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倒れてくれ!と祈らずにはいられなかった|映画『インセプション』

不思議と、ふとこの映画のことを考える瞬間がやってくる。

映画を見たきっかけは、輸血饅頭の動画(11:00)で紹介されていたことが大きい。というか、それがなかったらまだ当分先まで見ていなかっただろうな。

吹き替えを先に見たんだけど、最初の五分で「あっこれ字幕の方がいいわ」となり、珍しく字幕で見た(声から受けるイメージと映像が自分の中で一致しなかった)。字幕、良かったな。好判断だったと思う。

内容はね、ドリームインドリーム、夢の中の夢を扱っていてとても面白かったね。引き込まれるものだった。
インターステラー並みに長いのだけど、不思議と長さは感じずにずっと集中して見てられたな。

最後のシーン、『安直に感動させてくれよ』と俺は思ってしまった。コマのトーテムだけずっと目で追ってしまって、『倒れてくれ!』と祈らずにはいられなかった。映画を真面目に最後まで見た人は全員同じ気持ちになったんじゃないかな。

あそこはね、確かに論理的に考えればコマが倒れるのかどうかの答えは導き出せるんだろうね。
映像的にはそこを敢えて濁して話題を作りたかったのも分かる。

でもね、俺は映画ではそれをやってほしくないと思った。
映画って特殊で、小説や漫画、一般向けのアニメと違って本来なら『見返す』ことができない。というのも、映画という娯楽は二時間を止めずに見るという体験だと思っているからだ。それに本来なら映画館で見るわけだし、見返すならまた料金を払って一から見なくてはいけない。そしてそこまでする視聴者は決して多くないし、『驚きのあのシーン』だけを巻き戻して見ることは映画という媒体では本来は不可能だ。

だから、一発勝負に懸けるからこそ、緻密で壮大なつくり込みになるんだと思うんだけど。
「最後の意味は分からなかったけど、あそことあそことあそこを見返してみれば結果は分かるよ」は映画ではダメなんだよ。

やるにしても、せめて『倒れそうだけど持ち直すかもしれないけれど倒れる瞬間に暗転』くらいにしておいてくれ。
いや、やっぱり最後にコマが倒れて映画が終わってたら最高だったわ。四肢の指から片手の指に入る映画になっていたかもしれない。

仮に、インセプションが完全にミステリーに比重を置いていて、視聴者が挑戦しないと不可能なものだったのなら、最後はあれでよかったんだと思うんだけどね。

ただ、感じ方はそのうち変わるかもしれない。
こういう感想って水物だったりもするから。




追記:
俺はさ、いわゆるハッピーエンドな映画が好きでさ。
「どっちなんだよ!?」という感情のままエンドロールを迎えたくないんだよ。
エンディングで思考を放棄したいの。感無量になりたいんだよ。

でも、インセプションのラストシーンをふとしたときに思い出したとき、『コマが止まるシーン』じゃなくて『コマが回り続けるシーン』だからこそ、そこに永遠を感じたのかもしれない。
インセプションがテーマとして持つ、虚構としての永遠を。
そして、そのコマが回り続けるだけのシーンが頭の中で流れただけで、背筋がブワッとしてしまった。

その事実を体感したので、あのラストは間違っていなかったのだろう。
安直さを求めた俺の方がたぶん甘い。この映画は、ラストシーンを思い返す視聴者を完全に想定されている。そして、それを語りたいがために俺はこの記事を書いたのだった。

それはもう見事にやられたな。


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