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【日本語は嚙めば嚙むほど味が出る✨】

こんにちは🥰
皆さま、いつもありがとうございます🥰

今日から1週間ほど、ある目的のために、投稿させていただきます。
お付き合いいただけますと幸いに存じます🥰

昨日、あることである方に相談をしました。
相談の結果、結論は、10年ほど前にも他の方から言われていたアドバイスに近い内容だったのですが、
この度はなんだかしっくりきて、なんだか「できる」という気持ちになりました。

誰に言っていただくかって大事ですね。

以前、30代前半の頃でしょうか、「偉くならなくていい」と言っていた私に、
ある方が、
「褒めるために偉くなる」という言葉があるとおっしゃってくださいました。
たしか斎藤一人さんのお言葉だとおっしゃったと記憶しています。

確かに、「偉い人だ」と思っている人に褒められると、そのお言葉は大きな力となります。
偉い人だと思っている方のお言葉は、
時に、人生の転機となったり、
時に、生きる勇気となって、命が救われることもあるかもしれません。

「偉くならなくていい」は、自己保身もしくはかっこつけの独りよがりなのかもしれないと思ったことがありました。(森の場合です)

もちろん、偉いかどうかは、お相手が思うことなので、
偉くなろうと思ってなれるものではありませんが、
確かに言えることは、偉い人は、ひそかに、人の何倍も何十倍も何百倍も努力しています。

(スピリチュアルカウンセラーの江原さんがおっしゃっていました。
「その人の努力まで含めて引き受ける覚悟があれば、人をうらやましく思ってもいい」と。)

その道を選んだ瞬間から、一挙手一投足(日々の生き様)が試されていると思いますし、努力しても、人に勇気をもらってもらえるような言葉を発することができる人にはなれないかもしれません。

だけど私は、無駄でも、悪あがきでも、努力し続けたいタイプです(笑)

ただし、やみくもに努力する(振る=行動する)のではなく、舞おう(=目標・どのようになりたいか)として振ることが大事と思っています。

「いつか美しく舞うことを想い(想像・イメージし)ながら、振ることによって、美しい『振る舞い』となる」
と、「振る舞い」という言葉が教えて下さいます。

この言葉に限らず、日本語は噛めば噛むほど味が出ます。
(「意味」も「意の味」と書きます。)

私はおっしゃることの全体に対して「わかった」と、できる限り言わないようにしています。
(部分に対して「わかった」と言うことはあります。)
「わかった」と言うときほど、わかっていないことが多いからです。
わかったと思った瞬間、人はそれ以上噛むことをやめてしまいます。
まだまだわかっていないと思うようにすれば、もっと噛んで味わおうと思います。

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さて、今日は、七夕です。

そうそう、今日は七夕の話がしたかったんでした💦

すでに、1200文字ほど書いてしまいました💦

今日は少し長くなりそうです。ご容赦くださいませ🙇

あいにく、私がいるエリアは雨模様。
天の川を見ることはできなさそうです😢

七夕は、年中行事「五節供」のひとつ、七夕(しちせき)の節供のことです。

先日、ある勉強会で「五節供」をテーマにお話しさせていただきました。
ご受講くださった方から、今朝、ご質問をいただきましたので、ご質問の回答を皆さまと共有いたしたいと思います。

その前に✨
「せっく」の漢字を、私は「節句」ではなく、「節供」と書いていますことにお気づきでしょうか。

なぜ、「節句」ではなく、私は「節供」を使うのか。
そこにも、日本語に込められた、大切にせねばならない心持ちがあるためです。

皆さまは、「節供」より「節句」の方をお見かけになることが多いのではないでしょうか。

「節句」と「節供」をインターネットを検索いたしますと、
令和3年7月7日時点のGoogle検索で、
「節句」は約35,400,000件
「節供」は約1,070,000件でした。

検索結果を見ますと、圧倒的に「節句」を使っていらっしゃる方が多いことがわかります。

(平成29年に国語辞典編集者の神永曉氏が検索された記録が同氏の投稿記事に載っており、当時で
「節句」は約15,500,000件
「節供」は約333,000件とのことです。
何で検索されたかはお書きになっていないのでわかりかねますが、「節句」と「節供」を同じ検索エンジンで検索されたと思いますので、比率を比較することはでき、平成29年と比べると、令和3年の現在は、「節供」を使用される方が少しは増えてきているようです。)

