最近本を読んでいる
本を浴びるように読む人というのは興味深いもので、
「小説を10冊買っても面白いのはせいぜい4冊くらいで、あとはつまらない」
などと文句を言いつつ、本屋へ足しげく通う。
「例えばどれがよかった?」
と尋ねると、
「この本は面白い。あとこれも。これは血と肉の描写がグロテスク」
そう言いながら、迷いなく背表紙を指差していく。本屋の本棚なのにまるで自宅の本棚からお薦めの本を選ぶみたいに慣れた手つきだ。書籍の配置を把握できるくらい頻繁に、足を運んでいるのだろう。
また、いつだったか、出先で本屋に寄るとつい本を購入してしまうという友人が、読む本の総量が減ったことを「最近、つまらない本を読まなくなった」と表現したことがあった。
きっとどちらも、蔵書が部屋の本棚に入り切らずに床に積まれるくらいの物量で、本を読むタイプなのだろう。
思えば学生の頃は、兄の部屋の本棚にズラッと並んだ本や、友達から「これ面白いよ」と紙袋いっぱいに詰められたお薦めの小説を貸してもらうことが多かった。そのせいか、ガッカリする程つまらない作品と出会うことがあまりなかった。
なのだけれど、先月読んだ本は、久々に消化不良だった。読めども読めども愉しめなくて、読み終えたあと、数日凹んだ。
最初は前のめりで物語のドアならぬ表紙を意気揚々と開けて読み進めた。しばらくすると不意に気持ちが失速した。「……なんだか想像してたのと違うな」という展開が続き、めくってもめくっても、読んでいる私は「はぁ」とか「えぇ?」とか気のない相づちを打つ。一向にドキドキハラハラしない。
「私が聞きたいのはそういう話じゃない」という我儘な不満が募る。人間の愚かさを描いたにしては陰惨が足りないし、謎を織り込んだにしては表現にいちいち引っかかりを覚えて、世界に全く入り込めなかった。レビューは良かったのだけれど、私は作品に共振できなかった。期待が大きかった分、心が萎れて凹んでしまって、飢えを拭うように別の書籍に手を伸ばした。
こういう気持ちも、次の本を手に取る原動力になるのだなと思った出来事だった。
学生の頃は、全7巻とか、シリーズ20巻セットとか、巻数が多少あっても気にせず駆け抜けるように読み進めた。今は小野不由美さんの十二国記をカタツムリの速度で読んでいる。
振り返りを兼ねてタイトルを挙げると、「魔性の子」から始まり、「月の影 影の海(上下)」「風の海 迷宮の騎岸」「東の海神 西の滄海」と続き、現在は六冊目に当たる「風の万里 黎明の空(上)」に栞を挟んでいる。
「丕緒の鳥」「図南の風」「華胥の夢」「黄昏の岸 暁の天」「白銀の墟 玄の月(全4巻)」の計九冊が控えていて、まだ折り返し地点にもきていない。
加えて、東野圭吾さんの「さまよう刃」と乙一さんの小説を読んでいる。どれも凄惨な物語だけれど、吸い寄せられるようにページを捲っている。同じ本を読んでいる人と感想を共有できると嬉しい。
あとは、友人に薦めてもらった本や、X(Twitter)で見かけた「近畿地方のある場所について」を、そろそろ手に取りたい。
読みたい本や読みかけの本のタイトルを、メモアプリに書き留めている。読み終える速度よりも、読みたい本が増える速度のほうが若干速い。
文章に集中して触れている時間は、毛布にくるまれている時とどこか似ている。そこにあるのは私と物語だけで、他には何の雑念も物音も人の気配も入ってこない。五感を働かせて物語を見ている時、文字によって形作られた世界の箱庭の中に感性が包まれていて、隣に人が立っていても見えず、話し声も耳に入らない。葛藤、畏怖、歓喜、狂気、愛憎、様々な描写が心の綻びに注がれて満たされる時間。
だから私は本を読む時は、意図的に外へ意識を向ける。そうしておかないと、病院の待合室で自分の名前を呼ばれたことにも気付けない。
文章が強烈に印象に残る瞬間は、文字列ではなくて映像として記憶に残ることが多い。日曜日に読み終えた赤い表紙の本の余韻を、今もまだ引きずっていて、映像が時折頭の中を過る。この本の感想も、渡し合えると嬉しい。
本を読み漁っていた時期は、一冊をその日のうちに一気に読み進められた。けれど、今は一つの物語の中にどっぷり浸かる体力がない。
なので、今日も少しずつ、明日も少しずつ、物語をひとかじりしては息継ぎをしながら、読み進めてゆく。千里の道も一歩から。気長にやっていく。
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