『見ろよ、あれがチョコレートファクトリーだ』『甲子園への道』


 もうずいぶん前になるけれど、地方の高校演劇部の顧問の先生から、私の戯曲を使わせて欲しいと連絡が入った。
 「どうぞどうぞ」と快諾した。
 そこから、その高校の演劇部にワークショップに行ったりと交流がしばらく続くこととなった。
 ある年の7月の末、その先生からメールが入った。
 その高校の野球部が、甲子園に進出することになったと言う。
 応援にかり出され、試合会場から帰るバスの中からメールしていると言う。
 私は全く高校野球に疎いので、それを何と呼ぶのかわからないけれど、たぶん県大会に優勝して甲子園に出場する試合がたった今終わったところだったのだと思う。
 私は、それを聞いた瞬間に自分の中で「これは、ある!」と、ゲージが振り切るのを感じた。
 甲子園に出場する。
 しかもそれを野球部の部員達の話ではなく、野球部以外の人たちで描くと言う話を前々からやりたかった。
 だが、それは果たしてどういうツテで、誰にに取材をしていけばいいのか? 
 それが全くわからないまま20年が経っていた。
 20年前。
 まだ私は演劇を始めていなくて、見る一方だった頃。
 野田秀樹さん率いる夢の遊民社の後、東京大学の駒場の校内にある劇場で、東大生が作演出するミュージカル劇団『ネバーランドミュージカルコミュニティー』が脚光を浴び始めていた。
 作・演出、そして主宰していたのは堤泰之さん。
 私はこの劇団が大好きだった。
 そもそも、その頃、生バンドありで、日本人が登場する身近な話のミュージカルをやっている劇団なんてここしかなかったのだ。
 この劇団の代表作に『純情波乗少年(プラトニックサーファーボーイ)』という演目がある。
 広島の強い高校野球部が甲子園出場前に、たった一人の野球部の部員による不祥事によって出場の道を絶たれてしまう。
 そしてその事件がなぜ起きたのかということをめぐる物語。
 もちろん『ネバーランドミュージカルコミュニティ』という劇団が上演するのだからミュージカルである。
 私はこれを映画にしたいとずっと思っていた。
 縁があってその後、堤泰之さん自ら私を訪ねてきてくれたこともあって、映画化の許可はその時にいただいていた。
 しかし、これを映画の脚本にするならどうしてもディティールを補強しなければならない。
 けれども、その物語を補強するための取材の方法が当時の私には全くわからなかった。
 出場が決まった直後の高校野球部に「ちょっと取材を」と申し込んだところで、それどころではないだろうし、敗退してしまったところへ、インタビューに行ったところで、出場が決まった時にどう思い、誰がなにをしたのか? ということなど、おそらく「もうすでにそれは終わったことだから」というフィルターがかかって、その時の熱で話してくれるとは思えなかった。
 結局そのまま20年が過ぎてしまった。

 それがたった一通のメールによって、リアルタイムで甲子園に出場する人々の取材ができるかもしれないチャンスが訪れたというわけだ。
 即座にメールを返した。
 「あなたが今から目にする固有名詞と数字を私にメールで送ってくれないか」
 詳しい話は後で聞きに行けばいい。それよりも、いつ、なにが行われるのか? という脚本を書くためのディテールが、数字が、固有名詞が欲しいのだ。
 私は「そういう物語をずっとやろうと思っていたのだ」とも書き加えた。
 しかし突然そんなこと言われた顧問の先生も「そんな、じんのさんが面白い話なんてありませんよ」と返事はそっけない。
 メールには続けてこうあった「それに詳しくメールではレポートできないかもしれない。なぜなら、今、県大会で優勝し甲子園への出場が決まったばかり。今が午後4時。これから学校に戻って、PTA達に対して、その報告会を講堂で行わなければならない」
 その壇上に吊すための90センチ×9メーターの『祝・甲子園出場××高校野球部』という吊り看板の出力を学校に残って練習をしている演劇部の生徒らに指示をして今、プリントアウト中なのだという。
 これから帰ってそれを講堂のバトンに下げなければならない。
「だから!」と私はメールを打つ指に力が入った。
 そういうこと全てが知りたいんだと!
 そもそも、なんで! 甲子園出場が決まったという報告会の吊り看板をなぜ演劇部の生徒がプリントアウトしているのだ、と!
「いや、うちの学校に今残っている人たちの中でAdobeのイラストレーターが使えて業務用のプリンターの操作ができるのはうちの演劇部の生徒しかいないから」
「だから、それなんだってば!」
 甲子園に出場が決まったその瞬間から一体その裏で、誰が何をやるのか、それを知る機会がなかったからこそ『純情波乗少年』の映画用脚本が進まなかったのだ。
 
