他人に財産や命を捧げることはなぜ「幸福」なのか?──自己犠牲の動機をタイプ分析しよう


みんな、自己犠牲は好きか~~~~~~~!?!?!?!?!?!?


古くは新約聖書からオスカーワイルド「幸福な王子」、宮沢賢治「銀河鉄道の夜」まで、自己犠牲による救済を描いたコンテンツはいつの時代も大人気。とはいえ、我々は手放しで彼らの無私の奉仕を賞賛してきたわけではありません。自らに痛ましい苦痛を課し、ときには命までもを投げ打って他者のために尽くす人の姿は、絶望的に救いのない生き方にも見えるものです。
相手や人類のことを思っての利他行動は確かに美しいが、大多数の人々にはそれだけのために自己を使い果たす生き方などほとんど不可能です。では、その常識からぽんっと飛び出して死までもを選んでしまえる彼らは、何を動機にして、また何を利益として自己犠牲の険しい道に足を踏み入れることができるのでしょうか。ここではその理由を分かりやすくするため、大きく3つのパターン類型から分析を試みたいと思います。

1.無価値由来タイプ
2.良心優位タイプ
3.自己利益タイプ


もちろん、これは構造的な理解手法であり、個々の事情を考慮すれば必ず誰もがどれかの類型に該当するというわけではありません。文学・二次元上のキャラクターを解釈するための一助、あるいは自分自身の内面理解の手助けとしてお読みいただければ幸いです。



1.無価値由来タイプ

大抵の人間が自分の幸せや利益を求めて生きている中で、なぜそれらを差し置いてまで多数のために死のうとする人が存在するのか。大規模な対象に向けて自己犠牲を行う人の中でもっとも頻繁に見られるのが、無価値由来タイプである。このタイプの主な特徴は、「私は無価値だが、自己犠牲によってあなたの役に立てるなら、それでようやく私も価値あるものになれる」と考えている点にある。それほど切迫していない場合なら、「こんな自分にはできることなんて何もないけれど、この方法でならみんなの役に立てる」といった言葉遣いにもなりうる。
1はさらに、小分類としてa.自罰型とb.使命型に分けることができる。



1-a.自罰型
無価値由来タイプ自罰型の自己犠牲者は、もっとも自己肯定感が低い。彼は奉仕対象となる他者を愛して/愛そうとしてはいるが、その愛は自分の力では相手に伝えられないと思っている。自分自身の価値をかぎりなく低く見ており、他者に渡せるようなものを何も持っていないと感じているからである。
その結果として、自分の人生すべてといったリソース、あるいは生命自体を投げ出すことで他者に尽くすという考えが比較的躊躇なく導き出される。
「私は自己犠牲を通じた利他行動をすることでしかこの世に生きている価値がない」。これは他者を高く見積もっているという以上に、これまでの自分を責めているからこそ出てくる言葉だ。何のためにこの世に生まれてきて、何のために今まで生かされてきたのか。受けてきた恩や、自分が踏みにじってきたものに能うだけの成果を出せていないという痛烈な切迫感が、彼を最大限の奉仕へと駆り立てる。サバイバーズギルト(生存者罪悪感)の所有者も、しばしばこの原理から過剰な自己犠牲へと向かっていく。

彼にとって自己犠牲による死とは、自己自身の救済である。なぜならそのときになってようやく自分の無価値な生を価値あるものに転化することができるからであり、罪を背負った自分を裁くことができるからである。彼は本質的に罰されることを望んでいる。自罰と他者への貢献を一体化させて遂げられるのが、自己犠牲の行為なのだ。


1-b.命令型
命令型の自己犠牲者にとってもっとも重要な事柄は「与えられた使命を遂行する」ことである。分かりやすく言えば利他行動を命令されたアンドロイド。自我が希薄な人間は「無私の自己犠牲は善である、あなたは常にそれをすべきだ」と教えられれば素直に従う。個人や組織からの指示に従っていることもあれば、必要に迫られて宗教道徳などを選択している場合もあるが、重要なのは、その命令は自己自身の価値観から生まれたものではないという点にある。
無価値型に属させているのは、彼には自己自身を大切にするという価値観が欠落しているためでもある。奴隷的と言ってもいいが、従者気質の人間がすべてここに属するわけではない。無価値由来タイプ使命型の人間の多くは、「本当にそれが自分自身の幸福なのか」という懐疑と克服を経ていない。あるいは、逃げ道の無さから懐疑を持ちかけても意図的に考えないようにしている。自分には奉仕しかできることがないからこうし続けるしかない、という結論を出せばここに留まり、別の答えを見つければほかのタイプへと移行する。

初めは他者から与えられた言葉がきっかけでも、奉仕の原理を内面化していった結果、アイデンティティを保つための命令として自己犠牲を強いている場合もある。「私が私であるために、利他の精神を崩してはならない」。そうまでして崩壊を恐れているのはやはりその後には何が残るのかという不安ゆえであり、その点でも無価値由来タイプへの傾きが見られる。

