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ちょっとそこまで

 ほのかはカウンターで足を組んで、カクテルグラスに昇る朝日を眺めた。
 そっと口に含むと爽やかなオレンジの香りが広がる。テキーラベースで甘さの割にそこそこ強い。鼻歌まじりにもう一口含むと、
「柊?」
 不意に頭上から声が降った。振り返ると眼鏡を掛けた癖毛の男が立っていた。
「あれ、橘くんだ。奇遇だねえ」
 ほのかは豊かな髪を掻き上げて愛想笑いを浮かべた。日が暮れるまで会議室で睨み合った挙句にバーで出交すなんて、なんの冗談。
「ひとりか。相当な酒好きだな」
「ううん。知らない人と飲んでる」
「なんて?」
「ひとりで飲んでたら声掛けられたの。その人はいまトイレ休憩」
「危機感ねえな。襲われても知らねえぞ」
「いや、まさか」
 ほのかは曖昧に笑った。なんでも疑って掛かるなんて、無粋な奴。
 間を置かずに男が戻ってきた。橘の姿を認めて明らかに戸惑っている。彼氏と勘違いしたのなら迷惑な話だ。橘は眉をひそめた。ほのかは男に笑みを向けて、
「ごめんね」
 橘の腕に手を回した。慣れた風にバーテンダーに声を掛けて勘定を済ませると、余韻も残さず店を出た。
 冷えた夜気が火照った頬を撫でた。ほのかは橘の腕にしがみついたまま恨みがましく、
「ぶち壊しだよ。楽しく飲んでたのに」
「いい加減離れろ。重い」
 なんて言い草だ。この男は女性の扱いがなっていない。きっと彼女にもメールをまめに送ったりしなくて、安心し切ってるうちに振られるタイプだ。
 ほのかは腹立ちまぎれに眼鏡を引ったくった。掛けると目の前がぼやけて、
「うわ、度がきつい。なんも見えない」
「返せよ」
 すぐさま眼鏡を外されて、視界に橘のしかめっ面が飛び込んできた。意外に目が大きい。それからこめかみに傷がある。不愉快そうに眼鏡を掛けるとつるが傷跡に重なった。
「どおりで目立たないわけだ」
「はあ?」
 橘は怪訝な顔で歩き出した。自動販売機の前で立ち止まって何を買うのかと思えば、
「ほらよ」
 ペットボトルのミネラルウオーターを差し出した。なんと、いいとこあるじゃないか。ほのかは蓋を回し開けながらにやりと笑う。
「お酒飲むとラーメン食べたくなる」
「食ってまた飲むんだろ。酔っ払いめ」
 すげなく言いながらスマートフォンの液晶画面に指を滑らせた。耳にあてがうと、
「俺だけど。あの店ちょっと都合悪くてさ。別の店を探すのも面倒だし、今日はお前ん家で飲もう。は?それなら仕事する?あほか」
 素っ気なく電話を切った。ほのかはなんだか居た堪れなくて、
「彼女にあほとか言わない」
「いねえよ、そんなもん」
「あれ?いるって噂だけど。振られた?」
「うるせえなあ。大人しく水でも飲んでろ」
 眉をひそめながら液晶画面に指を滑らせ、背を向けて大股で歩き出した。帰るのにお疲れの一言もないとは。ほのかが呆れ顔でため息をつく。不意に橘が振り返って、
「なにしてんだ。早く来い」
「えっ、私も行くの?」
「終電近いんだろ。店の近くに地下鉄の出入口があるから、そこから帰れよ」
「店って?」
「リカーショップ」
「なんで?」
「酒を買う以外になにがある」
「だって橘くんって下戸でしょ。打ち上げでもウーロン茶ばっか飲んでるし」
「ああ、一次会で行く店は飲みたい酒が置いてないからな。それに酔っ払うより酔っ払ってく奴らを見てる方が面白い」
「うわ、悪趣味だ。本当にひどい奴だな」
 橘の手の中でスマートフォンが震えた。すっと指を滑らせて眉を寄せる。
「あいつ」
「どうかしたの」
「店まで車で迎えに来いって送ったら、眠いから嫌だと。いいから来い、っと」
「こき使うねえ」
「誰のせいだ」
 橘はスマートフォンをポケットに押し込むと歩き出した。女性と連れ立つには歩幅が広過ぎる。だから振られるのだ。ほのかは思わず橘の背中に手を伸ばしてシャツを掴んだ。
「歩くの早いって」
