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11_退職するまで

1月に適応障害の診断がおり、上司に報告、業務量を減らしてもらったものの、発症原因が職場環境なだけに症状はおさまらなかった。

それまでは毎日4人の上司の不仲な関係と各々の機嫌を伺いながら不器用に立ち回り、怒られ、板挾みの心労がたまる日々だったが、直属の上司に報告してから部内では私に対し「そっとしておいてやれ」的な暗黙の空気が流れ、最低限の会話以外何も言われなくなった。少しだけ楽になった。

ただ人手不足の中、私のせいで業務の進捗がいつもの倍以上かかっていたり、上司の仕事を増やしてしまっていることへの罪悪感で頭がいっぱいになり、定時に帰らせてもらっても気が休まらない。病院からは直ちに休職か辞めることをすすめられているのになかなか上に言い出せないモヤモヤとの闘いだった。会社のルールで退職は2か月前に報告せねばならず、3月末まで身体がもつのか、無事辞められるのか、その先はどうするのか、考えれば考えるほど不安と胸の圧迫感で夜も全然眠れない日が続いた。

何とか退職の意向を上司に話し、3月末で退職が決まった。

私が見てきた過去の辞めていく人は結婚や出産、独立など「おめでとう」と祝福される円満退職ばかりだった。心身病んでうつになって辞めるなんて異例なのか、広告業界で見れば私みたいな人は少なくはないはずなのに、自部署の方たちの旅立ちの仕方は綺麗で自分だけ情けなかった。

日が経つにつれ、社内で良くしてくれた方たちに一人一人、辞めることを報告した。中でも一番一緒に仕事をしてきた派遣の主婦さんから「繊細さんなんやね、いっつも気遣ってくれてありがとうね」と言っていただいた。高圧的で否定的な空気に流され、自分を見失っていた私をいつもフォローしてくださり優しさに救われていた。ちゃんと見てくれていた人がいたんだと安堵の涙が止まらなかった。自部署での生きづらさでこんな結果になってしまったけど、他部署の営業や企画チームの人たちには良くしていただいた。仕事の愚痴や世間話ができる人がいたのも救いだった。ただ自部署にはそんな普段フランクに話せる人がいなかったのは不運だったと思う。

最後の最後まで担当業務の引き継ぎに膨大な時間がかかってしまった。技術職なこともあり、個人でデータ管理をしている以上誰かがすぐに引き継ぐのが難しいのも一人で抱え込んでしまった原因かもしれない。チームで誰が休んでもフォローし合える体制でなかったことが本当に苦しかった。

辞めると決めたものの、3月末の退職までの1日1日がとてつもなく長い。夜中の中途覚醒で眠りが浅く、朝のコンディションは最悪。でも会社に行かないとと使命感にかられる。通勤ラッシュの満員電車がずっと嫌で、家から自腹でタクシーで行く日もあった。

ついに最終出社日。円満で辞めるわけでなはいのに、退職者は朝礼で最後の挨拶をするルールだった。コロナ禍で大変な状況の中、皆さんに支えられた感謝の気持ちを述べ、最後にこう伝えた。

「関わりがあった人、なかった人関係なく、オフィスにいる皆さん全員の長所が言えます。それぐらい優秀な皆さんから良い刺激を受けていました。」

当初はHSPだったことへの気付きで適応障害になり、退職に追い込まれてしまったことが人生の汚点だった。何周も何周も考え、この気質を変えることはできないと知ったとき、これからこの性格とどう向き合っていくのか、デメリットだけではないと思うようになった。

私って人へのあくなき興味で生きている。誰がどうとか周囲の情報をくまなくキャッチしている。相手の長所を観察し尊重できる。残念ながら自分の実務でこれが活かせることはほぼなかったが、オフィス内の社員約50人全員の長所を把握していたこと、せっかくの気付きを最後に皆さんに伝えようと決めた。

最後の挨拶のあと、何人かから「良かったよ」と声をかけてもらい、伝わった人がいて安心した。「次どうするの?」とこの先仕事についてどうするのか色んな人に聞かれたが、すぐに転職が決まっていれば堂々と言えるのに、、「ちょっとゆっくりします」と濁して答えるしかなかった。自分で自分が一番この先について不安だった。無職になるリスクや生活のことやもう何から何までわからなかったけど、療養という期間をもって、ゆっくり考えようと思った。手に職を捨ててしまうけど辞める選択には後悔していない。

あああ、3年間、よくやったんだな私!激務に向き合ってきた分、これからは自分を労っていこうと思う。

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#HSP  #適応障害 #アラサー独身

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