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帝都本郷下宿屋あさぎり ~貧乏公家と刃無し~

あらすじ

 世は徳川将軍十七代目家清の時代。第十四代家茂とその御台所和宮の子が将軍職を円滑に継承した江戸幕府がなんとか体制を立て直した日本は、幕府主導のもと文明開化の時代を迎え、現在近代化の道をひた走っている。
 開国から時は流れて半世紀が経つ泰清たいせい時代、ここは江戸から東京府東京市と名を改めた新都の学生街・本郷。あまたひしめく下宿屋のひとつ「あさぎり」にご機嫌な二人組が住んでいる。武士の息子で妖刀夢虎丸の後継者・祥彦さちひこと公家の息子で炎を操る異能者・明生あきお。名家の子息でありながら訳ありの二人は今日も愉快な日々を過ごしている。





 徳川十七代将軍家清いえきよは、名君であった曽祖父十四代家茂いえもちの再来と謳われている。民からの信頼は厚く、先帝崩御ののち新年号は家清にちなんで泰清たいせいに改められたほどである。当初は公家からの反発もあったそうだが、そろそろ五年になる今はとんと聞かない。

 そうでなくとも、近年の日本という国はまるで青春時代に入ったかのようだった。二十世紀に入ってからこちら幕府主導の西洋化もなかなかに好調で、社会全体が爛熟に向かって進んでいるような雰囲気がある。

 開国にともなう文明開花で月代さかやきは剃らなくなったが、侍たちは身分まで捨てたわけではない。江戸幕府はあくまで武士政権、侍たちの身分は今も一応保証されている。開国の頃には貧困で無様に喘いでいた幕臣は、武士貴族という新しい階級の創設によって課税をまぬがれ、新制度の俸禄も得られた。したがって祥彦さちひこの実家の家計状況も悪くはなかった。

 それでも祥彦が江戸改め東京府東京市で下宿暮らしをしているのは単なる意地であった。武士らしからぬ弱腰の父への反発であり、それでも父のたまの横暴に逆らえない母への反発であり、祥彦を野蛮人と蔑む兄弟への反発であった。

 祥彦は現役で東京帝国大学に進学した勉学の才と大小二振りの刀に見合う剣の腕を持つ文武両道の男だ――と自負している。黒い学生服に同じく黒い制帽、腰には打ち刀と脇差の二本差しの姿は学生侍祥彦の象徴だ。すべてはそんな自分の魅力を解しない実家の面々が悪い。

 今に見ておれ、うんと出世して見返してやる。と、心意気だけは人一倍でも、愛刀夢虎丸ゆめとらまるは代々沼津藩水野みずの氏の嫡男に伝わるものであり、皮肉なことにこの刀を差すことは父への恭順を示しているのであった。悔しい。

 沈んでいく夕日を眺めて、すべては若さゆえの強がりなのだろうか、と途方に暮れる日もある。日が短くなる秋はどうもいけない、感傷的な気分になる。時折無性に郷里の沼津藩改め静岡県沼津市に帰って富士山を臨むあの海岸で大声で馬鹿野郎と叫びたくなるのであった。

 湯島の剣道道場から本郷の下宿に帰る。徒歩で片道およそ二十分、激しい運動の後の冷却沈静化クールダウンにぴったりの距離だ。

 湯島の道場に通うようになってもうすぐ二年になる。師範代と言っても基本的にはお侍さんに剣を教わりたい子供たちのお守りだ。日当で指導料を貰っている。これも父の縁故なのが悔しい。幕臣の世間は狭い。

 東京は坂道の街だ。本郷に向かって上っていくと、下宿屋の立ち並ぶ通りにたどりついた。そのうち一軒が祥彦の住まう下宿屋『あさぎり』だ。

「帰ったぞ」

 味噌汁の香りが漂ってくる。鰹節の香ばしさと味噌のしょっぱさがいい。おかみの多喜たきが夕飯の支度をしているのだ。なんだかほっとした。

 廊下をのしのしと歩いて奥に進む。

 台所が近づくと明るい声が聞こえてきた。多喜の娘の小町こまちの声だ。花も恥じらう女学生で、多喜が女手ひとつで育てている看板娘である。おてんばなわりに健気な小町は多喜をよく手伝う。

「おい、帰ってきたぞ」

 のれんを上げて土間を覗いた。案の定そこに多喜、小町、そして書生姿の男の三人がいて、何が楽しいのかきゃらきゃらと笑い声を上げながら料理をしていた。

 小町が振り向いた。木綿の着物に前掛けをつけて三つ編みふたつのおさげをしている。多少名前負けしているようにも思うが愛嬌のあるたぬき顔だ。

 大鍋におたまに突っ込んで掻き混ぜているのは同じく木綿の着物の上に割烹着をまとった多喜である。こちらは四十路とは思えぬ若々しさで艶っぽく、再婚話のないのが不思議だ。

「あらさっちゃん、おかえり。お夕飯までまだ時間があるから着替えてきな」
「その前に土産だ」

 祥彦はずっと左腕に抱えていた紙袋を突き出した。

「道場で塾生の親にもらった。お多喜さんと小町で食べろ」

 小町が笑顔を浮かべて駆け寄ってくる。

「なになに? なにくれるの?」
「焼き芋」

 渡すと彼女は紙袋をびりびりと裂いた。

 紙袋の中から出てきたのは、太くて立派なさつまいもだった。袋から出した途端石焼きの香りが土間に広がった。皮の裂け目からは黄色い実が見え、蜜を垂らしている。それが全部で三本もある。

 小町の目が輝いた。

「浅草から通ってる奴がいてな」

 そういう趣味というわけではないが、やはり少女が喜んでいる顔を見るのはいいものだ。芋を手に持ち「ありがとう」と言う小町に癒された。

「あら、悪いね。切ってみんなに配ろうかね」

 かまどに張りついていた男が立ち上がった。

「そうしよう、そうしよう!」

 祥彦は眉間にしわを寄せた。

「僕も食べたい! 切ってや!」

 立襟のシャツの上に着物を着て袴をはいた若い男だ。ふんわりとした柔らかい毛のざんぎり頭にひょろりとした細身の体躯は、強くて太い剛毛の髪に筋肉質の祥彦とはまるで真逆である。顔立ちは多喜に「頭は悪いが顔はいい」と評価されているので女うけする造作なのだろう。

 彼は焼き芋を食べられると思い込んでそのお綺麗な顔にいっぱいの笑みをたたえ明るい裏声を出した。

「おおきに祥彦! 僕ほんまお腹空いて夕飯までもつか不安やってん! これでしのげるわ!」
「お前にやるとは言ってねぇ」

 小町の手元に手を伸ばした彼のその手を叩き落とした。

「俺はお多喜さんと小町のために持って帰ってきたんだ、明生あきおの分はねぇんだよ」

 彼、明生があからさまに眉尻を垂れて悲しそうな顔をした。

「三本あるやん! 毎日土間で火ぃ焚いてる僕を労ってくれるんちゃうん!?」
「声でけぇな、それこそ他の連中にも芋があることがバレるだろうがよ」
「お芋さん食べたい! お芋さん! 芋ー!」

