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#3




あの日から10年。



2011年、8月2日。

私は当時高校1年生だった。

19時頃、部活から帰ってきて、母が玄関まで来て言った。

「大変大変!マツが倒れたって!意識がないんだって」

その瞬間、目の前が真っ暗になって、背筋が凍った。

母も気が動転していたし、ひどく悲しそうで

只事ではないと思った。



私はその頃、

山雅に興味はあるのに、好きだと素直に認められなかった。

両親が山雅に詳しくて、選手の話を家でよくしている。

家でもテレビ松本の試合映像を見ていたし、チャントもなんとなく聞いていた。

そんな小、中学生時代を過ごした。


2011年。私は高校に入学した。

山雅なんて全然興味ない。でも、

松田直樹というなにやら有名な選手が山雅に来たということは知っていた。

そしてその男が、「松本山雅を全国区にする」と言って
山雅を熱くしていることも、

どうやって知ったのかは覚えていないが、知っていた。

... ... ... 

同世代の人なら分かると思うが、
当時、「リアル」とかいうホームページを作るのが流行っていて、

友達のホームページを見に行くことが習慣だった時があるのだが…

友達の友達のホームページに、山雅ファンで、松田直樹選手のことを時々書く人がいた。

その日の試合や、、内容はうろ覚えだが、

自分の周りで、同世代で松田直樹選手を知っている人はまずいなかったので、

「ああマツさんのことちゃんと見ているんだなぁ。」と

なぜかよく分からないけれど、
時々読んでは、勝手に胸を打たれていた。


その時から、

私は本当は、
山雅が、松田直樹という選手が、気になって仕方なくて、

でも、スポーツなんておじさんが観るものだと思っていたし、

山雅が気になる、見てみたい、なんて言ったら家族にも笑われる気がして…言葉にはならなかった。

マツさんが倒れた時、寒気がしたのは、
その時はもう、思い入れをしてしまっていたのかなと、今なら思う。

8月4日。

松田直樹選手は、そのまま目覚めることなく、
亡くなってしまった。

本当に信じられない。

34歳。若すぎる。


私は、今でも、これだけは後悔している。
観に行けばよかったって。

興味があったのに。
でもその頃の私は幼すぎて。
親に誘われることもなかったから。
観に行く術なんてなかったのかもしれない。

でもやっぱり、ないものねだりをするのが人間で、

山雅が好きだからこそ、
「松田直樹のいたシーズン」を、一緒に経験していたかったなって、思ってしまう。

喪失を経験した山雅サポに比べたら、比べ物にならないくらいほんの小さな痛みかもしれないが、

リアルタイムで、松田直樹選手を失うという
経験をしていた。


... ... ...


あれから2年。

私は高校生の間、2、3回アルウィンに足を運んだ。

物心がついて初めてアルウィンに行った時。

本当に、本当に感動した。

サッカーなんてなんにも分からない。

だけど、応援が楽しい。

アルウィンの雰囲気が好きだ。

ゴール裏の人達、楽しそう。
私もあそこに混ざりたい!

そう思って、サポーターになった。

笑える。

何にもないところから、1人から始めた、サポーターへの道のり。

そして私は、忘れられない体験をする。


たったひとつ、マツさんに関われた。



2014年、8月3日。

(ごめん、書くよ、)

