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彼は私を妻と呼ぶ。

夫に「妻」と呼ばれている。
会社の人や知人と話しているときに対外的に「うちの妻が……」と言うのではなくて、私と話しているときに「妻の今日の予定は?」と呼び掛けてくる。

先日、ソファーに座って二人で話していたときも、

「最近、指輪がまた抜けやすくて」

と薬指から外してみせる私に、

「指、痩せたねえ。妻、ちゃんと食べさせてもらってるの?」

と呼び掛けた。

「食べさせて貰ってるよ。今日も魚食べた」

「ちゃんとアーンてして食べさせてもらってる?アーンてして」

「……食べさせて貰ってないな」

頓知みたいな事を言うなぁと少し感じ入りながら、私は眉間に皺を寄せて言葉を返した。

知り合ってから随分経つけれど、未だに面白い人だなと思う。例えば夫はよく踊る。昔は全然そんな人ではなかったのだけれど、今は日々踊る。
ある雨の日、自転車で出掛けると言いながら、ドアを開けて外の様子を窺っていたかと思うと、私のほうを向いて、

「いえーい、雨、雨ー」

と、両手足をリズミカルに交互に動かしていた。

「バスにしなよ。結構降ってますよ」

と私が言うと、

「嫌よ。自由でいたいの。バスには色んなところに運んでもらってるから感謝してるけど、一度乗ると横道に入れないのよ」

と主張を述べて、雨も嫌だなぁ、レインコートも嫌だなぁと渋りながら、

「レインコートを着ていかないと、なんで着ていかないのかしらって妻に思われるから着ていく」

と、観念したように鞄から取り出して、袖を通していた。


夫は台所で立ち話をしていると、徐ろに私の手を取って踊り出すことがある。体をゆったりと左右に揺らしながら、時にくるくると回りながら、彼のほうから踊り始めるのに、

「妻は踊るのが好きだなあ」

そう言って笑う。

「別に好きではない」

揺らされながら私が淡々と答えると、わざとらしく驚いてみせた。

「えっ!嫌いなの?」

「別にどちらでもというか。どっちという気持ちもない」

「嫌わないで!踊りのことも好きになってあげて」

やけに肩を持つ言い方をするので、

「……夫は踊るのが好きだねえ」

と、改めて声を掛けると、

「踊りのことが好きだった事なんてない」

なんて、ツンデレみたいな反応を返したりする。


私は夫の振る舞いや言い回しが一々面白いのだけれど、彼もまた私のことを面白がっているらしい。
例えばある朝、私は右手に焼いた食パンを載せた皿を、左手に紅茶が入ったカップを持ってテーブルについた。すると斜向かいに座っていた夫が、

「今のポーズ、写真に撮ればよかった!」

と残念そうに言った。

「え、なに?」

「お皿を持った腕をもう片方の腕と交差させながら、座って紅茶を飲むポーズなんて、ジョジョでしか見たことない」

「えぇ……?なら、撮りますか、もう一回やりますよ」

立ち上がってもう一度座り直してみせると、嬉しそうにスマートフォンを構えてシャッターを切った。どこが笑いのポイントだったのかよくわからないけれど、楽しいのなら、まぁ、それでいいかと思う。


私達は時々、生活や世相のことなどを軽く話題に上げる。そうして、真面目に話していても、どこか横道に逸れる。以前、確定申告の書類について話していたときも、彼は唐突に、

「優しい宇宙人がやってきて、地球人を一つにしてくれたらいいのに」

と半笑いで言った。

「会計好きな宇宙人がやってきて、厳格な会計で支配してくれないかな。自分たちのやり方の会計方式を浸透させることが支配だと思っている宇宙人」

またなにか変わったことを言い始めたなと思いつつ、私は無言で頷いた。夫はなるべく平和的な統治を望んでいるらしい。

「代わりにやってくれるけど、今までの地球のルールでは経費で問題なく計上出来ていた分も、これは厳密には経費で落ちないって、宇宙人のやり方を押し付けられて、納税額が今までよりも少し上がる人が出てくる」

「そこは従うんだ」

「会計レジスタンスになっちゃうし」

会計レジスタンス。なんて新しい。

そんな風に思いも寄らないことを、日々、口にする。


結婚して何年も経ってから「妻」と呼ばれるようになって、私も次第に彼を「夫」と呼ぶようになった。ちょっとずつ変わっていきながら、今日も暮らす。

私がソファーにころりと転がると、夫は私の髪を、毛繕いするように触った。

「白髪があるねえ。一本、二本。これを少しずつ増やして、将来、白髪の人になるのね」

「そう。だから抜かなくていいからね」

私は寝転がったまま答えた。

真っ白になると綺麗だけれど、黒髪と混ざってグレーになるのも悪くない。それも自然任せだ。やがて共白髪になって、妻や夫と呼びながら共にいられる未来があるなら、それもまた、楽しいだろうと思う。

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