 祥彦は小町の手から芋を二本急いで取り上げた。一本は小町が急いで食らいついたのでさすがの明生もこれ以上欲しがらないだろう。

 明生より祥彦のほうが十センチ近く背が高いので、腕を上に伸ばすと明生の手は祥彦の手に届かない。狭い土間で男と戯れるのは癪だが、味噌汁から目を離せない多喜の手が空くまではこの食欲大魔神から芋を守らなければならないのだ。

「三本目は! 俺の!」
「いけずすんなや! 半分に割りぃ!」
「他の誰でもなくお前に食わすのが嫌なんだよ、お前の喜ぶ顔を見たくない」
「そういう趣味なん? 変態! 僕の笑顔は可愛かいらしいしみんな見たがるものやと思っていたのに!」
「人生楽しそうで何よりだ」

 明生が一歩踏み込んだ。その足が祥彦の足と絡んだ。祥彦の体が後ろにかしいだ。こんな奴の足払いが効くとは、一生の不覚、武士の名折れだ。
 祥彦は「ああっ」と悲鳴を上げながら後ろに倒れた。それでも身についた柔術の要領でなんとか受身を取ったが、明生は猿のごとき俊敏さで祥彦の手から芋を奪う。

「あ、ああー!?」

 明生がその場にしゃがみ込んだまま芋にかじりついた。祥彦は急いで起き上がって芋を奪い返そうとしたが明生の食への執念はすさまじい。明生の執念と祥彦の握力の戦いだ。

「お前それでも公家のぼんぼんかよ!」
「祥彦かてお武家さんの惣領息子やのにふところが狭いのと違います!?」

 そんな二人を見て、右手におたまを持ち、左手を腰に当てた多喜が、渋い顔で言った。

「おやめ。あんたたち大学生にもなってなにしてるんだい」

 多喜の低い声に身をすくませる。

「明生」
「はい」
「焼き芋くらい自分で買いなさい」
「はい……」
「働くんだよ。あんたも賃労働しな」
「はい…………」

 土間の床に突っ伏した明生を、祥彦は嘲笑いつつ適当に「がんばれー」と言った。

「公家は食わねど高楊枝ーだっけか」
「そんなこと言うてへん……食べなあかん……死……」
「お勉強のできる頭に産んでもらったことをおふくろさんに感謝しろよな。私学だったら今頃破産して大陸に身売りだ」
「うっ……お母さん、それからお父さんも……不出来な息子を許してくれはりまへんか……」

 多喜がとどめを刺した。

「その親御さんだけど、今月のあんたの賃料滞納してるから。今月末までにあんたが自分で稼いでこなかったら来月うちから出ていってもらうよ」

 明生が右手に芋を持ったまま震えた。それでも食事は削減しない多喜の優しさに義理人情を感じるべきだと思うが、没落貴族の明生はその優しさを感じ取れるほど世間を知らないのだった。

「明生ちゃん、がんばって! わたし、応援してる!」
「僕の味方は小町ちゃんだけやで……」
「俺もがんばれって言ってやったのにな」
「祥彦からは悪意を感じるんやわ……」

 多喜が食器棚から茶碗を取りながら「手伝って」と言ってきた。三人は気を取り直して「はーい」と返事をした。

 翌日、祥彦と明生は神保町にいた。

 神保町は言わずと知れた本屋街だ。祥彦もたまに訪れている。だが、本とは一人でじっくり自分と向き合いながら探すものだ。今の今まで友人知人と連れ立ってきたことはなかった。それが今になってあさぎりで一番騒々しく声が大きい明生と、と思うとなんだか汚された気分だ。

 一軒の本屋に入る。三坪あるかどうかの狭い空間に六列の本棚が並んでいて、本棚には本がみっちりと詰まっている。本屋とは往々としてそういうもので、ひとつ前に入った隣の店舗もよく似たつくりだったが、大きな地震が来て倒れでもしたら死にそうだ。武術なら向かうところ敵無しの祥彦もさすがに地震は怖い。

 明生はしばらく本棚を物色していた。

 棚から一冊を抜き取る。表紙に竹久夢二の少女の装画が施されている。なんとも浪漫主義的な本だ。さすが明生、臆面もなくこうして女性向けの本を手に取る。硬派な祥彦には考えられないことである。

「可愛い! これ欲しいなあ。いくらやろ」
「買うのかよ」
「本は一期一会やで。ここでうたらな二度と会えんかもしれへん」

 こうなることはうすうす察していたが、あまりにも予想そのままの展開に祥彦は呆れた。

「それ何の本だ?」
「小説」
「小説っていうのはお前の少ないお小遣いを削ってまで買う分類の本かよ」
「これからの時代は小説が来るで。僕も小説家になろうかな。目指せ第二の夏目漱石」
「書いたことあるのか?」

 明生が笑顔で言った。

「あらへん」

 夢のまた夢。

 それにしても、どうして祥彦がこういう明生に付き合って神保町まで来るはめになってしまったのか。

 多喜が、明生の職探しに付き合ってやってくれ、と言ってきたからである。

 明生は平日講義の後に毎日短時間働ける場所で働きたいのだそうだ。

 多喜は下宿経営者の伝手つてをたどって食堂の店員でも斡旋してやろうかと思っていたらしいが、本人は誰が食べるかわからない飲食物には触りたくないと言う。確かに飲食は遊郭と旅籠はたごの次に人間の欲が渦巻く業界だ。どんくさくて世慣れしていない明生に務まるとは思えない。しかし祥彦がそう進言してしまったが最後、世慣れした祥彦がついていって監督してやってくれないか、という流れになってしまった。

 仕方なく聞き取りをしたところ、明生は本屋で働きたいと言い出した。彼は国文学専攻で本の虫だ。本が好きでも本屋が務まるかといったらそんな甘い世界ではないと思うが、本屋は本を読める人間が来るところだから、客は最低限読み書きができる程度の教育を受けた相手だろう。

 明生は京都府京都市出身の公家七条しちじょう家の人間だった。分家筋で実際に七条家を切り盛りしているのは伯父の七条子爵だそうだが、明生の家族は京の都の一等地に住んでいるらしい。

 見栄っ張りな京都人は自らの窮乏を認めない。一に教養、二に教養、三四がなくて五に教養と公家の風雅を守らんとする明生の両親は、借金をしてまで明生の教育に手間をかけた。結果、明生は学があって世間は知らない金食い虫に育った。

 本屋に毎日出入りをしたら、明生は際限なく本を購入するのではないか。

 さようなら明生の給料。

 まだ見ぬ金の末路に涙を禁じ得ない。けれどそれは明生の人生で祥彦とは関係ない。神保町で目をきらきらと輝かせている明生を見ていると、多喜の人脈で雇われ人になって下宿代を給与天引きにしてもらうべきだと思うが、そこまで助言してやる筋合いもなかった。

 明生が勘定台に向かった。

 勘定台には中年の小太りの男がいた。眼鏡をかけており、額が少し広い。本を熱心に読んでいる。表紙は祥彦の知らない絵師が描いた美人画で、幻想化け少女をとめ詞華集という題字が書かれていた。どうもそういう武士には居心地の悪い本屋らしい。

「すみません、これ一冊」

 男が顔を上げ、穏やかな笑みを浮かべて「はい」と言いながらそろばんを弾いた。明生がふところから財布を取り出した。

「お兄さんが読んではるその本も売ったはります?」
「ああ、これはちょっと、私が読み終えるまでは売れませんな」
「そうなんや。ほんなら僕予約させてもらえまへんやろか」