 文化系の部活動において、泣いても笑っても本番がやってくるのは、演劇部と吹奏楽部である。
 他に大会があるもの。書道部? かるた部? でも、彼らはポスターやフライヤーを作ったりはしない。
 体育会系の部活は、大会はあるものの、その競技に対する準備はできても、それにまつわる祭事(まつりごと、本来は政と書く)な段取りには疎い。
 この高校の野球部は元々野球はそこそこ強かった。
 甲子園出場も初めてではない。
 だが、前回の甲子園出場から十数年経っていた。
 よって、甲子園に出場するために裏方が何をやればいいのかということのノウハウを持つ先生がすでに誰もいない状態となっていた。
 ここから、おそらくそうであろうと思っていたが、そんな私の予想はるかに超える演劇部と吹奏楽部による不眠不休の活動が始まった。

 甲子園出場をめぐる大人の産業は既に動き出していた。
 応援グッズであるメガホン、手ぬぐい、鉢巻きといったグッズを作る業者達は県大会の優勝を地方のテレビ中継で見、あらかじめ最後の二つの高校のどちらが甲子園に進出しても対応できるように、両校の校章、カラー、そして、応援団の想定人数を把握し、レイアウトまで済ませてあったという。
 そして、甲子園進出が決まった瞬間から即生産ラインが動き始めるらしい。
 というのも1週間から10日のうちに第一試合はプレイボールとなる。
 業者は46都道府県に一社ずつあるらしい。その会社が毎年、甲子園出場する高校のグッズの生産を担当しているという。彼らはぬかりなく仕事を進めていた。
 しかし、当の甲子園出場が決まった高校は喜びに浮かれ、甲子園に辿り着くまでに誰がなにをやるのか、という分担などなにも決まってはいない。
 甲子園、いけたら良い、がんばれ、と、ついさっきまで言っていた人々には、実感というものがまだない。
「そんなに、じんのさんが面白いと思う事はありませんよ」とメールをよこした演劇部顧問の先生と、吹奏楽部顧問の先生に実はこの瞬間から甲子園出場の裏方のあらゆる仕事がのしかかってきていたのだった。
NHKの甲子園の中継を見てもらえばわかるとおり、吹奏楽部はある人数を揃えてアルプススタンドで応援の曲を演奏し続けなければならない。
 だが、普通の高校にあれだけの吹奏楽部の部員がいるわけではない。
 メンツを揃えるために近所の高校からかき集めなければならないし、そもそも、あそこで演奏される曲は、バッターボックスに立つ選手がリクエストに基づいているらしい。
 という事は、そのリクエスト曲の楽譜を手に入れるところから始めなければならない。
 甲子園出場が決まり応援団のバスが学校に戻る。
 そして、講堂で報告会が行われる中、学校の職員室の輪転機は回り続けていた。
 OB、OG、PTAに対して寄付金を募るための手紙が刷られていくのだ。
 当然、報告会が終わってから深夜に至るまで、それを封筒に詰め発送しなければならない作業が先生達には待っていた。
 すでにこの時点で「なぜ野球部とは関係のない我々が深夜まで残業してこの作業をしなければならないのか」と言う口論が先生達の間で起きていたと言う。
 そう、彼らにとって、この突発した甲子園出場のための仕事は残業でしかなく、残業代は出ない。
 演劇部の顧問の先生はこの先に待っている苦難に対して吹奏楽部の顧問の先生と共に覚悟を決めた。