私は、人生初アウェイに、ヤマハスタジアムに来た。

もう全てが初めてで、新鮮で、

私は、連れて行ってもらうがままだったけど、

応援だけは手を抜かない。
全力で応援して、恵んでくれた人達に恩を返す、、
そういう時代だった、

本当に何もできなかったよ、


選手達が、3番を背負ってピッチに走り出す。

目が離せない。

マツさんのチャントが流れてくる。

『あ、歌うんだ。』と思った。

私って歌って良いんだろうか。
でもそれはすぐに、歌える喜びに変わった。

『私も歌って良いんだ。』

勉強したわけでもないのに、
口ずさめるのは不思議で仕方なかった。


どこかで聞いていたんだ

山雅サポになる前に。
他の選手チャントは知らないけど、
マツさんだけは知っていた。なぜか。


あれきり、マツさんのチャントは歌っていない。


本当に、行って良かったなと思う。
こんな私でも、昔を知らない私でも、
歌える機会があるなんて
私には奇跡でした。


初のJ1昇格へ


こんな私がマツさんのことを書くなんて、、

結構勇気がいります。

初めてのアウェイの日のことも、話すのは緊張する。

私だって、ここに書いたこと、人に話したことないかもしれない。なかなか口する機会がない。

でも、これが言いたかった。

私達がJ1昇格を果たしたストーリーの中心には、マツさんがいる。


2014年、11月1日。初めてのJ1昇格。

なんであんなに熱くなれたかって、

ただ、J1が、日本サッカーのトップリーグだってことだけじゃない。

マツさんが、「松本山雅を全国区にする」「J1だよ」
って、言ってくれたから、私達はそれに夢を乗せて、頑張ってきた。

だから、あんなに嬉しかったんだよね。

今思えば、嗚咽するほど嬉し泣きした経験って

あれ以上にない。
これからもないかもしれない。

後に、隼磨選手が怪我を我慢して試合に出ていたことを知り、私達は3番の重みをこれでもかと感じされられる…

山雅に来てくれて、闘ってくれる選手や監督、スタッフさんには、本当に感謝の気持ちでいっぱい。

マツさんが山雅に来てから、山雅が大きくなったのは間違いないと思う。

本当に、数あるチームの中から、カテゴリー問わず、山雅を見つけてくれて、選んでくれて、本当にありがとう。あなたはすごいよ。

マツさんと一緒に、J1を目指していたあの頃、
そして叶えたこと。

忘れられない時間です。

おこがましくて本当に、ごめんなさい。
でも本当に、有難くて、かけがえのない経験なんです。

マツさんと心臓病


長くなりましたが、あと一つだけ、お話したいことがあります。

スピリチュアルな話になりますが…

34歳、若すぎる死。

急性心筋梗塞という病名がついていますが、
なんでそんなに若いのにって、ずっと気になっていました。

でも、私なりに、解釈が出来るようになりました。

あるアメリカの心臓病専門医の著書に、このように書かれていました。

「ストレスや敵意、孤独やうつ、悲観や怒りといった心理的状態が、肥満、高コレステロール、高血圧、喫煙、糖尿病、運動不足などの伝統的な身体的因子と同様に冠動脈疾患(心臓の血管の病気)にとって有害な要素となりうる」

「敵対的である人の方が心臓発作や狭心症を発症しやすい」

と書かれていました。

、、、!

これだ!って私はすぐに思いました。
マツさんは闘争心が強いから心筋梗塞になっちゃったんだって。

これ、本当に根拠はあって、
闘争心は交感神経を優位にさせ、心拍数を上げたり、血管を収縮させたりして、心臓に負担をかけてしまうんです。

なので、イライラしやすい人も心臓病になりやすいと書かれていました。

私は妙に納得しました。

なんか、そう思ったら、
最後までアツイ男だな!って。

いろんなストレスがあったのかもしれないけど…

私は勝手にそう思っています。
ちょっと、いやかなり奇抜な考え方かもしれませんが…


でも、万人に共通することは、

大事なものをなくしたとき、辛いとき、
なんでこうなるんだとか、怒りや悲しみでいっぱいでやり切れない気持ちになると思うんです。

でも、その体験に、意味があるんだって気づけたら、少し気が楽になりません?

人それぞれ、じっくり、その人のタイミングで、

誰かと話したり、知識を得たり、新しい体験をしたりして、

あ、そうだったんだなって気づく時が来てほしい。


悲しみは消えるわけではありません。
悲しみと共に生きていかなくてはならない。
でもそれで良いと思います。

私は、あなたと同じ経験は出来ないけれど、
つらい時があったこと、分かっていたいし、
そんな思いに、全力で寄り添いたいと思って
これを書いています。


最後に


以上が、私がマツさんに関して考えていること、です。

私の体験は限られているけれど、
松本山雅と共に過ごしてきた時間の中で、
10年経った今だからこそ言えることを書いてみました。

書くことで、今まで言えなかった私の思いも供養された気がします。ありがとうございます。

これで良かったのか…分かりませんが…

これからも、#3とともに。
#夢はまだ終わらない

いつまでもありがとう。



最後まで読んでいただき、ありがとうございました😌





















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