見出し画像

髪を短くしてみたり。

肩まで伸びていた髪を短く切ってもらった。

なので、ここ数日、玄関の姿見の前を横切る度に、「おや、短い」と視線を止めて、「あぁ、そうだ、美容院へ行ったんだ」と我に返るのを繰り返している。
モノグサなので、一旦短くするとしばらく伸ばしっぱなしになる。前回カットに行ってから数ヶ月の間、後ろで一つに束ねて過ごしていたので、今の髪型の自分のシルエットがまだ見慣れない。

駅前の美容院のソファで待つ間、店内を眺めていた。明るい天井の丸い照明。壁に掛けられた曇りのない鏡たち。その前で談笑をする声と、ドライヤーの乾いた音が、程よく店内に満ちる。
名前を呼ばれて、促されるまま椅子に腰掛けた。美容師さんはケープを手際良く私に羽織らせて、鏡の前に雑誌を三冊、バサッと置いた。背表紙を見ると、レタスクラブと週刊誌。お暇ならどうぞというお気遣いだ。ありがたいけれど、私は美容師さんのハサミさばきを鏡越しに眺めている時間が好きなので、いつも雑誌を手に取らない。無にしてしまってすみません、とちいさく思う。

「今日はどうしますか」

顔を上げると、鏡に映る美容師さんと目が合った。

「ショートカットにしたくて。後ろもバッサリ切って貰えますか」

「耳が隠れるくらいですか?耳が見えるくらい?」

せっかくなのでかなり短くしようかと一瞬迷う。

「ええと、……耳が見えるくらいに」

「えっ、随分短くなりますよ」

美容師さんは「えっ」に力を込めてかなり驚いたように言った。私はつい怯んで、

「じゃあ、耳が隠れるくらいで」

と言い直した。

子猿と見間違えるくらいのベリーショートも捨てがたかったのだけれど、よくよく考えると年相応の長さではないかもしれない。もう少し年を取って白髪が増えてからにしようと思い直す。

ハサミが後ろ髪にまっすぐ入った。刃先がシャッと噛み合うたびに、床にパサと髪が落ちる。

切ってもらっている間、互いに終始無言だった。私は鏡を見つめて、ハサミの動きを追いかけていた。直線的に切り揃えた髪に、縦や斜め方向からハサミを入れて、すいていく。少しずつ段ができて、髪の輪郭が徐々に整っていく。時に髪を指先ですくい上げて、目線と同じ高さでハサミを扱う。空気を切るように軽やかに、毛先を切り揃えていく。
技術を駆使して何かを完成させる過程を目撃する時間は、心が潤う。私は愉しいのだけれど、美容師さんはこの無言の時間をどう捉えているのだろう。ふと不安が過る。雑誌でも読んでいてくれればいいのにと思っているのかもしれない。

切り終えると、美容室さんが声を掛けてくれた。

「サッパリしましたね」

「ありがとうございます。カットしてもらうのを見てるのが好きなので、じっと見てしまいました」

鏡の中の私が、少し照れた風に言った。

襟足に手を伸ばすとスッキリと刈り込まれていて、指先を潜り込ませて探ると直ぐに地肌のあたたかさに触れる。首を傾けても髪が頬に触れないし、左右の視界も遮らないので、快適だ。首元にまとわりついてチクチクすることもない。

アトピーで肌が弱いのもあって、中学生に上がった頃からショートカットでいる事が多かった。男の子と間違えられることも時々あったけれど、短い髪でいると気分的にも楽だった。あまり意味のないことかもしれないけれど、短い髪でいるほうが、自分らしいような気がする。あと、単純に、多分、長い髪があまり似合わない。

育児にかまけて、髪型にすっかり無頓着になったため、普段は髪を伸ばしっぱなしにして、飾り気のない紺色や茶色のヘアゴムでくくっている。実家の母などは、そういう私の髪をしげしげと眺めて、

「黒くて綺麗ねぇ。改めてみるとそんなに黒かったのねぇ」

と噛みしめる。日々の手入れを特にしていないので、髪自体が綺麗かというとかなり疑問だ。ただ、カラーもパーマも長らくしていないので、取り敢えず確かに黒い。そうして、白髪まじりになった母のグレーの髪と比べてもやはり黒い。

母は褒めたあと、

「切らないの?」

と、すかさず問うた。

また、夫も私の髪が肩に掛かるくらいまで伸びてくると、

「切らないの?」

と、必ず言う。

なので、総合的に見て、肩に掛かるくらいになったらなったら、切ったほうが良い。

ただ、先に述べた通り私はモノグサゆえに、二十年来通っている美容室へ行くための、バスで三十分の距離を面倒くさがる。「後ろで一つにくくれるし、大丈夫」と適当なことを夫に述べて渋る。
距離の問題かと思い、駅前にある徒歩二十分の美容室ならばカットの頻度も上がるのではと、最近、試しているのだけれど、さして変わらない。

今の私は、身なりを整えることにあまり興味がないのだ。服は着られれば取り敢えずいい。例えば、子供を生むまでは殆どジーンズで過ごしていた。動きやすいし、性別にとらわれないパンツスタイルが好きだった。社会に出たての頃は、小さな体に明らかに合っていない、サイズの大きな上着をよく着ていた。結婚してからはなるべくサイズを合わせて服を買うようになった。そうして、出産してからはスカートをはいて暮らしている。これは「母親」というコスチュームだ。

「私」という一個人から、子供を育てる「保護者」という立場になったので、私はそれまで培ってきた私個人の感覚を切り替える必要があった。そのスイッチとして選んだのが、服だった。幼い頃の記憶の中の母は、スカートをはいていた。落ち着いた青色で、大ぶりの花がいくつも描かれていた。それが特に印象に残っていたので、記号としてスカートが選ばれた。
私は自分を「母親」のビジュアルで包むことで、意識を切り替えることを試みた。振り返ってみるに、自分は親に成る器ではないと痛感していた。知恵、愛情、配慮。足りないものがあまりに多かった。だから、どうにかして親として生きようとしたのだと思う。

ただ、今となっては、スカートに記号的な意味合いはあまりない。体を締め付けない楽なはきものとして、私の中で認識されている。

身なりには無頓着だ。けれど、髪を切るのは、自分のための時間でもあると感じている。

お風呂上がりに、アトピーの肌が乾燥しないように処方薬を塗るのと同じように、短い髪でいることは、どことなく自分のお手入れをして、労るようでもある。

髪を切ったら、どこかへ出掛けたい気分になって、駅の改札口まで行った。電車に乗って川を眺めに行こうか。歩道を歩き、林を抜けて、橋を渡る。広々とした土手に腰掛けて、川の流れをのんびりと眺める。そこまで想像して、今日はまぁいいかと、私は踵を返した。

そのうち、そのうち、何処かへ行こう。


お読みくださり、ありがとうございます。 スキ、フォロー、励みになります。頂いたお気持ちを進む力に変えて、創作活動に取り組んで参ります。サポートも大切に遣わさせて頂きます。