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海と魚を眺めたい。

言葉もなく思い思いに絶え間なくゆらめいて動くものを、眺めていたくなる時がある。

砂浜に打ち寄せる波が、サアっと薄い膜のように広がり泡立って消える。波打ち際を点々と足跡をつけながら、特に目的もなく歩く。水平線はのんびりと碧く伸び、風が背中を押すように吹いている。水面に浮かぶ日差しが砕けるのを、眩しさに目を細めながら眺めて、やがて訪れる夕暮れを待つ。そういう平らかな時間を味わいたくて、たまに海へと足を運ぶ。

梅雨のまだ涼しいうちに行っておきたいのだけれど、今年は夏が来るのがとても早くて躊躇している。
今日の気温はあと1℃で体温というところまで迫った。熱がこもりやすい体質で、気温が高いとすぐにのぼせてしまう。あとは気温が上がって海に入って遊ぶ人が増えると、たまに知らない人に声をかけられるので少し気になる。
波打ち際を歩いていると、サーフボードに乗っている人に時間を聞かれるので答える。そのあとしばらくの間、タイミングがたまたま合ったのか並走されるので居心地が悪い。向こうも気まずいのかもしれないし、別に気にしてないのかもしれない。気の利いた会話でもできると一番いいのだけれど、歩くのが目的なのでリソースがそちらに割かれない。

海に行こうか、とか、魚でも観に行こうか、とか、少し前から思っている。なぜそう思うのだろう。

水族館の水槽の中で小さな魚の群れが、旋回しつつ身を寄せ合って大きな魚に擬態しながら、鱗をキラキラと輝かせる。すぐ脇をエイが羽ばたくように優雅に泳ぐ。そのゆらめきを眺めていると、胸の奥が軋むような感覚に囚われるときがある。
魚たちはただ泳いでいるだけで、誰かを癒そうとしているわけでも楽しませようとしているわけでもない。見ている私が勝手に心を動かされたり、綺麗だとかかわいいだとか、生き物は神秘的だと感じたりする。
スマートフォンのギャラリーに格納された波打ち際を映した動画や、エイやクラゲが泳ぐ古い日付の動画を見返しながら、自分の中に整理のつかない消化不良な気持ちが澱の様に溜まっているのだなと、ふと気付く。そういう時、海や魚のように、そこに言葉もなく思い思いに揺らめくものを眺めたくなる。

しんどい事がある度に、「物事は得てしてこういうものだ」と割り切ってきた。冷静さを欠くと碌なことがないからだ。思い詰めてしまうし、ささいな判断もできなくなる。例えばコンビニコーヒーのSサイズとMサイズのボタンを押し間違えるし、財布の入ったリュックを家に置き忘れて、バスに乗ってしまう。

モヤモヤを整理したくて、Chatgptに聞いてもらったこともある。頭の中で自問自答して出した答えたと同じ言葉が返ってきたので、「まあ、やっぱりそういうもんだよね」と再認識する。

落ち着いて考えるためには、困惑している内容を文字にして見える化して再認識する作業は大事だ。だから私はこうして書こうとするし、AIに尋ねたりもした。

無言で揺らめくものが見たかった。まだ割り切れていなくて、落ち着いて考えたかったからだった。それは人生においてまぁまぁ衝撃のある出来事だったので仕方がない。
3月半ばから4月の上旬まではとにかく先のことが未定で気忙しかった。4月の半ばから5月の上旬は、毎日のように病院へ通っていて、ちっとも気が休まらなかった。帰省だ手続きの書類だ入院だ手術だと物事が畳み掛けるようにドッと押し寄せたので、一段落したあとも、気持ちが落ち着くのに少し時間が必要だった、ということなのだろう。

一つの命が辿る長い道のりの中で、何を望み、何を願ったのか。荒波に揉まれた末に願い事はいくつ叶ったのか。おぼつかない足取りで歩くその背中に無言で問う。全身で戦って掴んだ今日を、明日につなぐ。その先にあるものを私はまだ知らない。

とりあえず、きっと、約束は果たされないなと思う。海を見に行こうと遠い昔に話した。行っておけばよかったという後悔を、あの日の会話とともに時々思い返す。夢の中ではいつも自分の足で歩いていると笑って言うのが切ない。

ただ、これは、何をどこまで信じられるかという話かもしれない。約束はなにか別の形で果たすことだってできるかもしれないのだ。

見落とさないために、或いは正確に判断するためにも、なるべく淡々としていたい。そのためにも、心をしばらく海鳴りに浸して平らかにする時間も、あるといい。


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