「俺はこのまま店に行くけど、お前どうする。地下鉄で帰るのかそれともタクシーで」
「付いてく」
「はあ?なんでだよ」
「友達に挨拶するの」
「意味がわからん」
「あ、見て、空。すごい」
 声に釣られて見遣ると、空を埋め尽くすほど群れを成した羊雲の川が横たわっていた。雲に浮かぶ月影を光の輪が包み込んでいる。
「あのわっか、きれい」
「雲の中の氷に反射してるんだ。月傘とかいったか。あれが出たら天気は下り坂」
「お天気おじさんだ」
「トシ変わらねえだろ」
 図らずも声つきが柔らかい。
「こめかみ、ぶつけたの?それとも事故?」
「お前、本当に不躾だな」
 橘はあからさまに眉をひそめた。ほのかは相変わらず軽薄に笑って、
「傷でも隠したくないよね。自分の体だし」
 月明かりが照らす横顔はいつもと少し違って見えた。橘は足元に視線を落とすと、
「なんでもない。ただの喧嘩だ」
「え、なになに、殴り合い?」
 ほのかが嬉々として身を乗り出す。
「急にテンション上げんなよ」
「男の人って本当に殴り合ったりするんだ!どういう状況でそうなるの?アイツを泣かせやがってとか、焼きをいれてやるぜとか?」
「くだらねえ」
「あ、笑った」
「はあ?そりゃ笑うよ。あほらしい」
「いつもそうだと構えなくて済むのに」
「むしろもっと遠慮しろ」
 不意にシルバーグレーの車が脇を通り過ぎた。明かりが煌々と灯る店先に車が停まると、橘がにやりと笑った。
「渋った割に早いな」
 ほのかは運転席から降りる男を眺めた。短く整えられた髪に清潔さが漂うが、服装に無頓着でなんとなく垢抜けない。橘は男の傍らで車をしげしげと見ると、
「新車か?」
「中古だ。夏にマシン買ったからな」
「またか。お前の部屋、パソコンだらけだろ。いよいよ要塞じみてきたんじゃねえの」
「要塞というか、熱気が篭もって暑い」
「冬でも暖房いらねえな」
 愉快そうに笑うと腕時計をちらと見て、
「ユウ。こいつに名刺を渡してやって。俺、酒買ってくるから。シーバスでいいだろ」
「ワイルドターキーも頼む」
「へいへい」
 ポケットに手を突っ込むと、すたすたと歩き出した。男は名刺入れから一枚抜き出して、ほのかに差し出す。プログラマーの肩書きの下に大崎大介と印字されていた。
「ユウってなに?ハンドルネーム?」
「そんなところだ」
「橘くんって、いつもあんな感じ?」
「ああ」
「明るいよね」
「そうだな」
 口数こそ少ないが声の響きが優しい。懐も深い気がする。ほのかは淡々と、
「橘くんのこめかみ、傷があるでしょ」
「ああ、あれか」
「あんまり突っ込むと気分悪いかな」
「どうかな。橘は気にしないかもな。怪我をさせた俺が言うのもおかしいが」
「へえ、そうなんだ。意外だな。怒らなさそうなのに。なんか気に障った?」
「そうだな。だけど今となっては大した事じゃない。そういうのはよくあるだろう」
 穏やかな声つきで言うと優しく笑った。ほどなく袋を提げた橘が駆けてきて、
「柊、とっととタクシー拾うぞ」
「あ、いいよ。ここでふたりを見送る。タクシー乗り場すぐそこだし」
 すると大橋が、
「送ろうか」
「やっさしいー。橘くんも見習って、この気遣い。でもいいよ。遠いし。ありがと」
 ほのかは後ろ手を組んだ。橘と大崎が車に乗り込む。橘がシートベルトを締めながら、
「すぐタクシー捕まえろよ」
「はーい」
「はーいじゃねえよ、全く」
 橘が眉を寄せた。エンジン音が夜気を震わせると、ほのかは助手席の窓を覗き込んで、
「ユウくん。今度飲もうよ。三人で」
「そうだな」
 穏やかに答えるとクラッチを踏んでギアを入れた。バックミラーに映るほのかの姿が夜に溶けていく。大崎が橘をちらと見て、
「面白い」
「なにが?柊か?」
「お前が」
「なんだそれ」
 橘は窓枠に頬杖を付いて流れる景色を眺めた。羊雲の川に月がたゆたう。光の輪が澄んだ輝きを放っていた。

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