 演劇部の顧問の先生は、そんな降って沸いた激務の中、私が無理矢理お願いした「メールで逐次起きていることを、固有名詞と数詞の羅列でかまわないから教えてくれないか」と言うお願いに応えてくれた。
 本当に断片的なメールが何通か届いた。
 だが、お願いしておいてこんなことをいうのもあれだが、こちらとしてもそれで十分というわけではない。
 そこで「どうだろうか?」と私は持ちかけた。夏休みの演劇部の練習を見るという名目で高校の中に入って、その様子を見せてもらうわけにはいかないかと。
 野球部の裏方となって活躍というか、暗躍というのか、突然降りかかった責務のために演劇部の在校生の2年生と3年生はその間演劇部の活動が全くできなくなる。
 学校に残っている1年生に迫る大会に出場する演目の練習の面倒を私が見るということでどうだろうかと。
 特別夏期顧問という名目で。
 私はその日の夜の夜行バスに乗り翌日の朝早くに高校に辿り着いた。
 玄関に入ったところに上履きに履き替える下駄箱が並んでいる。
 学園モノのドラマや映画などでよく見るあの場所だ。
 そこに、新品のヘルメットとグローブとバットとユニホームが野球部のレギュラーメンバー分、ずらりと並んでいた。
 それまで彼らが練習に使っていたものや、試合に出た時に使っていたユニホームで甲子園に出場するわけにはいかない。
 全て新調するらしい。
 それだけでも一体、いくらかかると言うのだろう。
 メットからシューズ、バット、グローブその他いろいろ、上から下まですべてである。
 こうした資金はすべて寄付金でまかなわれている。
 前述した『純情波乗少年』の脚本作りの時、どこの誰に聞けばいいのかわかりはしなかったがそれでも、調べてはみたことがある。
 ずいぶん前にNHKでこういった甲子園に出場した高校の資金集めをする先生達を描いたドラマを思い出したし、調べてみると一回戦で敗退するくらいなら、たいていの高校は寄付金で必要経費を集めることができるらしい。しかし、それが二回戦、三回戦と勝ち進むにしたがって、寄付金をさらに集めて回らなければならなあい、というさらなる仕事が発生するという。
 しかし、そんな勝ち進んだ後の話よりも、とりあえず急ごしらえではあるが、応援団含めて選手のいでたち、もろもろ初戦の体裁をとにかく整えるのが先である。
 
 体育館では突然登校を命じられた一般の生徒たちが集められ応援の練習が行われていた。
 様々な曲が試合の間中ずっとメドレーとして演奏し続けられてはいるが、その1曲1曲に、決まった振りがついているのだと言う。
 野球部の部員達が一般の生徒に対して振り移ししていた。
 ラジカセから流れる、甲子園の中継を見ている時によく耳にする応援団が演奏する曲の数々。
 しかし学生達にとっては、夏休みの炎天下に急に呼び出されて、冷房が完備しているわけでもない体育館の中で無理矢理踊らされるわけである。
 「そうじゃない全体が合ってない、もう1回!」
 教える方はレギュラーメンバーではない2年生の野球部員であるから、教え方も体育会系である。
 一般の生徒達がその強引なやり方についてこれるはずがない。
 一般生徒達の士気は低く、その圧倒的な温度差は先が思いやられた。
 「なんのためにこんなことを? なんで関係のない私達がせっかくの夏休みに?」そんな空気が蔓延している灼熱の体育館にピンクレディーの『サウスポー』がアニメ『タッチ』の主題歌が、ジッタリンジンの『夏祭り』が大音量で響き渡る。

