アイシテルとは、いわないで。

愛するか愛されるかのどちらか片方しか選べないとしたら、愛する方を選びたい。

とはいえ、日常生活で愛を囁き合っているかというと、大好きと声に出すのも割と勇気が要る程度に照れ屋だ。noteのスキもTwitterのいいねも、押しますね!と割と気合いを入れてする。最初の頃など緊張しすぎていちいちぐったりしていた。

なので神前で愛を誓ったことはあるが、面と向かって愛してると言ったことは、まだない。

結婚というのは、ふたりで新しい生活を始めるという、周囲への大々的な告知であり、新しい縁を結ぶための機会だ。
えにしを結ぶのだから勿論めでたい。知人や友人が結婚するなら、大切なひととの門出を祝いたいし、おめでとうって、心を込めてたくさん言いたい。

私一個人にとって結婚とは「シアワセになるための一歩」ではなく、暮らし方の選択肢のひとつだ。いまもむかしもその認識は変わらない。お互いが求めるなら一つ屋根の下で暮らせばいいし、離れて暮らしていたって成立しているなら問題ない。
いまはふたりで結ぶ縁だけれど、古来は一夫多妻制だった。いまでも世界には一夫多妻、一妻多夫が認められる国がある。いまの日本がそうしないのは、愛人制度を導入すると、多分、経済の仕組みが破綻するからだ。結局これらはいつか変わっていく可能性のある仕組みなので、則しながら、在りたいように在ればいい。

思い返すと、付き合って4年ほどで結婚した。切り出したのは私からだった。それはプロポーズではなくて、どちらかというと提案だった。

「きみとはこのあとも一緒にいそうな気がする。60歳位になってもいそうな気がする。いずれ同棲とかするのかもしれない。でもそういう段階を踏むのは、世間体がどうとか言われるし、そういうのを周りにどうこう言われるのは、私はとても面倒くさいので、結婚しますか?」

という感じのことを述べたように思う。


私は個人的には、結婚に対してワクワク感やキラキラするような希望を特に持ち合わせていなかったし、付き合い始めた日や初めてデートした日付も覚えていないので、記念日にして祝う風習もない。けれど、それでも、結婚指輪というのは、少しだけ特別だ。

結婚して割とすぐに、彼の結婚指輪が少しだけ歪んでしまったので、

「買ったお店に持って行ったら、直して貰えるよ?」

と私が提案すると、彼はうーんと小さく唸って、

「直したら、元の指輪と違うものになる気がするから」

と返した。

何気ない言葉だったけれど、大切にしたいものをあるがままの形で持って暮らしていこうとするその気持ちが印象深くて、いまでも時々、思い出す。

私は好きと伝えたい方だ。でも照れてしまう。冗談でも誰かにアイシテルなんて言われたら、恥ずかしすぎて、その場から脱兎のごとく逃げ出してしまうかもしれない。

だけど、この言葉は多分、愛だと思う。

彼の指輪は今日も歪んだままだ。明日も変な形をしたままだろう。だけど、アイシテルとは言わないで、愛を伝えているように思う。

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