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思考の形はそれぞれに。

例えば夢を見ている時。あなたの夢は、カラーですか?それともモノクロですか?

8割がカラー、2割はモノクロの夢を見ると言われています。それはカラーテレビの普及によるものと言われたり、その人が色彩に対して興味があるか否かに左右されているとも言われています。夢に関してはまだ未知の領域が多く、断定して論じるのが難しい側面も多いようです。
その中で示されることの一つとして、明晰夢があります。これが夢だと自覚できること、知覚、聴覚、触覚などが現実にかなり近いこと、それは、人が毎日見る夢全てに当てはまるそうです。人は皆、明晰夢を見ている。けれど、大半が起きて15分ほどで記憶から消えてしまう。だから、明晰夢だという自覚が持てない。そういう見解もあるのだとか。

私の夢にはいつも色がついています。それから、出てくる人と会話をします。

けれど、聴覚で声を聞いてる感じとは少し違います。小説を読んでいる時に頭の中で登場人物の会話を読み上げているときと同じ形式で会話をしています。なので、基本的には音がしません。延々と続く長いエスカレーターに乗っているときも、ゴウンゴウンとは鳴りませんし、駅のホームに居るときも電車の入ってくる轟音はありません。電車のシートに座って車窓を眺めているときも、ガタンゴトンという音を聞いたことがありません。あなたの夢にはどんな音が聞こえますか?

夢の見え方や聞こえ方に個人差があるように、人の思考パターンにもいくつかの形式があるのだそうです。

大雑把には、視覚で捉える人、文字で捉える人、聴覚で捉える人に分けられます。

私が過去の記憶を思い起こす時は、一枚の写真にメインとなるシーンを閉じ込めた形になるか、数秒の短い動画として保持、再生されます。例えば遠いある日の、親しい先輩を亡くした日の夜を思い起こせば、真夜中に誰もいない歩道を歩き、横断歩道と信号機を横切りながら、一人きり、涙をこぼし続けて泣いていた自分の姿が、今も一枚の写真に焼き付けたように思い起こされるのです。冬の星座が頭上に輝き、夜空を仰いで泣いている。私の視点ではなく、第三者の視点に切り替えられたカットが、刹那を捉えた映像として想起されます。

記憶は常に数秒の動画か、一枚の画像の形で保持されます。そこに感情が紐づかないときもあれば、驚いたとか悲しかったなどの、説明文が添えられます。
記憶の定着は、アルバムをめくるように主に画像です。その出来事が起きたときに発せられたであろう声や感情は、解像度が低いです。

不快を感じた時、向き合って話している相手の印象が残った時、それは大抵、瞳に内蔵されたカメラのシャッターが下りるように、その瞬間を切り取った写真を一枚メモリーする形で心にストックされます。

私は視覚的に記憶するものの断片的なため、初めて来た場所などは大抵道に迷います。「この道は一度通って知っている」という感覚は所々にあるものの,、動画のような連続性はないので迷うのです。

では、記憶を映像的にストックしていて、音が記憶に残っていないとして、普段思考している時は。どういうパターンになっているのかというと、基本的に、頭の中の色は黒です。映像もほぼありません。風が吹くのを感知したり、足元に広がる波打ち際を感知することはできますが、絵的にはせいぜい影絵のようにのっぺりしているのです。

けれど、四年ほど前の私は、自分の心の中を「黄色っぽい乾いた砂が一面に広がっていて、枯れた木々がある」と感じていました。かつて見えていた色が、今の私には見えません。思考する時は、ただ映像は黒く、そこに私の独り言の声が垂れ流されます。ときに自問自答するように自分と自分で掛け合いながら展開されていきますが、声は川の流れのようにとどまることを知らず、次々に流れ去り、黒の彼方へ溶けて消え、私はその声の大半を、未だに言葉として文字として書き留められずにいます。

私の思考はかつてビジュアルを持っていましたが、現時点ではなんの色も形もありません。真っ黒で、サウンドオンリーです。せめて声が文字や絵や図形、あるいはフローに変換され、可視化された状態で思考の海を漂ってくれれば、手を伸ばして捕まえられて、拾い上げて解読して、テキストに出力することもできるだろうにと、よく思います。

私は耳から聞く情報があまり理解できない子供でした。しかし、本の文字を目でなぞり、音読し、大勢で抑揚をつけてよく読み合わせることで、文節ごとの言葉が音とともに頭に残り、意味を読み解けるようになります。耳に残った音の抑揚を繰り返し思い起こして反芻することで、記憶を定着させていました。
定着した記憶は画像に落とし込まれます。皆で教室で教科書を読み合わせているシーン、先生が生徒たちを次々に指名して同じ単語を繰り返し発言させるシーン、職員室で古文の先生の前で平家物語を暗唱しているシーン。そういうワンシーンの連続が、知識の蓄積と連動しているのです。

記憶は絵で語られますが、私の思考は声で語られます。

聞いたことを覚えておくのが苦手な私としては、声が頭に浮かんだそばから、置いていかれないように並走して、文章にしていくしかないのです。さっき頭の中で話していたことを脳に記憶して、あとから思い出して文字にする、という手順が、現時点では使いこなせないのです。

できれば頭の中で思考を映像化するか図式化するかしたいのだけれど、ここだけが何故か今、聴覚のみに頼っています。苦手な分野なのになぁとしみじみ思いながら、今この瞬間も、声が浮かぶ毎に文字に起こしています。思考の声は発せられた端から次の文脈がやってきて、一つ前の話が右から左へ通り過ぎていく。テープレコーダーのように録音再生できればいいのに。推敲を挟む余地がない。

雨が降り始める前の匂いの記憶。深夜に聞くサイレンの音。壁に触れた時のひんやりとした手触り。向き合った人の真っ直ぐなひとみ。涙に寄り添ってくれた音楽。迷いを語り出す時の言葉の抑揚。

五感から様々な過去が蘇る。

それをあなたが辿るとき、一番得意なのは、どの感覚なのだろう。


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