彼にとって自己犠牲による死とは、任務の完全な遂行である。今まで受けていた使命が重すぎるもので苦痛であったなら、そこからの解放という点では救いにもなりうる。たとえ他者の論理を信じ込んだまま人生を使い果たすとしても、盲信の度合いによってはそれが幸福だと感じられるかもしれない。しかし最後まで自由な自己というものを経験しないまま死を迎えたとすれば、それは本当に幸福と呼べるのかという疑問はついて回る。



2.良心優位タイプ

自己犠牲が行われる動機には、常にふたつの要素がある。「他者のため」という社会全体ないしは個人を思いやる気持ちと、「自分のため」というエゴの要素。ほかの2パターンではエゴに比重が置かれているのに対して、良心優位タイプはその両者のバランスが均衡していることに特徴がある。
彼がもっとも重要な価値観としているのは、(それが主観的なものであれ)良心や誠実さといった道徳心である。一見社会規範に支配されているようにも見えるが、彼は単に他者の論理を最重視しているわけではなく、自分の良心から発した要請に応えるために仮に道徳原則を採用しているにすぎない。そのため世間的なルールからは外れる事柄であっても、自分が他者を守るためには善であると信じたことであれば実行できる。
彼は善なる秩序が理不尽に打ち砕かれることを嫌い、その実現ないしは維持を目的として行動する。彼がときにはそのために死のうとさえするのは、他者を守り信念を貫くことを自分自身にとってもっとも喜ばしい生き方だと感じているためである。
2はさらに、小分類としてa.愛情型とb.責任型に分けられる。


2-a.愛情型
このタイプの自己犠牲者は、何よりもまず他者への愛情をもとに行動する。家族や親しい人を守りたいという動機、彼らを愛しているという感情が献身を呼び起こすが、その思いは利他性と利己性の両方を含んでいる。彼にとって他者の幸福と自分の幸福はイコールで繋がっている。相手の平穏がなければ自分も安心して生きてはいられないのであり、相手を手助けすることはそのまま彼自身の報酬にもなる。親から子へのアガペーを想像すると分かりやすい。こうした個への愛は、たとえその他の多数に混沌をもたらすことになったとしても、衝動的/決意的に選択される。
対象が個人ではない場合は、その動機は所属集団への強い帰属意識という形で現れる。他者と自他境界の一部が溶け合っているため、彼にとって死は決して絶望的な終わりではなく、後を継いでくれる他者たちへの祝福を込めたバトンタッチである。

利他性と自己の幸福の天秤は奇跡的なバランスで均衡を保っており、献身による苦痛が度を越えると、「もうこれ以上は苦しみたくない」「でも見捨てられない」という葛藤が生じることもある。愛情だけでは耐えがたい場合、ほかのタイプから付属的な理由をつけ足して解決を試みることも多い。そこで「いいや、この献身はあくまで自分だけのためだ」というエゴ優位の動機になると別タイプへと移行し、反対に愛する他者の幸福に報酬を見出すと愛情型に留まる。
いわゆる「過保護」のように愛情が加害性を持つケースの多くは、愛情型を装っているだけで根底は①②から発していることが多い。


2-b.責任型
責任型の特徴は、名前の通りきわめて強固な責任意識に端を発する点にある。彼は自分の良心ないしは道徳的理性をきわめて重要な価値と見ており、それに準じることを当然だと感じている。彼が献身を選ぶ理由のもっとも重要な要素は、助けを必要としている他者の出来事について、どれだけ自分に責任があるかである。「一度関わったからには見捨てられない」「知ったからにはもう他人事ではない」という論理によって、手を差し伸べるべき範囲を無制限に拡大させてしまえる素質を秘めている。
彼は秩序を好み、不誠実や不正義を嫌う。彼にとって助けようと思えば助けられる他者を自己保身のために見捨てることは恐ろしく無責任な行為であり、苦痛となるほどに耐えがたい。そのため、たとえ命を投げ出すことになろうとも自分の信念を貫くことができるならそれでいい、という考えに行き着きやすい傾きを持っている。

無価値由来タイプ命令型にも似ているが、それとは「愛情」と「責任感」の発生順序がまったく異なる。良心優位タイプ責任型の人間が持つ強い責任意識は、他者への基礎的な愛情の産物として存在しているのであり、命令ー遂行という直線に終始する強迫的な命令ではない。そのため、彼は責任をまっとうした結果他者が救われることを自己自身の成果報酬と捉えることができる。


