雑な人の日記。20210630

ここ一ヶ月ばかり、淡々としている。どちらかといえば、いつも眠たい人のようにぼんやりしているとも言える。


以前から気になっていた調べ物を改めてしたり、絵を描いたり、昔に書いた文章を読み返したりして過ごしている。
あとは、長年着ていたダウンコートの裏地布がついに破れてしまって、お別れをしたりもした。

着ていると落ち着くよい上着だった。
ダウンとフェザーが入っていて、薄いのに暖かで、軽くて肩も凝らず、少しサイズに余裕があって、腕や体を締め付けることもなくて動きやすい。

春のそよ風にも負ける冷え性の私とって、これ一枚あれば十分だった。

秋から冬へ。また、春に掛けて。雨の日も風の日も、元気なときも、体調の芳しくないときも、沢山の用事を抱えてバスや電車を乗り継いで遠くへ出掛けたときも、朝から出ずっぱりでくたびれた昼下がりに、自転車置き場でひと息吐いて、晴れた晩秋の空を見上げて綺麗だなあと和んだときも、冬の終わりに雨の海を眺めていたときにも、着ていた。

言わば、病めるときも健やかなるときも共にいた。

省みれば思い出深いけれど、手放す前に写真に撮るのもなんだかどうだろうという気がして、こうして書き留めている。

ここの所、文字を書くのが少し難しい。考える力の出口に蓋をされているような手応えがある。

それでいて、気持ちは浮くことも沈むこともさほどなく、水面を漂う木の葉のように、流れに身を任せるというか、流れている途中で水の段差に遭遇してしまって、渦に巻き込まれて沈んでも、それはそういうものかと甘受して、取りあえず水の中を翻っていようと思うというか。

頓挫している部屋の片付けや、ご無沙汰している方々へ連絡を取るなど、やったほうがよいことは幾つも思い浮かぶものの、特に積極的に行う気も湧かないまま、うっかり忘れる。ダウンコートの事を下書きに書き留めていたこともうっかり忘れる。そうして、スケジュール帳の予定を取りこぼさないように注意を払いながら、淡々と暮らしている。

ちょっとばかり気持ちがすり減ってくたびれたので、一ヶ月ほど大人しくしていた。

と書くのに、一ヶ月ほど掛かる程度にくたびれていた。絵を描いたり、文字を書いたりしていたから、なんとかこらえられた部分もある。
状況的には、別になにも新しいことは起きていないし、なにも解決はしていない。ただ、くたびれていた、と書けるようになったので、漸くここから、スタートラインを引く準備が始まる。

ずっと寝転がっていたってよかったのかもしれないと思う一方で、同じ悩みを抱えて同じ所をぐるぐると何十回ともなく回っているうちに、はたと飽きてしまう性分でもあった。
同じ回るなら、絵本に出てくる黄色い寅のように溶けてバターになるか、螺旋階段を上りたい。ぱたりと寝転がっているここから、体を少しばかり起こす方向へ、気持ちの矢印を指先でつまんで、そっと動かすように、向けてみる。

意義や目的は特にない。目的はいつだってただの模索である。

人生万事塞翁が馬だ。10年先のことは昨日の私にはわからない。結果は未来に託される。ゆえに、心は今よりも少し先を見に行こうとする。

ぼんやりしているうちにも、時は刻々と進む。例えば六月半ばに作った2リットルの紫蘇ジュースをもうすぐ飲み切る。同じ日に漬け始めた梅酒の氷砂糖も大体溶けた。

私がやっている事と言えば、概ね趣味や生活の余白の部分だけれど、せっかくだから、また何か新しいことを始めてみるのもいいのかもしれない。

ぼうっと静かにしているうちに、眠りかけている気持ちが、ほんの少し、地面スレスレから引き上げられていく。エンジンは何だろう。昔は悔しさが原動力の一つだった。今の私を動かしているものはなんだろう。

しぼんだ気持ちを、風船のように膨らませて浮かせるつもりは、まだなくて、いずれ中身が溜まっていくのを、微睡みながら、時折、夜の途中で覚醒しながら、待っている。
ふわりと浮かんで、一瞬、光らせることができれば、一瞬、輝かせることができれば、それはもうそれだけで、いいのかもしれない。歌を遠くまで、届くように気持ちを乗せて、大きな声で歌うように。

お読みくださり、ありがとうございます。 スキ、フォロー、励みになります。頂いたお気持ちを進む力に変えて、創作活動に取り組んで参ります。サポートも大切に遣わさせて頂きます。