 近隣の高校の吹奏楽部から急遽集められた面々の合同練習も始まっていた。
 だが、吹奏楽はパートが決まっているし、ある程度のスキルがある生徒が集まれば演奏はなんとかなるらしいが吹奏楽部にとっての問題はそれではなかった。
 我々はいつも何の気なしに高校野球を見ているが1つの試合が終わり、次の試合が始まるまでの20分の間に、アルプススタンドの応援団と吹奏楽団は、その時間内に入れ変わり、準備をすべて整えていなければならないという。
 吹奏楽部の楽器は陽を遮る天井のないアルプススタンドにおいて、直射日光を浴びれば当然、金属製の楽器は高温になり音程が狂うと言う。
 そのために冷えピタが大量に購入され楽器には戦場で担架に乗せられた負傷兵のごとく、白い冷えピタがびっしりと貼り付けられた状態で搬入される。
 そして、アルプススタンドを埋めなければならない急遽声がかけられ集められた応援団達。
 PTA、地元の人々、OB、OG、さらには野球部部員達が小学校時代にお世話になったリトルリーグの現役小学生達とその親、コーチ達などで編成された応援団。
 その数2000名。
 50人乗りバス40台に便乗して甲子園へ駆けつけるわけである。
 都合よく高校の側にバスが40台並んで停まれる広大な場所などありはしない。
 分散していくつかの駅のターミナルから乗り込むことになる。
 その割り振りと伝達、弁当の手配、考えただけでも気が遠くなる。

 そんなドタバタした時を横目で見ながら、私は約束通り演劇も1年生の練習を見ていた。
 校舎の4階の多目的スペースで演劇部の練習は夏休みの課外活動として行われる。
 幸いにも、初演を見たことがあるキャラメルボックスの演目が彼らの秋の文化祭の出し物だったので、丁寧に教えることができた。
 川下りのカヌーのオールの使い方などである。
 まあ、これを書いただけでも、知ってる人なら演目がなにか思い当たるだろう。

 この高校の野球部、先も書いた通り部員が100人いる。
 すでに甲子園に乗り込んでいる選抜メンバーは20名。
 残り80名は、学校に居残ってその4階の多目的スペースから見下ろすせるグランドが2面取れるほどの広い裏の校庭で練習を続けていた。
 炎天下。
 この100人の部員のいる野球部には5人の女の子のマネージャーがいた。
 私が一番驚いたのは、このマネージャーの女の子達、内野、外野で守備練習を続けている彼らの側にペットボトルを配るためにグランドを走り回っていたことだ。
 真っ黒に日焼けした四肢。
 内野、外野の守備練習してる者たちよりも運動量は激しいのではないかと思えた。
 もちろん、そこで居残って練習している彼らの気迫は4階から見下ろしている私にもひしひしと伝わってきた。
 彼の先輩は今、甲子園にいる。
 自分達もここで頑張りさえすれば1年後2年後には甲子園に行くことができるかもしれないという確固たる夢が彼らにはある。
 頑張れば、いつか、という未来、言葉の上だけの夢でなく、今、がんばって結果を出していけばこの先、甲子園で野球ができるという確固たる目標を体感している最中なのだ。
 驚いたことに、この4階の多目的スペースの窓ガラスはあちこちにヒビが入っていた。
 裏の校庭で練習している野球部のホームランが、ここの窓を直撃した結果だ。
 部員100名そして後者の4階の窓に直撃するだけのホームランが打てるような野球部でなければやはり甲子園になると行けはしない。
 久々の出場で、てんやわんやであると聞かされてはいたが、それでもドラマや漫画にあるようなどうしようもない、数少ない部員達が人を集め特訓し、あげくになんとか野球部が突然勝ち進み栄光手にすると言うような事はやはりドラマや漫画の中にしかないのだ。
 当たり前だが、そんな野球部ですら十数年ぶりに出場できるのが甲子園大会なのである。