しかし、もともとは「節供」という漢字の方が歴史は古く、室町時代以前の書物には、「節句」の文字は現在のところ出てきていません。
江戸時代以降に「節句」が増え始めますが、その原因は不明とのことです。

そして、近年において「節句」が圧倒的に優勢となっている理由は、新聞に用いる字が「節句」となっていることや、常用漢字表の「句」の欄に、語例として、「節句」が挙げられているからではないかと、神永曉氏は記してらっしゃいます。

そのようななか、私が頑なに「節供」を使いますのは、先述した通り、私たちが忘れてはならない大切な心持ちを教えて下さるからです。

「節供」は、
「節(せち)の日の供御(くご)」から成った言葉です。

「節の日」とは、字の通り、節目の日、つまり「ハレの日」のこと。
季節の変わり目にあって、邪気をはらい、場や身を清め、神様をお招きしておもてなしし、お供えをして、五穀豊穣や無病息災を祈り、お祝いをする日のことです。

「供御(くご)」とは、「神様にお供えする食べ物」のことを指していました。

神様にお供えした食べ物を、下げて、調理し、皆でいただきます。
その時にいただく行事食を「節供料理」といい、略して「お節」というようになりましたので、お正月にいただいているお節は、お正月の行事食だけを指したものではなく、節日の行事食はすべて「お節」だったのです。

私が今頑なに「節供」という漢字の方を使いますのは、
「お供えする」という心や行為を忘れてはならないと思うためです。

人は時におごりの心があらわれます。

人間ですもの、時にはそうなることもあります。

ご先祖様は当然お見通しで、ところどころに、謙虚に立ちかえり、ものごとを引いて見る(客観的に見る)機会をしきたりや暮らしの習慣、生活様式のなかに組み込んでくださっています。

そのひとつが、「節供」です。

お供えの食べ物は、自分が一生懸命働いたお金で買ってきたものかもしれません。

畑をされている方は、
自分が昨年に手塩にかけて育てたお野菜から種をとっておいたものかもしれません。

その種を植え、

草を引き、また草が伸びれば引き、

毎日のように水をやり、

収穫までたくさんの手間をかけてお育てになるでしょう。

そうすると、「自分が」「自分の」という心が大きくなることもあります。

しかし、よく考えますと、自分一人では決してお野菜は実りません。

太陽のエネルギーや大地のエネルギー、種が発芽する神秘など、人の力ではどうすることもできないことも合わさって、お野菜をいただくことができています。

日本の生活習慣では、いただきものは神棚やお仏壇にお供えします。

お野菜などの大自然の恵みを節供には神様や仏様にお供えします。

そうするとどうでしょうか。

「自分が」「自分の」であったお野菜が、お下がりをいただくときには、
「神様(仏様)からのいただきものだ。ありがたい~」という気持ちに自然になっています。

「自分が」「自分の」と言っているうちは、「あって当然」なので、ありがたいという気持ちにはなりにくいですが、
「いただきもの」となると、たちまちありがたく、たちまち幸せになることができます。
そういう生活習慣をいただいているのが日本の暮らしです。

昨今、いただきものをお供えする習慣がどれくらい各家庭に残っているのでしょうか。

お供えする機会を失いますと、謙虚な気持ちに立ち返る機会をひとつ失います。

そうすると、ほんとうは有難いことも有難いと感じることができなくなるかもしれません。

美智子上皇后陛下がおっしゃった有名なお言葉
「『幸せな子』を育てるのではなく、どんな境遇におかれても『幸せになれる子』を育てたい」

その仕組みが日本の生活習慣にはあります。

「節供」は私たちがたちまち幸せになれる魔法の言葉。

日本語はよく噛むことをおすすめします🥰

今朝いただいたご質問の回答を共有したいという話から七夕の話を始めましたが、ご質問に対する回答を共有するのはまた明日とさせてくださいませ🥰

ご質問の内容は、「七夕の節供の行事食について」です✨

長文、失礼いたしました🥰

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