 祥彦は明生の頭を叩いた。

「当初の目的」
「はい」

 明生が頭をさすりながらやっと本題を切り出した。

「このお店、店員募集したはったりしません? 僕、働き口を探しておりまして、店番させてもろたら嬉しいんですけど」

 男が困った顔をする。

「すみません、そういうのは。ご覧のとおりこんな小さな店じゃあ私が一人で見れますからね」
「そうやろなあ」

 祥彦はふたたび明生の頭を叩いた。今度はどうして叩かれたのかわからないらしい、明生が「何すんのや」とにらんできた。

「学生さんなら家庭教師をしたらいいんじゃないですかね? このへん学校も多いしゆとりのあるお武家さんが多く住んでるから需要はありそうですけど」
「家庭教師かあ」

 そう言われて、明生はころっと方針を転換した。

「それもええなあ。大学で斡旋してもらえへんかな。明日学生課の掲示板見てこよう」

 祥彦は大きな溜息をついた。

「ここまで来て小説一冊買っただけとか……俺はいったい何をしに来たんだ……」
「えー、僕のお供?」
「サイアク」

 本屋の店主がからっと笑った。

「仲がよろしいんですね。学校のお友達ですか」

 ぎょっとして否定する。

「冗談じゃない、俺はこんな奴の友達になった覚えはないし、ましてや供回りなんて」

 しかし明生は能天気だ。

「照れんなや。言うて自分僕のこと大好きやろ」

 みたび明生の頭を叩いた。今までで一番強い力で叩いたので、明生が「いったあ!」と悲鳴を上げた。

 祥彦と明生は喫茶店に落ち着いた。

「俺コーヒー」
「僕クリームソーダ」
「クリームソーダ!? お前そんな甘いもの飲むのか」
「ええやんおいしそうで」
「払えるのか五十銭」
「……」
「払えるのか五十銭!?」

 何はともあれひと息である。

 結局明生の勤め先は見つからなかった。収穫は小説一冊だけだ。おそらくこの小説代の分昼食代が削れていくのだろう。朝食と夕食は下宿で食べさせてもらえるので、それでしのぐ気に違いない。

「わるないなーアイスクリーム」

 満足げにクリームソーダを飲んでいる明生を見ていると、祥彦は馬鹿らしくなってくる。明生の経済状況に気を揉んでこんなところにまでついてきてしまったが、当の本人がこんな調子では祥彦も真剣に考えなくてもよかったのではないか。

「で、これからどうする気なんだ」

 柄の長いスプーンでソーダを掻き混ぜる。

「ひとまず明日大学の学生課の掲示板見てくる。誰もいいひんかったら祥彦誰か紹介して。大名の横のつながりがあるんやろ」
「あてにするなよ、親父のコネクシオンを使いたくねぇんだよ。お前こそ公卿貴族のつながりはねぇのかよ、武家に勤めるなんてことになったら京の貧乏公家がって馬鹿にされるぞ」
「あらへん」

 そしてぽつりとこぼす。

「公卿のつながりでやっていけるんやったら僕今頃帝大は帝大でも京大生やわ」

 そう言われてしまうと祥彦はそれ以上何も言えなかった。この上なく能天気に見える明生だが、彼も彼なりにいろいろある。

 彼は京都にある第三高等学校の出身だ。何もなかったら京大こと京都帝国大学に進学していただろう。それができなかったという過去が何を意味しているのかわからないわけではない。

 二人はしばらく沈黙した。しゃべる割合でいうと普段は祥彦と明生で一対三くらいなので明生が物思いにふけってしまうと静かだ。こういう沈黙は苦手だったが、かといって新しい話題を振れるほど祥彦は器用ではない。

 黙っていると、隣の席の他の客が話す声がよく聞こえてくる。まして箸が転げても笑うような女学生が甲高い声でしゃべっていればなおさらだ。女学生とはかくも声が大きいものか。

「やだ、こわぁい! じゃあ寛子さんはそれ以来お帰りになっていないということ?」
「そうなのよ」
「またまた、そんなの都市伝説でしょ。どうせ駆け落ちだわ。だって最近何とかというお侍さんと婚約したという話だったじゃない? 旗本の嫁なんて苦労させられるんだから」
「そうよ、今時幕府のお役人だなんて。結婚するなら会社を持っている人がいいわ」

 幕府のお役人の息子で跡継ぎの祥彦はますます何も言えなくなった。

 ちらりと隣を盗み見る。揃いの海老茶袴を身につけた十代半ばの女の子が四人、背伸びをしてコーヒーを飲みながらぴーちくぱーちくしている。学校帰りに喫茶店に寄るとはとんだ不良娘たちである。

「寛子さんみたいな文学少女が、おとなしそうな顔をしてやるわね」
「だから、言っているじゃない。このへんに本を買いに来て行方不明になったのよ。本屋で誘拐されたのよ」

 よくよく聞くと物騒な話だ。どうもこの神保町のどこかでさらわれたらしい。平和に見える本屋街も魔都東京ということか。

「なんでも、ある本屋さんで、本の中の世界に入らないか、と勧誘されることがあるのですって。入っていってしまったのかしら」
「ずいぶんファンタジイなことをおっしゃるのね」
「気持ちはわからなくもないわ。現実に帰ってこられなくなったとしても旗本の息子と結婚させられるより物語の中の金髪碧眼の王子様と恋愛するほうが幸せよ」

 クリームソーダを飲み終えた明生が小声で「怖い話をしたはるな」とささやく。彼も聞いていたらしい。

「女三界に家無し。ファンタジイの美男との恋を夢見るのもむべなるかな」

 水野家の女たちを思い出した祥彦は、そっと息を吐いた。

「飲み終わったなら出るぞ」

 祥彦のその声掛けを聞いた明生が、神妙な顔をする。

「ところで、頼みがあるんやけど」
「聞かない」
「聞いて。ほんま。聞いて」
「断る」
「お金があらへんねん」
「わかってたことだろ」
「助けて! 何でもするから! 何でもするし奢って! 払って! 何でもするしおたのもうします!」

 立ち上がり去ろうとした祥彦に明生が縋りついた。床に膝をつき祥彦の腰に腕を回して「お願い! お願い!」と叫ぶ。先ほどの女学生たちのみならず店内にいたすべての客の注目を集めた。恥ずかしい。祥彦も叫んでのたうち回りたかったが大のおとなの男がするべきことではない。

 祥彦は泣く泣くクリームソーダ代も払った。この貸しは何で返してもらおうか。


 下宿に帰ってきて夕飯の支度をする多喜と小町の手伝いを始めた。これは本来明生の日課だが、母娘に世話になっているので祥彦も何かをしたい。これから先の人生で料理をする機会は何回あるかわからないけれど、できないよりはできたほうがいいだろう。

 小町が「まったくもう」と大袈裟に肩をすくめてみせた。

「明生ちゃん、無職続行かあ」
「一応学生なんやけど……」
「まあ、うすうすわかってたよ、あんたにそんな根性はないって」
「お多喜さんまで……」

 明生はかまどの前で溜息をついているが、溜息をつきたいのは明生から賃料を取れない多喜ではないか。

「年貢の納め時だよ。皿洗いしな。いい料亭紹介してやるよ」
「ううう……」

 いたたまれなくなったらしい、彼はそこでぱっと笑顔を作って話題を切り替えた。

「そういえば小町ちゃん、神保町の本屋で女学生さんが誘拐される事件があったらしいで。気ぃつけや」

 すると意外にも小町はこんな反応をした。

「あら、明生ちゃんもその話聞いてたの」
「もう知ってるんか」
書化堂しょかどうの怪でしょ。この辺の女学生の間ではここ半月くらいはその話題で持ちきりよ。何せもう三人が行方不明になってるんだから」