 応援団2000名。
 50人乗りバスに40台に分乗して球場に向かう。
 抽選の結果、第二試合になったことで、集合時間は五時に決まった。
 もしもこれが第一試合であるならば学校の校庭に二時集合だったという。
 そしてバスは出発した。
 バスもまた県内にあるバスをかき集められている。
 球児の親戚のおじさん達は乗り込むなり缶チューハイをぐいぐいやりだした。
 バスの運転席の上にテレビがついていて、そこでこれから我々が向かう甲子園で、第一試合が始まっていた。
 不思議なものだ、今、テレビで見ているその場所にあと二時間もしないうちに辿り着いて、あのスタンド席に座っているのだ。
 そして案の定、缶チューハイの親父達は「しょんべんができるとこはないのか?」と、騒ぎ出した。
 バスの中に殺意がみなぎった瞬間だった。

 何度も書くようだが、試合が終わって次の試合が始まるまでの20分の間にアルプススタンドは吹奏楽団と応援団を総入れ替えしなければならない。
 そのためには、試合が終わる時間はわからないが、終わったその瞬間にアルプススタンドに駆け上がるためにずっと甲子園の外でその時を待って待機していなければならない。
 バスが遅れたのでアルプススタンドがガラガラで間に合いませんでしたというわけにはいかないのだ。 これは高野連やNHKなど様々な大人の事情が絡んでる事は言うまでもない。
 これは絶対なのである。
 これまで私が知らないだけかもしれないが、試合が始まってアルプススタンドがガラガラと言う中継はなかったはずだ。
 我々は幸いにも第2試合だったために、試合が終わって帰ってくる他の学校の応援団のバスの群れとすれ違うことがなかったが、第3試合以降の場合、前の試合が終わって帰ってくる応援団のバスの群れと吹田のインターチェンジで交差することになるらしい。
 私が見学に行った学校は応援団2000人、バス40台で済んだが、常連の高校であるならば、この何倍もの応援の人々を乗せたバスが、吹田のインターチェンジ付近で交差することとなる。
 優先されるのはこれから試合が始まる甲子園に向かうバス達ではある。
 が、それにしてもである。こちらのバスが40台、向こうのバスが80台だとしたら……
 そこで、バス会社同士が連絡を取り合い道を譲るということが行われるらしい。

 そんないくつもの関門をすり抜けて甲子園に辿り着いたとしても、混雑時に100台以上が並んで停まることができるバスの駐車場の敷地が甲子園球場のすぐそばにあるわけではない。
 巨大な敷地のバスの停留所は甲子園までは歩いて30分かかる場所にある。
 そこから歩く。
 もちろん、同じ第二試合に参加する相手の高校の応援団の面々も同じ道を30分歩くことになる。
 そして……
 とりあえず、我々はかろうじて屋根がない、照りつける日差しに座るのさえためらわれるほど暖められたホットプレートのような灼熱のアルプススタンドに腰を下ろすことができた。
 NHKの中継では放送されない20分の間に相手の高校の応援団と自分達の高校の応援団がエールの交換と称して曲を演奏し合唱する決まりになっているらしい。
 アルプススタンドに座り対面の応援団席を見た時、私は息を呑んだ。
 そもそも私は高校の野球部の部員が100人いるということに驚いていたのだが、対面の高校は野球部の部員が300人いた。部員だけで300人である。いったい一学年何人いて、野球部以外の部活をやっている生徒は何人いるというのだ。
 当然、応援団の数もこちらの比ではなく、全員が同じ黄色いシャツを着てアルプススタンドを幅広く埋め尽くしていた。
 そして彼らは我々のために『ルパン三世』を歌ってくれた。
 スタンドを埋め尽くす人々が危機迫るテンションで歌う『ルパン三世』にただただ圧倒されるしかなかった。

 男には自分の世界がある
 たとえればそれは空をかける
 ひとすじの流れ星

 見知った歌詞のあの歌が、圧力となって我々にのしかかってくる。
 世にも珍しい体験。
 あの歌がこんなに怖いと感じたのは後にも先にもこれ時だけだ。
 涼しいクーラーの効いた部屋でNHKの高校野球の中継をなんとなく見ていた時にあの応援団達の声を枯らし、汗だくになってメガホンを振る彼らに一体何の役目があるんだろうと思っていたが、実際この物量でこの音圧で攻められたら「勝とうという気力」がみるみる粉々に砕かれていくのがわかった。
 そして100人の部員がいる野球部と300人の部員がいる野球部ではその力の差もう言うまでもない。
 試合が始まったとたん、圧倒的な力の差を見せつけられることとなる。

