雑な人の日記。20211214

ぽっかりと生まれたおやすみの日に、ひとり、珈琲を飲んでいる。店内にはenyaの曲が数分の間、流れていた。

珈琲の味には詳しくないものの、日々、好んで飲む。苦いか、花のような香りがするか、酸味があるかくらいで、チョコレートのような風味とメニューに書き添えられていても、それがカカオに近いのかどうかもよくわからない。

普段、友人や知人と連絡を取ること自体あまりないのだけれど、ここ最近、学生の頃の友達や会社でお世話になった先輩と、お茶をしながら話す機会が割とあった。

直接会って話す時も、メッセージを交わすときも、長い間、その人の印象が体の中に余韻として残る時がある。
表情や、眸の色。座っている姿勢や、佇む姿。横顔。目を伏せる仕草。丁寧に装丁された本を手に取って、ページを開いて一文字目から、物語の世界に足を踏み入れるときのように、相手をよく見ようとすればするほど気配が残る。時に、印象を染み渡らせるために相手を見る。

沈黙と、沈黙の中にあるものに触れようと試みる。声の温度と、声が耳に届いたときの私自身の心の動き、もしくは、相手の心の動きの予測が残る。

ポリシーや、かつて乗り越えてきたこと、今立ち止まっていること、言葉はその人自身が辿ってきた道を礎にしている。話をしながら、そういうものの欠片に漠然と触れる。


三年前の今頃から今に至るまで、そして、三年前の今頃から遠い昔に至るまで、ぼんやりと考え続けてきたことがある。自分に尋ねるようにして考え続け、現時点での結論にたどり着き、あんまり息が苦しくて泣いたとしても、それはほんの数分のことだった。

多分、私はその数分間のために、今に至るまでの時間を費やし、心を費やしてきたのだと思う。

ものすごく普通の話なのだ。比喩でもなんでもなく。

『あぁ、あのとき選択肢は二つだけだと思い込んでいたけれど、実は三つ目があったんだな』

という結論には、一旦選び取ったルートの終点近くまでたどり着かないと、中々気付かない。そもそも、その見落としがあってこそ、選べなかった三つ目の選択肢が見えるようになる。

『あぁ、そうか』と。

『私が叶えたかったことを実現させるには、このやり方ではたどり着かなかったんだ』と閃くように気付く。

そうして、昔からいつまで経っても賢くなれない私は子供だなとつくづく痛感する。

言葉は結局、なにがしかの印象を人の中に残すものなのだけれど、いくつかの言葉は、言った本人がすっかり忘れても、響き続けることがある。

そういうものに、時折、問題提起を促されつつ、助けられてもいる。

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