 結構な大事件である。祥彦の耳にも入っていてもいいはずだが、と思ったが、先ほどの女学生たちも駆け落ちではないかと噂していた、貴族の娘ならいざ知らず庶民の娘が消えるくらいはよくあるもの――なのだろうか。

「しょかどうのかい? 何やそれ」
「書化堂という本屋さんに行くと、本の中の世界に連れていってもらえるんですって。でも行ったきり帰ってこられないのよ。本の中の世界に閉じ込められてしまうのだとか」
「信憑性がないな、誰も帰ってこないんじゃ誰が本に閉じ込められると証言したんだか」
「いいえ、誘われて断った子がいるの。で、現実が嫌になったらまたいつでもおいで、と言われて帰されるらしい」
「わりと親切だな」

 どんぶりに煮物を盛りながら小町が唇を尖らせる。

「生きていくのってつらいことばかりだもの。最悪本の中に逃げられると思ったらそれに縋りたくなるものなんじゃないの」

 お椀に味噌汁を入れている多喜が「なに言ってんだい」と呆れとも怒りともつかない声を出した。

「十代やそこらの小娘に人生の何がわかるって言うのさ」

 祥彦としては女手ひとつで娘を育てている多喜の四十年を思うとなかなか重い言葉だと思うが、当の小娘である小町はおもしろくなさそうだ。

「わたしだっていろいろあるわよ。お母さんはおばさんで鈍感になってるの」
「おっ、言ってくれるじゃないかい」

 普段は仲の良い親子なのに今のはちょっとだけ不穏な雰囲気だ。明生は余計な話をした。

「まあまあ、十代の女の子は繊細すぎて神経質にならはんのやろ。先のことを悲観したくなる年頃や。温かい目で見たってください」

 明生がそう言うと小町は明るい表情を見せた。

「明生ちゃんはわかってくれるのね! 嬉しい! 頼りになるわ」
「そうやろ。揺れ動く乙女心はよう学習させてもろうてます」
「どこで?」

 祥彦は茶碗に米をよそった。

「ともかく、小町、お前はその書化堂とかいう店に近づくなよ。真偽はともかく子供に変なこと吹き込むような店員のいる店なんてろくなもんじゃねぇ」
「子供じゃないもん!」

 そして彼女は朗らかな声でこんなことを付け足した。

「それにわたしに何があってもさっちゃんと明生ちゃんが助けに来てくれるって信じてるもの。二人は特別なんだからね」

 祥彦と明生は顔を見合わせてしまった。なんだか妙な期待を抱かれているようだ。

「俺たちの能力はそんな便利なものじゃねぇぞ」
「またまた! 頼りにしてるからね」

 学生の本分は勉強だ。最近賃労働の話ばかりしているが、祥彦も明生も昼間は一応大学で講義を受けている。外国語の授業もあって、二人とも独逸ドイツ語をとっている。級は別でも講師が一緒でどちらも同じくらい課題が多い。

 夕食のあと、祥彦と明生は下宿の居間の卓袱台ちゃぶだいで独逸語の課題に取り組んでいた。

 悔しいことに、明生は学問だけはできる。彼は独逸語と仏蘭西フランス語をやっていて両方優良可の優だ。祥彦の成績も悪くはないが、作文に苦手意識があって今夜は明生に文法を教わりながら辞書を引いていた。

「遅いなあ小町ちゃん」

 唇を尖らせ、鼻の下に鉛筆を挟んだ顔で明生が言う。

「いつも夕飯までには帰ってきはるのにな。今日はどこまで遊びに行かはったんやろ」

 どうやら授業が終わったあと一度帰宅して多喜に友人の家へ遊びに行ってくると言い残してから出掛けていったらしい。一応どこに何の用事で出掛けたのはわかっている。しかし夕飯の時間になっても戻らないのは心配だ。先ほど多喜が迎えに行ったが、なかなか帰ってこない。無事に合流できていることを祈る。

 やはり小町はあさぎりの看板娘だ。彼女がいないあさぎりは静かで不安になる。他の下宿生たちもなんとなくそわそわしていて、廊下や便所で顔を合わせるたび小町は帰ったかと訊ね合う有様だ。

「物騒な事件もあるしな」

 先日の書化堂の怪なる噂話のことを思い出した。神保町の話ではあるが、半径一里以内で若い娘が何人も消えているのは間違いない。腐っても侍の自分が迎えに行ってやるべきだったか。

「僕も行ったらよかった」

 明生も同じことを考えていたらしい。ついつい顔を見合わせて溜息をつき合ってしまった。

「今からでも行くか?」
「自分どこに行ったか聞いてる?」
「知らん」
「僕もや。どうせえっていうんや」

 またひとつ、重ね合わせるように溜息をついた。

 その時だった。

 廊下を駆けてくる、体重の軽そうな足音が聞こえてきた。
 祥彦も明生も顔を上げてふすまのほうを見た。
 襖が開いた。
 開けたのは息急き切った小町だった。

「お、帰ったか」
「おかえり! 心配したで」
「さっちゃん、明生ちゃん!」

 小町が卓袱台のすぐそばに膝をつき、卓袱台の上に手を置く。祥彦と明生の顔を順番に見る。

「助けて」
「え?」
「助けて! 善子ちゃんが本の中に入っていってしまったの!」

 祥彦は眉根を寄せた。

「ヨシコというのは友達か?」
「そう。今日会ってきた友達」
「そのヨシコというのがどうしたと?」
「お父様が借金を作って失踪してしまったんですって。それで学校を辞めて働かないといけなくなってしまって。女工にはなりたくない、誰もわたしを知らない世界に行きたい、って言って」

 たかだか十四だかそこらの少女になんと過酷な運命か。
 自分の父親を思う。
 親の都合に子供が振り回されるなどあってはならない。

「話をしているうちに興奮して家を飛び出していってしまって。その場にいた友達と三人で探したんだけど、神保町で見た人がいると聞いて、それでわたし、きっと書化堂に行ったんだわって」
「落ち着け」

 小町が今にも泣きそうなので、祥彦はぶっきらぼうな自分にできる最大限の穏やかな声で小町に話しかけた。

「神保町は神保町でも書化堂とは限らないだろ。本の中に入るなんて馬鹿げたことがあるわけがない」
「でも神保町にいたのは確かなのよ」
「そうか、それはそうなんだろう。心配だから警察に通報しよう」
「通報はもうお母様がしたと聞いてるわ。でもおまわりさんが妖術と戦えるのかしら。そういうのってさっちゃんや明生ちゃんの領分なんじゃないの」