 100人いる野球部の部員たちの選抜メンバーはベンチ入りすることができるが、応援に回された残りの80名は、スタンドから応援団に混じって応援する者、そして、さらに下っ端の1年生達は吹奏楽部の楽器に貼り付ける冷えピタを取り換えたり、相手の吹奏楽部が演奏してる時、チューバなどの大きな楽器を担当している女子の後ろについてその楽器を支えてあげたりといったことをしなければならない。
 その間をチューハイやビールのタンクを抱え、日に焼けて真っ黒な女子のアルバイトが「冷たいビールいかがっすかー」「冷たいチューハイいかがっすかー」と声をかけながら、スタンドを上り下りしている。
 試合は圧倒的な結果に終わった。
 それでも9回を迎えたその時。
 最後の応援の時間。
 アルプススタンドで吹奏楽部の面倒をまかされていた1年生の部員達は全員がフェンス際に駆け寄り、金網を鷲づかみにし、網にかけた指に力を入れ、瞬きを忘れて試合に見に入った。

 私は彼らの後ろに立ちグランドで繰り広げられる試合の進行よりも、彼の姿を姿をずっと見ていた。
 これ以上ない力で金網を握り締めている彼らの手のひらに浮き上がった筋の隆起が今でも目に焼きついている。
 「ああ、彼らは必死に今、全身全霊で試合の行く末を見守っているんだな。まだ逆転のチャンスはあると信じて、諦めずに心から応援しているんだな」などと呑気なことを思っちゃいなかった。
 大人気無いと言われるかもしれないが、私の高校時代には、こんなふうに力強く金網を握り締め、あり得ないかもしれない逆転を信じて、なにかを見つめる。そんな時間などありはしなかった。

 奇跡は起きないのか?
 これはもうどうしようもないものなのか?
 本当に、本当にこのまま終わってしまうのか?
 僕らは……
 ……負けるのか?

 このまま願いは届かない。
 届かないどころか、まもなく訪れる結果は圧倒的な負け、でしかない。
 それを目の当たりにする。
 だが、この瞬間はいったい彼らのこの後の人生においてどれだけの価値をもたらすだろう。
 あと、数分で試合は終わる。
 もちろん負ける。
 そこに待っているのは屈辱であり絶望でありどうしようもない現実。
 それに対して彼らはさらに金網を握る手に力を込める。

 試合は終わる。
 無情なサイレンが鳴り響く。
 グランドの先輩達はホームベースを挟んで列を作り、勢いよく潔く頭を下げる。
 その後、応援してくれた人々がいるアルプススタンドまで来て、頭をさげる。
「ありがとうございました」
 金網を握る一年生達はその姿を見る。
 言葉はない。
 先輩達はグランドにしゃがみこみ持ち帰る土を掻き集め始めた。
 一回戦敗退。
 そして、ベンチはもちろん、天井のない灼熱のアルプススタンドで待機させられていた一年生達は次の試合の開始までの20分の間に、吹奏楽部に付き添いこの場を速やかに去らねばならない。
 いつまでも、フェンスの側に立ち尽くしていることなど、彼らに許されはしない。
 目から流れ落ちる涙をぬぐことすらできない彼らを……私は羨ましく思った。
「残念だったな」などという言葉は私の中にありはしなかった。
 ただただ嫉妬しかなかった。
 矮小な人間だと思われて結構。
 私の高校生活においてこんな時間なんてありはしなかった。
 ただただ、うらやましいと思った。
 こんな時間を経験できて。
 あのフェンスを握る手。
 後ろ姿。
 表情など見えはしない。
 それが余計に私の想像をかき立てた。
 この時間。
 今、彼らの胸を占めている気持ち。
 私の高校生活にはこんな時間なんてありはしなかった。
 

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