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ある証明 ②



自宅近所にあるブランコと砂場しかない公園で早朝、私はガムを踏んでみることにした。

公園には、煙草を吸うためだけに生きている様な老人が中空を見ながら立っていた。一瞬眼が合ったので一応、おはようございます、と言うと、ゆっくりとこちらに首を振り、瞬きもせず4秒ほど私の顔を眺め、またゆっくりと首を元の方向に戻し煙を吐き出した。私は、とてもゆっくりと正しい作法で無視された。

あの老人にとって午前5時50分は「はや」くないのかな、と思った。だから、お「はよう」ございます、は適切ではなかった、のか。しかし私は「はや」くない朝に誰かに会った時の適切な挨拶を知らなかった。いい天気ですね、かとも思ったが、今朝は空が東京湾よりも暗い色に覆われていたし、あの老人にとってそれが「いい」天気かどうなのかも分かりかねた。

私はその老人のことを考えるのを止め、ガムに集中することにした。ボトル入りのミント味のガムである。封を解き、一つ口に入れる。ミントだ。しかし踏むにあたって、味はあまり問われないことを思い出し、私はもう一つボトルからガムを摘み取り、公園内の地面に置いた。置いたガムから二歩ほど離れ、私は自分が少し緊張していることに気が付いた。

初めて、ガムを踏むのだ。

なるべく意図的にならないように地面を見ないことに決めた。多分踏めば足の裏の感触で分かるだろう。さらに、このまま真っ直ぐ歩いたら間違いなく踏めてしまうのは目に見えているから、ガム周辺を、適当に8の字に歩こうと決めた。地面を見ず8の字に歩く、これで、地面を見て真っ直ぐ歩く、よりははるかに意図的ではない、だろう。

私は30歩、ガム周辺をそのように歩いた。

足の裏に感触はなかったが一度歩くのを止めた。地面に置いたガムを見ると、置いた時のまま表面のコーティングも割れていなかった。多分踏めなかったのだ。


私は再び30歩、ガム周辺を歩いた。

22歩目に、何か足の裏に微かに感触があった気がしたが、一応30歩まで歩いた。高鳴る胸を押さえ、置いたガムを見ると、地面にめり込んでいた。コーティングは割れていない。

私は迷った。これが所謂ガムを踏んだという経験なのか、と。あまりの手ごたえのなさに何の感想も持つことが出来ずにいた。もう一度やろうかとも考えたが、再び地面にめり込んで終わる可能性が極めて高かった。それだけは避けたかった。次の瞬間私は、千枚通しで頭部を突かれるがごとく閃いた。アスファルトに置けばいいのだ。そうすれば踏んだ感触を地面に奪われることはない。

私は公園から出て、道路の上にガムを置き、二歩ほど離れた。さっきとは比べものにならないくらいの心拍数であった。そして、私は8の字に歩き始めた。

18歩目に、確かな感触と小さな音がした。

その感触に間違いはなかった。私は興奮のあまり噛んでいたガムを呑み込み、残りの12歩もないがしろにした。さっさと30歩歩き終え、置いておいたガムを見ると、コーティングが割れ、中身の白色が覗けた。生まれて初めて自然とガッツポーズをした。おぉ、これだ。よし。私は、ガムを、踏んだんだぞ。誰彼構わずそう言ってやりたかった。私は、先程午前6時04分、公園の脇の道路で、ボトル入りのミント味ガムを、右足で、踏んだんだぞ。君は最近いつ踏んだ?

そうだ、と思い煙草を吸うためだけに生きている様な老人のいる方を見ると、彼は既にいなかった。まぁ、煙草を吸うためだけに生きている様なのであって、ガムを踏んだ感想を言われるために生きている様ではないのは確かなのだが。


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