 思わず鼻から息を吐いてしまった。

「妖術ねえ」

 その単語に引っかかったのは明生もだったようだ。明生もそう呟いて生真面目な顔をしていた。そんな二人の様子を見て我に返ったらしい、小町がうつむく。

「ごめんなさい……、わたし、そんなつもりじゃ……」
「いやいいんだ、使えない人間からしたら区別はつかないんだろうからな」
「ごめんなさい……」

 しかし小町は気が強い。ちょっと考えたらすぐまた顔を上げた。

「さっちゃん、明生ちゃん。やっぱり二人の力でなんとかしてほしいわ」
「んん」
「二人の特別な力があれば人を閉じ込める本の謎が解けるんじゃないかしら。何の力もないおまわりさんより二人のほうがこういう不思議な現象に対応できるんじゃないの」
「無茶言うな。俺たちだって何でもできるわけじゃない」
「お願いさっちゃん、明生ちゃん! そんな意地悪言わないで! 善子ちゃんを助けて!」

 小町の華奢な手が伸び、右手で明生の手首を、左手で祥彦の手首をつかんだ。母に倣って水仕事をする彼女の手は柔らかいが荒れていた。

「小町ちゃん……」

 胸は痛む。けれど自分の力は本当に何でもできるわけではない。自分にできるのはただ戦うことだけだ。それこそ得体の知れない妖術に対抗できるとは思えない。

「あのな、小町。申し訳ないが――」
「助けてくれないの!?」

 小町が泣きながら手を離した。

「二人とも見損なったわ! もう嫌い!」

 そう叫ぶとまた玄関のほうへ向かって駆けていってしまった。

「わたしが善子ちゃんを迎えに行く!」

 明生が慌てて立ち上がった。

「いくらなんでもこの時間から一人で東京の街を歩くのはあかんやろ」

 彼の言うとおりだ。妖術の話は置いておいても魔都東京は治安が悪い。それこそ少女がひとり消えたくらいでは世間は変わらない。小町を追いかけて捕まえておく必要はある。

「しょうがねぇな」

 祥彦も立ち上がった。

 おとなの男である二人の足なら彼女が神保町にたどりつく前に追いつくことは可能だろう。けれどおおもとを解決しない限り小町は納得しないに違いない。何度も連れ戻すことになるのを考えたら、結局、彼女の行き先を撃滅するのが一番なのだ。

「お前、書化堂ってどこか知ってるか」

 意外なことに、明生は即答した。

「僕らが仕事探しをした時に最後に寄った店や。僕が竹久夢二の表紙の小説をうた、親父さんが怪しげな詞華集読んではった店やで」
「……気づかなかった」
「自分案外鈍いな」

 祥彦は夢虎丸を腰に差し直した。

「行くか」

 夜の神保町は静かであった。
 神田のにぎやかさとも本郷の騒がしさとも上野の猥雑さとも違う夜の神保町はどこか不気味だ。特に表通りは本屋ばかりで大半は営業時間を終えている。

 祥彦と明生は神保町の裏路地、表通りから一本脇道に入ったところにある小さな本屋の前にいた。女学生たちの間で噂の例の書化堂である。数日前明生が本を買った店でもあるので二人とも場所をおぼえていた。

 一見何の変哲もない本屋だ。どこの本屋とも一緒に見える。

 軒の下の硝子戸がわずかに開いていてほのかに光が漏れていた。

 中から少女の声が聞こえる。小町だ。彼女もここまで辿り着いていたらしい。

 まだ間に合う。

「たのもう!」

 祥彦は声を大きく張り上げながら硝子戸を開けた。

 本棚の合間から見える勘定台の前に店主の男と小町が立っていた。

 店主の男は下卑た表情を浮かべて小町の手首をつかんでいた。明生には穏やかで誠実そうな態度で接していたのに、今は眼鏡の奥の目をぎらつかせて唇を唾液で濡らしている。興奮した様子はおぞましく、同じ男としても虫唾の走る様相であった。

 小町が振り返った。

「さっちゃ、明生ちゃ――」

 泣きそうな声で、泣きそうな顔で、何かを訴えようとしている。

 絶対に助けなければならない。

 祥彦は夢虎丸の柄に手をかけた。

 しかし今この場でこの刀を抜くべきか。

 祥彦は一時逡巡した。

 この男は斬るべきか。まだ本当に少女たちを誘拐したと決まったわけではない。小町に触れる変態親父だが夢虎丸の牙にかけるほどの巨悪か。

 加えて、この狭い本屋で刀を抜いて立ち回れる自信もなかった。本棚に食い込んでしまうのではないか。万が一本を傷つけたらどうしよう。本は守りたい。本に罪はない。

 祥彦が考えている隙に、本屋の店主が動いた。

 彼は右手で小町の手首をつかんだまま、勘定台の上に置いてあった本を左手だけで器用にめくった。
 左手で本を開いて小町のほうに見せた。
 右側のページには美しい少女の似姿が描かれており、左側の頁は白紙であった。

「善子ちゃん」

 少女の似姿を見て、小町が友人の名を口走った。

 次の時、本の空白の頁からまばゆい光が放たれた。

 小町の華奢な体が光に包まれた。

 光に目をやられて一度まぶたを下ろしてしまった。

 ふたたび目を開けた時、小町の姿はその場から消えていた。

 男のほうを見る。

 空白だった頁に、少女の絵が増えた。
 小町の似姿だ。

 男が本を閉じた。

「ああ……可愛い。なんて可愛いんだ。はあ、あ、本当に可愛い」

 表紙に頬擦りをする。

「可哀想な女の子たち。はあ。こんなに若いのに悲しい思いばかりさせられて。私が守ってあげるからね。みんなみんな私が守ってあげるからね……はあはあ……」

 粘着質な声色に反吐が出る。

「どうやらその本が魔法の本だというのは本当だったらしいな」

 表紙には幻想化け少女詞華集と書かれていた。

 本の中に若い娘を集めて愛でようとするたいへんな趣味嗜好、言語道断の性癖である。

 男が祥彦と明生をにらんだ。

「男はお呼びでないんだ。汗臭くて野蛮な男たち。ましてバンカラ気取りの学生なんぞこの街に寄生するゴミ虫以下だ」
「なんだお前、学生時代に何か嫌な思い出でもあるのか?」
「お前たちは僕のコレクシオンに加えてやらないぞ。僕の可愛いコレクシオンに指一本触れさせない」

 そこまで言うと、男はまた本を開いた。

 そして、頁を一枚千切り取った。

 祥彦の背後で明生が「あかん!」と怒鳴った。

「本屋の亭主のくせに本を破んなアホンダラ! どんな理由があろうとも本を破く奴は動物と一緒や!」

 その言葉に対し男は反応しなかった。返事をすることなく破った頁を空に放った。

 さすがの祥彦も驚いた。

 紙に描かれた絵が動き、膨らみ、やがて形を取った。

 目の前に巨大な狼が現れた。

「やれ!」

 狼が食らいついてきた。

 祥彦はとっさに夢虎丸を抜いた。

 男が嗤った。

「何だその刀は!」

 癇に障る笑い方だ。

「刃が無いじゃないか!」

 だが男の言うとおりだ。

 夢虎丸には刃が無い。

 柄と鍔だけは立派なこしらえだが、本来刀身があるべき部位には長さ三寸程度の細長い鋼のかたまりしかない。

 それでも一応三寸の鋼の棒だ。化け物を殴るくらいには役に立つ。

 祥彦は夢虎丸の刃に当たる部分で狼の化け物の頭を思い切り殴った。狼は左に吹っ飛んで本棚にぶつかった。
 本がばらばらと落ちてきて床に広がった。真の本好きの明生が「ああ」と悲痛な叫びを上げた。

