見出し画像

読んでくれているあなたへ。

文章を書こうとしています。

noteの下書きに、書きかけのテキストが8つ程、溜まってきました。ひとつひとつの文章は、まだとても短いです。

雑事をしている時や、外を歩いている時、或いは待ち時間の合間に、言葉がふと思い浮かびます。頭の中に並んでいく言葉たちは、文章になってはいるものの、陽炎のように朧げで、現れたはしから輪郭が溶けていきます。消えないうちに文字にしようと、スマートフォンのキーボードを開いて指を滑らせると、扉がパタリ、と閉じて堰き止められたみたいに、言葉が浮かばなくなるのです。
心は話しているのに、声をうまく取り出せなくて、文字の描かれた紙が瞬く間に白紙に戻ってしまうような錯覚を覚えます。

100文字まで書いた辺りで手が止まってしまうことも多いです。それでも何故か、書こうとする。何故なのだろうと不思議に思います。

拙かったり、分かりにくかったりする私の文章を、立ち止まって見つけてくれて、読んでくれているあなた。

どうもありがとう。

この文章も、あなたの大切な時間を頂いて、読んでもらっています。

読んでもらえると、どこかホッとするところがあります。文字に残しているものは、自分自身を知るための思考の散策であったり、忘れっぽい私が昔を思い返せるように書いている日々の出来事の記録であったりしますが、やはり話を聞いてもらえるのは、ありがたいものです。

今下書きにあるテキストのタイトルは、「卵を割っても怒らない」や「"エロに対する共通言語がみつからない"」や「私が煙草を吸ったワケ」といった、とても些細なテーマです。
趣味嗜好を分解するとなにか見えてくるのではないか、というのが、書く発端になっています。

自分がどういう人間で、今の自分はどういう気持ちを持っているのか。それを確認しようとして、文章を書いているようにも感じます。私は自分に対しての興味が薄く、自分のことはどうでもいい、と雑に扱ってしまいがちです。そんな私が私について、何をどのくらい知っているのだろうかと、素朴に疑問に思うのです。

noteに登録してから今まで書いてきたものを振り返ると、嬉しかったことや、悲しかったこと、日常のささやかな出来事、触れてきた素敵な作品の数々に力をもらって進んできたことなど、様々に書き留めてきました。ある時には、胸の中にある熱い気持ちを文章の中に全て出し切って、書き上げた後、クタクタになったこともありました。それでも大半の場合、気持ちを書いた文章は、表現が曖昧になることが多いように感じます。

私は自分の話をするという動作に躊躇いがあります。ブレーキを掛けていると、友人に指摘されました。そうだなぁ、と思います。
言いたいことが単語の中に閉じ込められていて、解像度が低いです。悲しいのだとして、胸をガラスが貫くように痛むのか、寂しくてたまらないのか、怒りが先にあるのか。なぜ、なにが、どの様に、感情を彩るのか。私自身が捉え切れていないのです。

見せたくないもの、見たくないもの、大切にしているもの、美しくないと感じているもの。そういうものに目隠ししてしまうと、視野が欠けて、書こうとしている景色の全容が私からも見えなくなります。見えているけれど意図して削って隠した文章と、見えていなくて無意識に隠して書き切れていない文章とは、全く別物なのだと思います。

これからいくつか文章を書き連ねていく中で、私からも見えている景色と温度を、私自身から少しずつ書き写せたなら、よいなと思っています。魚拓を取るみたいに出来るといいのですが、そこまで器用ではないので、きっと相変わらず拙いですけれど、お時間のある時に、無理なく読んでいただけると、嬉しいです。



お読みくださり、ありがとうございます。 スキ、フォロー、励みになります。頂いたお気持ちを進む力に変えて、創作活動に取り組んで参ります。サポートも大切に遣わさせて頂きます。