見出し画像

【考察】よく見たら藤井風の歌詞は宗教思想へと着地する叙述トリックだった


突飛なことを言っていると思われる方もいるでしょうか。

藤井風と言えば今や国内に留まらず海外でも人気のトップアーティスト。紅白では「死ぬのがいいわ」で驚愕のパフォーマンスを披露した姿が記憶に残っている人も多いだろう。

しかしその活躍の一方で、ネット上では炎上騒ぎが起こっている。批判の内容は「藤井風は新興宗教信者であり、その思想を歌詞にすることで布教活動を行っている。そのため紅白のような場所にはふさわしくない」というものだ。
折しも某教会が世間を賑わせた2022年である。こうした意見の是非はさておき、「宗教的なもの」に対して即座に批判が向けられるのは今の情勢を鑑みれば自然な流れなのかもしれない。

調べてみると、以前からこの件を問題視する声はあったようだ。藤井風が「サイババ」の信者であるという話は昔からファンの間では有名な話だったらしい。「サティヤ・サイ・ババ」とはインドで活動する霊的指導者(スピリチュアルリーダー)の名である。藤井風は幼少期から両親の信仰を受け継ぐ宗教二世だという。批判と経緯に関しては別の記事の方が詳しいので、ソースを知りたい方はそちらを参照されたい。


正直なところ、私はこれまで藤井風の曲を聴いて「宗教の曲だ」と感じたことはなかった。どこがそう思われているのか? また思想の反映があるとしたらそれは本人の意図的なものなのか? この記事はそうした疑問のもと改めてMVや歌詞を見て、それについて考察したものである。

まずは彼の曲で恐らく最も宗教色の強いものを見ていこう。


1.grace



彼は自身の曲について語る際、頻繁に「ハイヤーセルフ」という語を用いる。ハイヤーセルフとは「高次元の自分」を意味し、日本では主にスピリチュアル界隈で使われている言葉である。イメージとしては「真理を知っている自分」、すなわち守護霊や内なる神などに近い第三者的目線を持つ霊的存在だ。世界的にはスピリチュアル界隈に固有の概念ではなく、各宗教でもこの言葉が教えを説く中で使われることがある。

そして藤井風のgrace(恩寵)という曲は、「ハイヤーセルフとの出会い」そして「宗教的意識変革」を明確に描いたものである。

助けて神様 私の中にいるなら 二度とこの場所を離れないで
だけど去るのはいつも私だった

歌詞は「私」が精神的に暗闇にいた時期の回想から始まる。「神の沈黙」はいずれの宗教においても普遍的なテーマであるが、信仰者にとってその多くは「神が黙していたのではなく、私が聞こうとしていなかったのだ」という論理で納得される。

あたしに会えてよかった やっと自由になった 涙も輝き始めた
明日になればさよなら ああ儚い世界だ
何があろうとも すべてあなたのgrace

暗闇にいた「私」は、「あたし」に会ったことで自由になり、神の恩寵のもとですべてを愛するようになる。この曲のミュージックビデオはインドで収録されたものであり、こちらもストーリー性を持ったものになっている。
MVには複数箇所にシヴァ大神のモチーフが登場する。終盤、藤井風はシヴァ大神の像と向き合い、その像の手に自分の手を合わせる。すると精神世界のような風景が広がった場所で「もうひとりの自分」に出会う、という表象が為される。

すなわち、これは「神と向き合うことでハイヤーセルフを発見し救済された人が、その喜びを表現した歌」なのである。

なお、この曲では「私(わたし)」と「あたし」が意図的に使い分けられている。前者は現実に生きる自分自身、後者はハイヤーセルフの自分を表していると考えられる。

ではサイババとの関連はどうだろう。サイババは自身をシヴァとシャクティーの化身と名乗っており、彼の思想はインド神話/ヒンドゥー教の流れを汲んだものである。藤井風がMVの制作においてこのことを念頭に置いていたことはほぼ間違いないだろう。MVでは視覚的表象を用いており、これを見れば説明なしでも宗教色のある曲だということは理解できる。しかし彼のバックボーンを知らないまま、曲だけを聞いてハイヤーセルフとの出会いの歌だと理解することは難しいのではないだろうか。




2.何なんw



ここからが本題である。すでにこの曲を聞いたことがある人も、今一度歌詞を見直してほしい。
一見では「ワシ」が「あんた」への複雑な感情を少し自嘲的に茶化しながら歌った恋愛ソング、あるいは友人への歌にしか見えないはずだ。実際、若者の間で流行したときにもそういった歌詞として受容されていたのではないだろうか?

しかし藤井風はこれをハイヤーセルフについて歌ったものだと明言している。彼は自身のYouTubeチャンネルのVlogにていくつかの曲について思いを語っている。

「この曲は誰しもの中に存在しているハイヤーセルフを探そうとする歌です」「この曲の中で人生において正しい道に進むよう、彼はわしに説教したり嘆願したりします」「それが曲の核となるメッセージなんですけど」

カッコ間中略


これは恋人に向けたものでも友人に向けたものでもない。「ハイヤーセルフが現実を生きる自分に向ける感情」を綴ったものだというのだ。
ここでも先程のgraceと共通する価値観が見て取れる。「聞かないフリ続けるあんた」「何で何も聞いてくれんかったん」という言葉は、そこにいるにも関わらず無視され続けたハイヤーセルフからの嘆きの声として書かれているのだろう。藤井風の世界観では、神とハイヤーセルフは同義的とまではいかずとも限りなく近しいものとして捉えられている。
「神が黙していたのではなく、私が聞こうとしていなかったのだ」という論理へと繋がるもの、すなわち神(=救済)は信仰を始める前から自分の中にあるものだ、という思想がこの歌詞の中にも表れている。