 狼の頭蓋骨の硬さを感じた。

「明生! 援護しろ!」
「あかん!」

 祥彦は舌打ちをした。

「本がだめになってまう!」
「うまくけろよ! 京の古刹こさつで十年修行を積んだんじゃねえのかよ!」
「そやかて──」

 男がまた頁を破った。今度は一度に複数枚だ。
 空に放つと、すべての頁が鋭い牙を持つ小猿に変わった。

 明生のほうを見た。明生が半泣きで両手の指を組み、印を結んだ。

雨飛うひ!」

 明生の体の周りに無数の小さな明るい球体が浮かんだ。

 炎のかたまりだ。

 彼が手を上から下へ振り下ろすと、炎の球体はその手の動きに合わせて頭上から小猿たちのほうへ向かって降り注いだ。
 小猿たちが悲鳴を上げた。ややして実体を失ってただの紙に戻り、最後は燃え尽きた。

 万事順調とはいかなかった。
 すぐさま明生が心配していた事態が起きた。
 明生の異能で生まれた炎が本棚の本に燃え移って広がり始めたのだ。

「あっつ」
「あかん、本を焼くなんてほんまの野蛮人になってもうた」
「いいから火を消せ! お前が無駄口叩いてる間に店が全焼するぞ!」
「わかっとるわボケ」

 指を組み替え直し、ふたたび呪を唱える。炎が少しずつ消えていく。だがそれを上回る速度で小猿たちが襲ってくる。今度は祥彦が明生の消火活動を支援するために戦わなければならなくなる。小猿の一匹を蹴り飛ばし、またもう一匹を殴り倒す。きりがない。

 そうこうしているうちに体勢を立て直した狼がこちらに向かってくる。

 夢虎丸を納刀し、脇差を抜く。

 脇差を狼に向ける。
 喉元に突き刺さる。
 硬い。斬れない。

 一歩引く。

 狼の背後から小猿たちが飛びかかってくる。

 まずい。

 脇差を構えたその瞬間、予想外の展開が起こった。

 本棚と本棚の間の狭いところで一斉に攻撃してきた紙の魔物たちが空中でぶつかり合い、あたかも詰まったかのように絡まり合って床に落ちたのだ。

「間抜けめ!」

 そのうち明生がもう一度印を結んだ。一拍置いたのはこの場でも使える呪を脳内で探したからだろうか。

 祥彦も次の一手を考えた。

 けれど最初に行動に出たのは本屋の男だった。

「ちくしょう!」

 彼はそう叫びながら本を開いた。

 真っ白な頁から光が放たれた。

 光は店舗の天井を覆い尽くすとどろりとした紫色の粘液に変わって壁を伝い落ちてきた。

 粘液が剥がれ落ちた。

 壁が溶け、あるはずのないぽっかりとした空間、闇よりもなお暗い闇が出現した。

 本棚が消えた。勘定台も消えた。壁も消えた。床も消えた。

 真っ暗な空間に動くものだけが立っている。

「何だここ!?」

 男が答えた。

「本の新しい頁だ」

 どうやら亜空間に連れてこられたらしい。

 男が引きつった笑みを見せた。

「貴様らをここに置いていってやる」
「なんだって?」
「朽ち果てるまで本の中で暮らせ。侍もどきと妖術師の二人で仲良く暮らせ」

 祥彦は眉間にしわを寄せた。

「ではね。私は現実世界に帰――」
「てめえ今何て言った」
「は?」
「てめえ、今俺のこと何て言った」

 よほど祥彦が怖い顔をしているのか、男が血の気の引いた顔で後ずさった。

「誰がもどきだと?」
「だ、だって貴様の刀は刃が無く――」
「これはな」

 祥彦は脇差を鞘にしまうと、夢虎丸の柄に手をかけた。

 夢虎丸を、ゆっくり抜刀した。

 鞘から出てきた時こそ短い鋼の棒だったが――

 夢虎丸が蒼白い光を放ち始めた。

 柄を一度両手で握って構える。

 左手だけで柄尻を支えるように持ち、右手を鍔から刃先に向かって本来刃があるべきところに沿うようにゆっくり宙を撫でる。

 はばきから、光の洪水が発生した。

 万物を照らす聖なる光は、蒼く輝く刃に変わった。

 夢虎丸を改めて両手で構える。

 夢虎丸は長大な太刀に変わっていた。

 正確には、本来の姿を取り戻した。

 水野家の嫡男にしか抜けない、伝説の宝刀、破魔の剣、夢虎丸。

 その、真の姿があらわになった。

「な……、な、なに……!?」
「てめぇは殺す」

 祥彦は男をにらんだ。

「夢虎丸の刃の錆になってもらうからな」

 夢虎丸は戦国時代に神都駿府で活躍した名匠の作である。かの者は今川氏お抱えの鍛冶師だったが、神君家康公が日本の覇者となった折に徳川に鞍替えした。以来彼は徳川家およびその家臣団のために刀を打ち続けた。その鬼気迫る様はあたかも取り憑かれているかのようだと言われていたらしいが、そも刀鍛冶とは神に奉納する刀剣を生み出すための神事である。

 夢虎丸には鋼の刃が無い。しかし神がかりの名匠は夢虎丸に神通力を込めていた。名匠は平時には目に見えぬ刃を打ったのである。夢虎丸は破魔の剣、持ち主が目の前の悪を斬ると覚醒した時にのみ真の姿を現す。

 刃無し夢虎丸――何も知らぬあかの他人はそう揶揄する。だが正当な継承者が鞘から抜いた時それは光の太刀となる。蒼く輝く三尺の刃は邪を祓うにふさわしい神々しさだ。

 本屋の店主がおびえの表情を見せた。魔道に堕ちた彼には夢虎丸の刃がまさに彼を斬らんとしているのを感じ取れるに違いない。

 主が何も言わなくとも本から生まれた魔獣たちはおのが務めを果たそうとするのか動きを止めない。

 巨大な狼が強靭な後ろ脚であるのかないのかわからない床を蹴ってこちらに跳びかかってきた。

 だが、本の中の広い空間に移動できたのはかえってこちらの好都合だ。

 これで存分に刀を振るえる。

 祥彦は夢虎丸を上段に構えてまっすぐ振り下ろした。

 面を打たれた狼は額から胸まで一直線に裂けてまっぷたつになった。

 手応えは木綿豆腐と言ったところか。かろうじてものを斬ったという感覚はあるがあまりにも呆気ない。

 狼が悲鳴を上げながら消えていく。

 男が半狂乱で本の頁を破った。宙に放り投げられた頁は猛禽類に変わった。

 鋭い牙とくちばしの巨鳥が襲ってくる。

滂雨ぼうう

 明生が宙を舞った。彼の手から放たれる炎が暗い空間を明るく彩った。日舞をやっていたという明生の舞姿は認めたくないが美しい。ぶれない上半身、指先までぴんと伸びた手が確実に妖魔に火をつける。紙から生まれた鳥たちは雄叫びを上げながら燃え尽きた。

