なにをわかってもらいたいのだろう?
はじめに
私のこれまでの人生は「正しさ」を押し通す生き方でした。私が考える正しさは人類共通のものだと思っていました。その正しさが理解されないときに、相手の正しさを「聴く」なんていう考えがそもそもなかったので、この世はどうなっているんだ??って思ってました。
道徳の時間が好きでした。倫理の時間も大好きでした。
道徳や倫理の時間に教わることが正しさのお手本でした。だから、そこに書いてないことをしている方々がとても許せませんでした。
自分は嘘をついて人を欺いて生きていることには気がついていたのですが、そこには気がつかないふりをしていました。
逆に「嘘をついてでも上手に生きていけばいいのに・・・」って思って、我が子や後輩や同僚に「心の中であっかんべーってしてでもその場では、わかったふりしてればいいのよ」って助言していました。
上手く生きていけない人が不思議でしょうがありませんでした。
でも気がついたのです。自分自身に蓋をして上手く立ち回っていた自分が大嫌いだったことに。やっと、今年はっきりと実感しました。
私は私が大嫌いだったんです。
わたしに任せて!!
私は上手く立ち回れるし、いろんな交渉事もできるような気がしていました。相手に取り入っていろんな手を使って、自分の望む通りの道を歩んできました。でも、上手くいかないこともあって、その時は爆発して相手を責め続けるのですよね。上手くいかないのは相手が悪い。私は正しいことをすすめようとしているのにどうして上手くいかないのかしら?って怒ってしまう。
自分の子ども達が学校に行かなくなりました。高校生と中学生の子どもが学校に行かないのです。同時に2人家にいた時、私は大学で幼児教育を学んでいました。子ども達に「自分の人生にとって学校に行かないことがマイナスに作用する」と思っていましたので、子どもの声を「聴く」よりも「自分の人生をどうしていくか考えなさい!!」と怒鳴っていました。
だけどやっと、我が家の子ども達へのそれまでの対応のマズさに気がつきました。でも急に自分を変えることなんてできなくて随分もがきました。いまはみんな結婚して独立してますが・・・子どもに「母さんを成長させてやった」と言われるような出来事です。
ありのままの子ども達をみつめること、寄り添うことの大切さよりも、将来の不安(まだ見ぬ不安)から、子ども達をがんじがらめにしていたことに気がつけたのは大きなきっかけでした。
「ナラティブ・ソーシャルワーク “<支援>しない支援”の方法」
今朝、「パーソン・センタードな視点で未来を見つめる~パーソン・センタード・ケア再考~」というイベントに参加させていただきました。主催している方々は、認知症ケア学会の自主勉強会として始まったグループのようです。
今日は、「ナラティブ・ソーシャルワーク “<支援>しない支援”の方法」著者の荒井浩道さんが講師でした。ソーシャルワーカーとして、ナラティブ・アプローチを実践に取り入れていくお話しを聞くことができました。専門性という鎧を脱いでふわふわと関わることで、相手に余白が生まれる。その余白を贅沢に使う・・・というお話しがとても腑に落ちて、看護師をしている時、専門性のある立場から言葉を使うことで「患者さんを傷つけてしまったのではないか?」と思い返しました。これはすべての人間関係において使える考え方なのではないかと思えました。
ここ1年位関わっているオープンダイアローグの方法は、ここにさらに多声性を重視していて、1対1の関係性ではなく、場に複数の人の声を取り入れる方法ですよね。たぶん・・・
何が語られたか
どのように語られたか
何が語られなかったか
ことばを暴力的に使う方々は、「なにをわかってほしかったのだろう?」とよく思います。私は誰とでも対等でありたいと思っているけれど、実際に権力性のある方からの暴力的な言葉や対応が降りかかると、いったいなにが起こったのかを感じるのに時間がかかります。
何が語られたか
どのように語られたか
何が語られなかったか
ここを感じながら、私が創りたい24時間の対話実践の場で「もういちどあの人と話してみたいの積み重ねがどうやったら起こるのか」を考えていきたいと思ったイベントでした。
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