答えを聞いて もう歌わせないで 裏切りのブルース

「何なんw」でのハイヤーセルフは、現実の自分から無視され続けたこの悲しみの歌を「裏切りのブルース」と形容する。「ハイヤーセルフの声を無視することは彼への、翻っては自己自身への裏切りである」。これはそうした思いに基づいた形容だろう。


この文脈を知った上で改めて歌詞を見ると、今まで恋愛ソングだと思っていたのが不思議なほどにすべての歌詞について辻褄が合う。音楽を聴いていてこれほど180度解釈を変えられる体験をしたのは初めてと言ってもいい。



3.死ぬのがいいわ



こちらが紅白で賛否を呼んだ「死ぬのがいいわ」。個人的には紅白で尖った曲やパフォーマンスを流すこと自体はまったく構わないと思っているし、リアルタイムで見た時は「こんなドロドロに爛れた恋愛の曲をやるなんてすごいなあ」と思った。
しかしこれも藤井風にとっては恋愛ソングのつもりではなかったらしい。

三度の飯よりあんたがいいのよ あんたとこのままおサラバするよか 死ぬのがいいわ 死ぬのがいいわ

「わたしの最後はあんたがいい」という言葉を見るに、死ぬべきだと言っている対象は自分自身だろう。「あんた」と離れるくらいなら死んだほうがいい。この熱烈で歪んだ感情の歌についても、藤井風はハイヤーセルフの話だと語っているそうだ(「NHK MUSIC SPECIAL 藤井風いざ世界へ」インタビュー映像によるもの。筆者が本放送を見視聴のため出典はTwitterの複数証言から)。

「あんた」がハイヤーセルフなのだとすると、「ハイヤーセルフを見失うくらいなら死んだほうがいい」という意味の歌になるはずだ。
NHKがインタビューで彼の解釈を取り上げたくらいだから、恐らく紅白でもこの解釈の上で問題はないと判断されたはずだと思いたい。とはいえ、藤井風がサイババの信仰者だとしても「ハイヤーセルフ」という語自体はそこに固有のものではなく、また一見しただけでは気付けないことからも、この歌詞が特定宗教の宣伝だとは言い難いかもしれない。しかし宗教性を孕むメッセージに「一見しただけでは気付けない」こと自体が、是非はともかく異様ではあると感じた。



4.旅路



最後にこちらの「旅路」は、個人的に唯一以前から信仰の要素がある歌だと感じていたものである。この曲には上記の3つと違ってハイヤーセルフ思想は登場しない。それでいて信仰者の精神性を感じさせるのは以下の部分である。

これからまた色んな愛を受け取って あなたに返すだろう 永遠なる光の中 全てを愛すだろう


受け取った愛を「あなた」に返す、という考え方。これも特定宗教に固有のものではなく多くの宗教に共通する「感謝と恩返し」の原理である。すべてのものは頂き物(恩寵)であり、信徒の奉仕行動はそれを返すための行為だとする思想。「永遠なる光」という語が具体的に何の比喩であるのかは分かりかねるが、今まで解釈を見ているとこれにも意味がありそうだ。

なお、「愛」はサイババが最も大切にしている教えであり、藤井風が愛を強調するのはこれが理由だとする見方もある。しかしながら愛を重視する思想自体は宗教者でなくとも持ちうるものであり、「どこからが特定宗教の思想で、どこからが個人の哲学か」を判別することはほとんど不可能だということに注意しなければならない。

幼少期からその宗教を信じていたためにそれが価値観の基盤となっている人。自分の人生経験から体得した考え方が偶然既存の宗教の教義と近接した人。自分の哲学に近い宗教を見つけて思想を同化させていった人。まったく未知なるものに出会って全ての価値観を覆した人。脅迫に近い勧誘を受けて信じるようになった人。

ひと口に信仰者と言っても思考回路における「自己の哲学:宗教思想」のバランスは様々であり、部外者からの理解は容易ではない。同様に、スピリチュアルや信仰の要素を含む創作物を世に公開することに関しても、それが「自己表現の一環」なのか「特定宗教の布教活動」なのか、あるいはその両方を兼ねているのかの判断、そしてこれを批判するとすることには慎重な姿勢を持って臨むべきだろう。


そうした観点から、当記事では彼の活動の是非については意見を述べることはしない。ただ「今まで恋愛ソングだと思って聞いていたものが実はハイヤーセルフの歌だった」ということに衝撃を受けすぎて、このことを知ってからわずか数時間の即席知識で書き上げたものがこれというだけだ。聴き手の「わたしとあなたが出てきて、愛のことを歌っていたら恋愛ソングだろう」という思い込みを利用した叙述トリックのようでとにかく衝撃を受けた。
この「一見しただけでは分からなさ」が藤井風の意図するところなのか、それともハイヤーセルフを比喩的に描いた結果そう見えているだけなのかは分からない。

中立的な見解を述べるということが非常に難しく、各所への配慮が欠けていたら申し訳ない。個人的解釈も含まれているので鵜呑みにせず、気になる部分があった方はご自身で詳しいことをお調べいただくことをお勧めする。






とても頑張って生きているので、誰か愛してくれませんか?