「明生、感謝する!」

 祥彦は跳躍した。
 助走なしであったにもかかわらず本屋の男の目の前に着地した。夢虎丸を抜くと身体能力も上がるのだ。

 夢虎丸を振り上げた。

 男が絶叫した。

 左肩を狙う。
 袈裟懸けに斬る。

「ぎゃああああああ」

 と見せかけて――

 夢虎丸の刃が、消えた。

 三寸の短い鋼の棒が男の左肩に振り下ろされた。
 刃が無いとはいえ金属の棒だ。ごき、と鎖骨の折れる音がした。
 男が卒倒した。後ろに引っくり返って大の字に転がった。

 異空間が消えていく。天頂から紫黒の闇が流れ落ち、薄暗い本屋の店頭に戻っていく。

 気がつけば三人はもとの場所にいた。男は勘定台の手前に、明生が出入り口の硝子戸の前に、その中間あたりに祥彦がいる。本棚は一部焼け十数冊が床に散乱していたが、本屋全体が火事になることは免れた。

「妬けるわ、夢虎丸が出てくるといつもなんもかんも一瞬。僕かてそれなりにがんばったのに、今日もただの補佐役やった」

 明生が後ろからしゃべりながら近づいてくる。祥彦は平然とした顔で「当然だ」と言い放った。

「お前より俺のほうが退魔師として格上だからな」

 口ではそう言っているが、夢虎丸は基本的には日本刀である。しかも祥彦は泰清デモクラシイの世の中で育った人間だ。いくら武士であるといっても一対複数の戦いは得意でない。明生の炎が猿や鳥を焼き尽くさなかったら今頃もっと手間取っていたはずだ。しかしそれを素直に言うのは癪だった。明生が調子に乗るのは目に見えている。

 床に転がる男のそばに歩み寄った。

 完全に伸びている男の手から、魔術の本を取り上げた。

 頁をぺらぺらとめくる。西洋の化け物が描かれた頁と日本人形のように可憐な少女たちの頁が混在している。

 祥彦は少女の頁を破って床に向かって放り投げた。

 紙から少女の姿が具現化した。

「きゃあっ」

 見知らぬ少女が尻餅をついて悲鳴を上げた。

 明生が彼女に駆け寄って「大丈夫ですか」と問い掛けながら手を差し伸べた。彼女は余計なことを言わなければ美男に見える明生に頬を染めながら手を取った。

「ありがとうございます、あ、あの、あなたが助けてくだすったんですか」
「そうやで!」
「お前おぼえてろよ」

 ともかく無事らしい。よかった。

 その後も祥彦は少女の絵のある頁を破った。最終的に全部で五枚もあった。五人の少女が本の中に囚われていたということだ。

「帰ってこられたのね」
「もうだめかと思った」
「ありがとうございます、ありがとうございます」

 最後、小町の似姿を宙に放つと小町が戻ってきて床にどさりと落ちた。

 小町はまずきょろきょろとあたりを見回した。
 友達の善子の姿を見つけてわっと泣き出す。抱き合って声を掛け合う。微笑ましい。

「どうだ、お転婆娘」

 祥彦は本を閉じて小町に歩み寄った。小町が顔を上げた。

「さっちゃん、明生ちゃん」
「無事か?」
「やっぱり二人が助けに来てくれたのね」

 彼女は涙もそのままの顔に笑みを浮かべた。

「ありがとう、さっちゃん、明生ちゃん! わたし、信じてたからね」

 祥彦と明生は顔を見合わせて溜息をついた。

 外から警笛の音が聞こえてきた。いまさらながら警官が駆けつけたようだ。

「よし、後片付けは警察に任せて俺たちはとんずらするか」

 祥彦はそう言ったが、明生は眉根を寄せた。

「他に出口あるん?」

 明生の背後の硝子戸以外にはわからなかった。
 悪いことをした覚えはなく、むしろ帝都を揺るがす誘拐事件を解決したことで感謝状を貰いたいくらいなのだが、小火ぼやと本屋の店主の鎖骨については言い逃れできない。
 お互いの無事を確かめ合う少女たちの明るい泣き声を聞きながら、祥彦と明生は立ち尽くした。


 どうやら神保町の住民の通報が決め手となったらしい。近所の裏路地の本屋から物騒な声と物音が聞こえてくるというので警察が呼ばれたらしいのである。つまり祥彦と明生が踏み込まなかったら静かな夜が続いたわけで、なかなか複雑な心境だった。

「あのね、君たちね」

 英国風の塹壕外套トレンチコートに身を包んだ若い刑事が、祥彦と明生から聞き取り調査をしながら手帳に書きつけをする。

「女の子たちが無事だったからある程度酌量すると思うけれどね、君たちにもしっかり話を聞かせてもらうからね」

 異能を使うことによって迫害されることに慣れている明生は、抵抗することなくとっとと頭を下げた。

「はい……まあ……そうです……えろうすいません……」

 だが神君家康公も守ったと言われる神剣の正当な継承者の祥彦は負けなかった。

「正当防衛だ。向こうが妖術を使ったからこちらも対抗したのであって」

 若い刑事がしらけた顔で祥彦をあしらう。

「君、学生だよね? 後見人の連絡先は?」
「ちょっと待て、ほんと、本当に、本気で親父に連絡するのはやめてくれ」
「はいはい、署で聞こうね」

 制服警官に左右から挟まれた。右腕と左腕をそれぞれつかまれた。
 あわや連行、というところで声を掛けられた。

藤曲ふじまがり君」

 どうやら若い刑事の名前が藤曲というらしい。彼は近づいてきた男に対して敬礼した。

 声を掛けてきたのは年配の刑事であった。恰幅のいい男性だ。藤曲刑事同様塹壕外套トレンチコートを着て中折れ帽をかぶっている。

「君たちが解決してくれたのかね」

 口ひげを生やした顔こそ厳めしいが、話のわかる男のようだ。

「離したまえ」

 彼がそう言うと警官たちが祥彦と明生から離れた。

「私は殿村とのむらという。警視庁の刑事で、非能力者だが魔道対策課に籍を置いている」

 彼、殿村は、そんな挨拶をしながら帽子を取り、毛の薄い頭頂部を見せてくれた。祥彦と明生も学生帽を取っておじぎをした。

「学生服を着た若い侍と炎を操る美しい書生、か」

 殿村が目を細める。

「水野祥彦君と七条明生君かね」

 ばれていた。
 祥彦も明生も頬をひきつらせた。

「君たちの件は警視庁の中でなんとかしよう。一応水野子爵と七条子爵とは連絡を取らせていただくが、叱られることのないよううまく言っておく」
「アリガトウゴザイマス……」

 どうやら自分たちは界隈で有名人になっていたらしい。魔道対策課というのがどんな課なのかは知らないが、けして気分のいいことではない。

「あかん……また伯父さんに迷惑をかけてもうた……また泣かれてまう……」
「俺なんかどうするんだ下宿に押しかけてきて鬼の首を取ったように説教するかもしれねえの本当に嫌」

 殿村刑事はにこりともせずに帽子をかぶり直した。

「行方知れずになっていた娘たちが全員無事であることを確認できた。感謝する」
「はい、謝礼金ならもちろんいただきます」
「二人とも将来は警視庁に就職しないかね。警視庁には君たちのような能力者もたくさん勤めている。私のような非能力者には理解しかねることも多々あるが、君たちならばわかり合えるのではないかと思う」