3.自己利益タイプ

このタイプの人間における自己犠牲の動機は、「他者のため」と「自分のため」という天秤が大きく後者に振れている。自己利益タイプはエゴ優位の動機を持つ者の中から、1の無価値由来タイプを除外した分類であると考えてもらいたい。ここをわざわざ区別しているのは、1は「自己の無価値感を解決する」目的が強いのに対して、3の動機はその点から出発した欲望ではないためである。もちろん要素の交絡が見られることは多いが、ここではひとまず切り分けて考えよう。
説明に入る前に注記しておきたいのは、「自分のため」の奉仕活動は決して悪いことではないという点だ。他者を顧みないために奉仕が相手の望まない方向に向かったり、過干渉となったりすることはあるが、しかし必ずしもそうなるわけでもない。良心から動こうが、自己愛から動こうが、結果として現れる行動が同じく他者に利益をもたらすものであれば無条件に批判されるべきではないと考える。
3の小分類は、彼らが利益として求めているものによってa.体裁型とb.自己満足型に区別する。


3-a.体裁型
社会奉仕や社会貢献、他者への献身といった行為は、世間では賞賛されるべきものとして扱われている。ボランティア、身内の介護、身を挺して仲間を庇うこと、「貢ぐ」行為等々。他者のために自分のリソースを割き、尽くす行為であるという点で、これも自己犠牲の一種である。これらは①自己の無価値感からくる償い②愛情由来の奉仕 以外にも、体面を気にして行われることがある。このタイプの動機は「周囲から良く思われたい」という一言に尽きる。
彼にとって他者への奉仕とはそれによって世間からの評価を得るため(=利益獲得)、あるいは世間から悪く言われないため(=現状維持)に必要な行為である。外部に要因があるため、誰にも見られないのであれば過剰な自己犠牲はしないし、逆に評価を得る好機だと感じれば限界まで努力する。利益獲得傾向の特性は承認欲求に端を発しているため、全員が被っているわけではないが無価値由来タイプ自罰型との親和性も高い。

特に「自分が他者に悪く言われないため」という動機は非常に大きく、この恐怖を感じている限り、労力や金銭が限界になってもコミュニティから追放されないためには自己犠牲を継続するしかない。社会からの視線というものが人間にとってどれだけ影響力を持つものであるかは、ときにこの均衡が崩れたせいで死を選ぶ人がいることからも分かるだろう。皮肉なようだが、これは彼が社会や他者から自分を守るために自分をすり減らした結果の一つである。

3-b.自己満足型
このタイプの人間は他者への思いやり以上に強く「自分が満足を得たい」と考えている。彼らがその利己的思考にもかかわらず自己犠牲を行うことにはさまざまな理由が考えられるが、ここではいくつかの例を述べておこう。「苦痛に耐えることで自分の愛の深さを確認したいから」「これほど偉大なことをした、これほどの愛を与えてやった自分はすごいと感じるため」「優しい人になれたような気がするから」「相手より優位に立っている感じがして気分が良いから」……他者への奉仕を行うとき彼らが動機としているのは、良心そのものではなく「奉仕ができる自分」への自己愛である。歪んでいるようにも見えるが、善行を価値あるものと見なしている点で言えばぎりぎり倫理側に属している。
彼らの関心はそれが自分の満足に繋がるか否かであり、自己犠牲の程度もそれによって得られる満足と労苦の釣り合いが取れるかを考慮したうえで決定される。

自己満足型の動機でもう一つメジャーなものは、「見返りが欲しいから」。他者に尽くした分だけ愛してもらえるかもしれない、あるいは金銭的な報酬がもらえるかもしれない、この期待だけでも人は奉仕に身を投じることができる。見返りが得られなかった場合の不満は、しばしばより一層大きな犠牲を払うことで贖おうとされる。対価を求めるがゆえの献身であるにもかかわらず、純粋な善意だと思いたい心理から、自分ではそれを自覚していないケースも多い。正当(と思われる)報酬が得られなければ、見返りをくれなかった相手を恨むか、傲慢な自分に気付いて絶望するかといった事態に陥りやすい。




以上、3タイプ合計6パターンの動機分類でした。みんなやみんなの好きな人はどこに属しているか考えてみよう。気が狂ってくると思います!
なぜなら自己犠牲とは手放しで善行だと賞賛されていいものではなく、無私の献身に見える行為が実はどろどろとした絶望や欲望から生まれているものだったということも、当然あり得るからです。近年は美しい他者のために財産や人生を極限まで投げ出して貢献しよう、という言説(資本主義に吞み込まれた推し活のことをそう呼称しています)が流行っているようですが、それには自分自身を見失う危険性がともなうということも同時に言っていかなければならないと思う。2-a.良心優位タイプ愛情型以外に動機を据えた自己犠牲的貢献は、地獄を見ることも多いのではないかと思います。二次元上なら純粋な良心由来だろうが、エゴが介入していようが、それはそれとしてキャラクターの魅力の一つであるし、我々は結果を観測する以外にないのですが。

まどマギを見ておかしくなってからざっと1日で書き上げたので及ばぬ点も多々あると思いますが、ほかにもこういうタイプもあるんじゃないの、というご意見がありましたらみなさんお好きに語っていただければと思います。最後までお付き合いいただきありがとうございました。


 


とても頑張って生きているので、誰か愛してくれませんか?