昼間の見慣れた家並みが、目を細めるほど眩しくなる約5時間。

 午前中に眼底検査をした。

 目には特に問題ないのだけれど、年に一回ほど診て頂いている。
 まず角膜を開くための目薬を一滴ずつ、右と左の眼に入れる。
「開き切るまで30分ほどかかりますから、前でお待ちください」
 看護士にそう促されて診察室を出た。
 10分ほど経って両手の平に視線を落とすと、輪郭が少し緩んでいた。診察室のドアの上に設置された電光掲示板を仰ぐと、白文字の時計表示が透明度の高い白の薄絹を纏っているみたいに滲じんでいる。
 裸眼でスマートフォンを眺めると、手許から30センチほど離してようやく文字が認識できた。こんな感じで、朝、起き抜けの寝ぼけ眼の視界に似たぼやけ方をする。
 待合室の壁に貼られたポスターの文字が、水を零してふやけたみたいに読み取れなくなる頃には、突き当たりの窓から差し込む自然光がやたら眩しく感じた。眼の奥に取り込める光の量が二倍増しになったみたいだ。
 そうして辺りを見渡しているうちに、再び診察室へ呼ばれた。医師は左右の眼にペンライトを翳しながら、眸の奥を一通り覗き込むと、

「破れたりはしていないから」

 前回と同じく、的確かつストレートな表現で、異常なしですと告げた。この先も破れることは多分ないと思うけれど、思い浮かぶビジュアルがちょっと怖い。目をこすったりしないで大事にしようという気持ちが湧く。

 会計を終えて病院の外に出ると、自分が着ている白いシャツの右肩に挿す日差しが、ハレーションを起こしたみたいに真っ白に見えた。つい目を細めた。まるで真夏の太陽が、アスファルトに描かれた横断歩道の白い帯をくっきりと浮かび上がらせるようなコントラストの高さだ。
 普段から光をまぶしく感じる方なのだけれど、目を開けているのが難しいくらい、景色が光って見える。家々の瓦屋根が跳ね返す光も、駐輪場に停まっているバイクのカウルの照り返しも、空にゆったりと浮かぶ雲も、思わず目を逸らしてしまうほど白い。
 この光が膨らむ感じは、例えば夏の夜、手持ち花火で遊んだ暗い帰り道で、LEDライトの懐中電灯をふざけて顔に向けられた時の痛むような眩しさに似ている。あとは、小学生の時の理科の実験で、家から各自持ってきた手鏡に太陽の光を反射させて、幾つもの光を壁の一カ所に集めた時のような、輪郭のにじんだ眩しさを彷彿とさせる。
 景色は見難いれど、眼鏡を掛けるとスマートフォントの文字は多少読めた。眼鏡の偉大さを改めて感じる。ここ2年あまりで手元が急速にぼやけてきたので、パソコン作業用とスマートフォントを見る用に2つ持っている。勤め人だった頃は、視力が1.5から2.0ほどあった。『遠視だから遠くがよく見えるのだなあ』と思っていたのだけれど、当時通っていた眼科の医師に、

「遠視は近くを見るのにも遠くを見るのにも、ピントを一生懸命合わせている目です。どちらを見るのも得意ではないんですよ」

と教えて貰った時。漸く、確かに景色を見る時も、パソコンの画面を見る時も、目を凝らしたり目を細めたりして、よく見ようとしていた事に気が付いた。
 あの頃の私の視界は、真夏の青空に浮かぶ白い雲の輪郭さえ、くっきりと鮮やかに捉えていたように思う。でも、今の視界も別に嫌いじゃない。年を重ねて行く毎に、使い込まれて古びていくのは、年輪を重ねているという事でもある。例えば、腰を曲げて歩く人のその背中には、刻まれた時間と記憶がある。杖を突いて歩く人の緩やかな足取りのその後ろには、ここまで歩いてきた、長くて確固たる数多の道のりがある。溌剌と私の脇を駆け抜けて行く子供たちの視線の先にある、幾つもの道筋。老いも若きもよらず、どの道も未来へと続いている。

 夕方になれば薬の効果も消えて、視界が元に戻る。それまで眩い世界に、束の間、触れていようと思う。


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