 明生が無言で肩をすくめた。祥彦も真面目な返事はしなかった。

「考えておく」
「よろしく頼む」

 そこまで言うと、殿村刑事と藤曲刑事はこちらに背中を向けた。

「では、また会おう」

 明生が舌を出して手を振った。祥彦はその後ろ姿をにらみつけているだけでやはり何も言わずに見送った。

 それから一週間後、下宿屋あさぎりに大量の梨が届いた。少女詞華集誘拐事件と名付けられた一連の事件の被害者の一人、小町の友人善子の母親が送ってきたものである。

 添えられていた手紙には、祥彦と明生にはいくら感謝してもし足りない、本当は金一封を送りたかったが経済的に苦しいので叶わない、自分の実家が下総で梨農家をしているのでその農園で穫れた一級品を謝礼にかえて贈る、と書かれていた。

 謝礼が欲しくて行動したわけではなかったが、ひとから感謝されて悪い気はしない。祥彦は遠慮なく受け取り、多喜や小町や下宿の面々と分け合うことにした。

 明生も梨を喜んでいた。
 彼は本当はきっと金一封が欲しかったに違いない。けれど彼にはそれを口に出さないだけの品性がある。
 腐っても貴族の彼は自分に貴族らしくあることを課していた。普段は金、金と言っていても、他人にせびるほど卑しくはない。まして相手は娘を女工にしようと考えるほど食い詰めている家庭だ。

 居間で、祥彦、明生、小町、そして多喜の四人で梨を食べる。祥彦と小町は自分で皮を剥いたが、手際の悪いお坊ちゃんの明生は多喜に剥いてもらっている。多喜は「これくらい自分でできるようになりな、私はあんたのばあやじゃないんだよ」と怒っているが、明生には馬耳東風だ。

 梨はみずみずしかった。果汁がたっぷりで歯を立てると口からこぼれそうになるほどである。果物特有の天然の甘みが広がる。しゃりしゃりとした食感もいい。いくらでも食べられそうだ。

「善子ちゃん、ひとまずお母さんの実家に引っ越すってさ」

 小町が語り出す。

「梨農家に一時避難する、って。東京にはいられないみたい。千葉県の市川というところって言ってたけど、遠いかしら?」
「遠い遠い、果てしなく遠い。汽車で三日はかかるな」
「ね、さっちゃん、真面目に言ってる? 相手がわたしだからって適当なこと言ってもいいと思ってない?」
「千葉って隣の県やろ、関東平野みんな平らやしそんなかからんちゃう?」
「房総半島をなめんな」

 いずれにしても今までどおり小町と同じ学校に通うことはできなくなったということだ。しかもこれから先は母子家庭でやっていくということではないだろうか。市川はそれほど根深い田舎ではないと思うが、さすがに東京ほどの大都会ではなかろう。近隣住民が善子たち親子をどういう目で見るかと思うとなかなか厳しいものがある。

 この世界は女性、特に少女たちに対して厳しい。まして平民の子にとってはなおのこと苛酷だ。

 被害者が貴族の御曹司だったら最初の事件の時点でもう少し扇情的に報道されたかもしれない。しかし騒ぎになったのは解決して犯人が逮捕されすべてが明るみに出てからであった。

 実のところ、魔都東京では異能者が起こす事件は後を絶たない。あれほどやかましかった野次馬や報道陣も、今は昨日一昨日に起こった別の事件に夢中で少女詞華集誘拐事件を忘れつつある。

 小町は一週間ほど学校を休んで家でおとなしくしていたが、今日から祥彦や他の下宿生を護衛としてつけながら登校し始めた。特に問題はなさそうでほっとしている。

「警視庁魔道対策課かあ」

 一切れを咀嚼してから、明生がはあと溜息をついた。

「そんなんが課として独立するくらい東京は異能者が問題を起こしてるんやなあ」
「京都府警にも陰陽課とかいう御大層なものがあるんじゃなかったか?」
「そうやで、僕が高校生の時えろうお世話になった陰陽課や」

 明生は三高時代に同級生を焼き殺そうとしたことがあるらしい。貴族の子弟が多い学校側は最初揉み消そうとしてくれたようだが、結局京都にいられなくなってほぼ追放も同然の状況で東京に移住したと聞いた。

 この明生が殺そうと思ったくらいだから、相手は人格によっぽどの問題があったに違いない、と祥彦は思う。けれど明生が詳しく話したがらないので、これ以上根掘り葉掘り聞くつもりはない。

「そう言えば陰陽課のおっさんたちも僕に将来は陰陽師にならんかー言うてたな。でも数学ができなあかんから僕には難しいな」
「陰陽師って数学が必要なのか」

 そう考えると祥彦は恵まれた境遇であるとも言えるかもしれない。
 夢虎丸が祥彦を自らの主として選んだことで、水野家は祥彦を正式に認知することとなった。祥彦としては当主の愛人の子である自分などあのまま一生捨て置いておいてほしかったが、次期当主を産んだとされて屋敷に迎え入れられた母のことを考えたら、どこかで割り切らないといけない。

 女はつらい身の上だ。女三界に家無しとはよく言ったもので、小町の友達は女工にさせられそうになり、祥彦の母親はお殿様の愛人として振り回され、他にも不遇な女性の例は枚挙にいとまがない。何も言わないが多喜や明生の家族も苦労しているはずだ。

 祥彦は小町の頬をつまんだ。柔らかくて弾力がある。

「なによ。痛いんですけど」
「俺の周りでろくに苦労してなさそうな女はお前くらいだなと思って」
「失礼しちゃうわね、わたしだっていろいろあるわよ」
「たとえば?」
「たとえば……、その……、いろいろはいろいろよ」
「はいはい」

 多喜が祥彦の分の小皿に皮を剥いた梨を入れた。

「あんまりいじめないでやってよ、この子だってこの子なりにいろいろ考えてんだよ。まあ私からしたらちゃんちゃらおかしいことばっかりだけど、明生も言ってたじゃないか、乙女心は繊細なものだって」

 明生が「そうやそうや」と加勢する。

「苦労なんざしなくて済むならしないに越したことはないのさ」
「お多喜さんが言わはると深いなあ」
「私は完全に擦れちまったからね、小町には大人になるまで何にも知らずにいてほしいじゃないか」

 それが親の愛というものだろうか。自分の父母とは交流不足の祥彦には何とも言いがたい。

「祥彦はどうなん、警視庁魔道対策課。東大出で入庁したら出世街道ちゃうん?」
「警察官になるには正義感が足りねぇな」
「ほんまそれ。言うて僕もそれやわ。僕使命感や責任感があらへん」
「責任感はないとどんな仕事も務まらないんじゃねえか? いずれにしてもお前は次男坊だから就職しなきゃだめだろ」

 小町が「そうだ!」と大きな声を出した。

「結局明生ちゃんの賃労働の件はどうなったの? うちの下宿代いつ払ってくれるの?」

 明生が引きつった笑みを見せた。

「労働! 労働!」
「ああー忘れとくれやすー」
「そうはいかないよ、なんとかしなよ」
「待ってくれはらしまへんやろか。いつか出世したら、そうや出世払い、出世払いでたのんます!」
「それが通じると思ってんのかい!」

 祥彦はふと息を漏らした。その息の意味するところが何かは目の前の三人の想像にお任せすることにして、今はただ梨を味わわせてもらうことにする。

 この件はこれにて一件落着、めでたしめでたし。

<完>


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