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09_私のこれまで_学生編

幼い頃から真面目な子供だった私。特別優秀ではなかったし、運動は苦手だったが、学力は並より上ぐらいだった。両親の影響で絵画教室に通った。5歳頃からピアノを習い、音楽の楽しさを覚え、小学校の学芸会では積極的にピアノ伴奏を引き受けていた。

中学では吹奏楽部に入部。映画「スウィングガールズ」の影響を受け、地元では鬼厳しいと評判の顧問の先生のもと、ひたすら吹奏楽に熱中した。今では「ブラック部活」とも言われているが、当時は毎日朝練、放課後、土日は一日中みっちり練習だった。休みなんてあっただろうか。顧問からの厳しい指導も当たり前だったし、体罰だって日常茶飯事だった。部内ルールにおいても全て「お前らが社会に出ても恥ずかしくないように」と作られていて、毎日のように有難いお説教を聞いていた。しかしそれに対して皆誰一人反抗はせず、先生には絶対服従だった。正論だったし、「厳しい指導も先生からの愛情なんだよ」と代々の先輩からの教えでもあった。社会人としての基盤はここで早くも培われたと言っても過言ではなかった。そんな鬼厳しい先生から、私は学年の中で唯一評価を受けていた。「次期部長になってほしい」とも個人的に言われていたこともあり、本当に嬉しかった。大好きな音楽、先生、バンド一丸となる楽しさ、「一音入魂」なんて当時流行った言葉を胸に、毎日練習を頑張っていた。高校は「吹奏楽の強豪校に行く」という目標を持ち、今思えばきっとあの頃が一番輝いていたと思う。

無事受験シーズンを乗り越え、絶対無理だと言われていた第一志望校に奇跡的に合格。地元で有名の吹奏楽の強豪校に入部し、市内の吹奏楽好きが集まるハイレベルな競争の世界に足を踏み入れた。朝から晩までのハード練習をこなし、演奏会やオーディション、華々しい大会の舞台。同級生、先輩、後輩、3年間仲間とともに苦しさも楽しさも味わい、色褪せない青春の日々だった。

部活漬けの生活だったこともあり、高校ではほとんど勉強してこなかった。本気で進路を考えたのなんて、高3の夏頃だった。吹奏楽は高校まで、特にプロになる気はなかった。親は「女の子なんやし短大でいい」と漠然とした意見。私の好きって?やりたいことって?

そうだ!デザインがしたい!ふとあることがきっかけで芸大を目指すことになった。昔から思いついたら直感でこれ!と道を突き進んできたタイプで、親の賛成も十分に得られていないまま、部活とデッサン練習を両立する日々を過ごした。夕方まで部活、夜は子供の頃通った絵画教室の先生にデッサンを習い、秋の部活引退まで多忙なスケジュールをこなしていた。

数ヶ月デッサンをかじっただけでは到底無理も承知で挑んだ試験もやはり無謀で、入試は不合格。1度では諦めきれず、その後出願しては落ち、を繰り返して3度目の試験でやっと合格することができた。

晴れて芸大に入学。友達にも恵まれ、バイトとの両立や毎週の課題地獄に追われながらも充実した4年間を過ごすことができたのだが、、

大学3年生の冬、忘れられない経験をした話を次で書こうと思います。

読んでくださってありがとうございます^^

#HSP #適応障害 #アラサー独身

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