見出し画像

鍵はいつでも開いている。

「妻のパソコンは無駄にセキュリティが高い」

と夫に言われる。

セキュリティソフトの機能が高すぎるということではなくて、起動するまでにひと手間かかるのだ。

私の使っているパソコンは、電源を入れたあと何もせずに行く末を見守っていると、画面が真っ黒なまま固まってしまう。
通常、パソコンとは、電源がオフの状態から電源ボタンを押してそのまま数秒待っていれば、自動的にOSが起動する。もしくは、複数のOSをインストールしている場合は選択画面に切り替わる。けれど、私のマシンはそのどちらでもない。

というのも、Windowsがインストールされているマシンに、もう一つ、ubuntuというOSを追加でインストールして、どちらでも好きな方を切り替えて使えるようにしよう、と挑戦したのだけれど、敢なく頓挫した。結果、ちょっとした不具合が生じて、電源を入れた直後にファンクションキーを連打しないとWindowsが起動しなくなってしまった。

計らずも、本来なら不要なひと手間が加わっている。

夫いわく、

「パソコンが盗まれても盗んだ人は起動できないよ。電源入れて待ってたら起ち上がると思うじゃない。放っといたら画面が固まって処理が先に進まないなんて、手詰まりでしょう。ミステリー小説のトリックになるよ。セキュリティが無駄に高い」

という状態になっている。

そんなこんなで、毎回、起動の度にファンクションキーを隠しコマンドのように連打している。少々手間の掛かるところが、このパソコンのかわいさと言えなくもないと思いつつ、面倒くささを濁してみる。

ただ、そこさえ越えれば、残るはパスワードだけなので、セキュリティは高くない。むしろ我が家の中に限って言うなら、ドアに掛けられた錠前に鍵が刺さったままになっているのに等しい。
夫も私も、お互いのパソコンのパスワードの在処を知っている。その気になればいつでも中身を見ることができる。娘の目の前で入力してみせた事も何度かあるので、多分彼女は私のパスワードを覚えているし、私は娘のタブレットのロックを教えてもらっているので解除できる。スマートフォンも同様に夫と私で情報を共有しているので、いざという時、お互いにSNSもメールもメッセージもすべて見られる。

我々はそれを踏まえて、ソファーの上にスマートフォンを置きっぱなしにして、その場を離れる。基本的にお互いのプライベートを承諾なしに見る予定も見られる予定もないのだ。

パスワードの情報を共有している理由は、単純だ。人生、何が起こるかわからない。不慮の事故に巻き込まれることも、災害に遭うこともある。場合によっては身動きが取れなくなった人に代わって、情報を引き出すためにパソコンやスマートフォンを開かなければならない。前々から薄っすらそんな事を考えていたところに、数年前、ちょっとした出来事が起きた。

身近な人がスマートフォンを一人暮らしの部屋に置き去りにしたまま、忽然と姿を消した。何度メールしても電話を掛けても繋がらないので、大家さんに問い合わせて部屋の鍵を開けてもらったが、もぬけの殻だった。生ゴミも捨てられていて、冷蔵庫もほぼ空で、あるのはケチャップだかマヨネーズくらいだった。部屋中が妙に片付いていてうすら寒かった。連絡手段もなく、ネットの検索履歴といった、行き先の手がかりになり得そうなものは、スマートフォンがロックされていて見られなかった。
それで取り敢えず携帯電話会社に問い合わせたものの、何度尋ねても、ロックは解除できないの一点張りで、非常に右往左往した。

不測の事態はいつ起こるかわからない。例えば私か夫のどちらかが事故に遭って怪我を負い、本人がすぐに周囲へ連絡できない状態になった場合、代わりに会社や友人知人へ連絡しておきたかったり、月々のカードの引き落としがある場合はネットの明細を確認したかったりするだろう。

そういったわけで、夫は私のパソコンとスマートフォンのパスワードの在処を知っているし、私も夫のパソコンとスマートフォンのロックを造作なく開けられる。

例えば、疑心暗鬼が生まれる瞬間に鍵を開けたくなるだろうか、と想像する時がある。

夫はSNSで知り合った人と以前、食事に出掛けた。私がその人について夫から聞いた情報は、おじさんである事くらいだ。ただ、私はその人がおばさんであっても若いお姉さんであっても、別に構わない。夫がその人を友達と言うのなら、それでいい。

一昨年くらいに娘がテレビを見ていて、

「お母さんはお父さんが友達の女の人から高価な贈り物をもらったり、高価な贈り物をあげたらどうする?」

と私に訊いた事がある。

テレビの中では、仕掛け人の奥さんと引っ掛けられる旦那さんとが部屋でテーブル越しに会話をしている。奥さんは「男友達にプレゼントを貰ったの」と報告していて、旦那さんは「そんなの返してきなさい」とムスッとしている。異性の友達とのやり取りを、どこまで許せて、どこからヤキモチを焼くのかという検証番組だった。

「別に気にしないなぁ。友達なんだから」

と、私は答えた。

夫には日々大事にしてもらっているので、プライベートを私が云々言う理由が特にない。また、SNSのアカウント名も知っているけれど、プライベートな空間なので、夫が「これ。面白い」とタイムラインを見せてくれる時以外は見に行かない。
夫は私と付き合い始めた時、「付き合ったことであなたの交友関係が狭くなってしまっていないか心配」と、言って、私を自由に泳がせてくれていた。友達と遊びに行くとき、同性であっても異性であっても、誰とどこへ出掛けるのかを伝えると、いつも「楽しんでおいで」と快く送り出してくれた。

お互いに、なるべく自由なのがいい。

信頼なんて一方的なものだけれど、夫と娘だからこそ、鍵を預けても大丈夫だと思う。鍵はいつでも開けられるまま、今日も無造作に、スマートフォンがソファーの上に置かれている。


お読みくださり、ありがとうございます。 スキ、フォロー、励みになります。頂いたお気持ちを進む力に変えて、創作活動に取り組んで参ります。サポートも大切に遣わさせて頂きます。