごいよマサルさん」などはパワーシュール系、吉田戦車和田ラジオの作品は飄々淡々な王道シュール、しりあがり寿の漫画はポップシュールだろうか。シュールというジャンルの成り立ちを考えると、王道シュールだとかポップシュールなんて表現は矛盾そのものだけど。


さて、ここまでの論考を強引にまとめると、シュールとは「作り手の価値観をこびずに放ち、受け手を超現実の世界へといざなう表現やそのジャンル」ということなるだろうか。

すなわち、シュールな作品には、感動ポイントをわかりやすく説明するような仕掛けはない。その結果、理解されなければ単なるひとりよがりに終わる。単にひとりよがりな作品が何かの間違いでシュールと評され、素直な鑑賞者を悩ませるケースは、割と罪深いと私は思っている。

高校時代にトミーくんと一緒に撮った自主制作映画、私の監督したコント集はシュールを狙った独りよがりの典型だった。友人たちは面白がって見てくれてありがたかったが、いま見ると苦笑いとイヤな汗しか出ない。専門学校時代の卒業制作でクラスメイトと作った映像作品も、シュールなつもりだったが、あれも気概の空回りが痛々しい。評価を担当してくださった先生は初見時に絶句していた。人が絶句するのを初めて見た。

シュールには「理解されないかもしれない」というリスクが付きまとう。そう考えるとシュールな作品には、何かしらの「わかりやすさ」が必要だと言えるだろう。超現実なのにわかりやすくなければいけないという矛盾。そのアンビバレンツな性質がシュールの魅力……なのかも!?


86年に発売されたビートたけしプロデュースのファミコンソフト「たけしの挑戦状」は、かつてないギミックが大量に盛り込まれた問題作(?)で、見方によってはシュールだが、一方でクソゲーの代名詞としても有名だ。

手入れた紙に宝の地図を浮かび上がらせるため、「日光にさらす」を選んで“リアルに1時間待つ”だなんて。制作会議では面白かったかもしれないが、笑えなかったプレイヤーは多かったはずだ。こうして語り継がれるのが狙いだったのなら成功だけど。


一方で、クソゲーだけど面白いというパターンもある。先日、お笑いコンビ・FUJIWARAのYouTubeチャンネル「FUJIWARA超合キーン」で配信された動画で題材になった「出過杉くん」というバカゲーがとんでもなかった。

Twitterで話題になり、たくさんのYouTuberがこのゲームを題材にした動画を公開しているが、いずれも面白い。無表情な巨大キャラ・出過杉くんを操作してゴールを目指すシンプルなゲームだが、プレイヤーの想像を超えるあり得ない動きが爆笑を生む。無表情、巨大、珍奇な動きの三位一体攻撃に、プレイヤーは意表を突かれまくる。

これらの動画は、意表をつかれたプレイヤーの「なんだこれ!」というリアクションが面白い側面も強く、ゲームそのものが面白いのとは少し訳が違うのかもしれない。だが、シュールな現象に触れた人の反応を知る上では興味深い。ただ、こうしたゲーム、こうした動画をつまらないと感じる人がいてもおかしくはないので、やはりシュールを楽しめるか否かは受け手次第なのだと思う。



気が付けば随分長くなってしまった。シュールと一言にいっても、飄々、淡々、奇抜、唐突、破天荒、型破り、奇天烈、荒唐無稽、ナンセンス、ポップだけどヘンテコ、強引、とびぬけてバカ、実はベタ、などなど実態は様々である。それらすべてを包括してくれる便利な言葉、それがシュールだ。

だがしかし、シュールというワードは、前後関係や受け手の理解力によって、異なるイメージでとらえられてしまう恐れのある危うい言葉なのも事実である。シュール系が好きな私だが、文章を生業とする者としてなるべく使用を避けるべきだと以前から思っている。

便利なので、無意識に使ってしまう「シュール」というワードだが、どのようにシュールなのかを明記しないと誤解の原因になる。奇天烈なものは奇天烈だと紹介すればいいいし、飄々とした表情から繰り出される突飛なワードが面白いのなら、その通りに書けばいいだけだ。

文章がこれ以上とっ散らかると収集がつかなくなるので触れなかったが、シュールについて考える中でベタや王道のすごさを痛感する瞬間も多々あった。若い頃、恥ずかしながらシュールな作品やアバンギャルドな音楽を追いかけている自分に酔っていた恥ずかしい時期もあったが、いまとなっては王道の凄みに惹かれることの方が多い。そう感じるようになったのは、シュールが好きだったがゆえの揺り戻しなのかもしれない。

そんなことを思いつつ、今回のエッセイを終わりにしよう。次のエッセイもトミーくんに回します。よろしく!!!

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