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萩の菊ケ浜 女台場(おなごだいば)の風

 萩の菊ケ浜で防風林などの写真を撮りました。一見して、浜辺によくある小高い丘の防風林に見えます。防風林の間に小さな看板があり「女台場」と書かれていたと記憶しています。なぜ「女台場」と呼ばれているのでしょうか。ここには、幕末に台場が造営された萩らしい歴史があるのですね。

 文久三年(1863年)に5月、長州藩は関門海峡で5月10日アメリカ商船、5月23日フランス軍艦、5月26日にオランダの軍艦を一方的に砲撃します。6月に入ると今度は逆に報復されます。1日にアメリカ軍艦、5日にはフランス軍艦の攻撃を受けて、特に5日のフランス軍艦は前田砲台を占領してしまいます。長州藩は戦力国力の差をみせつけられて、攘夷は無理だと悟り、方針を大転換していくことになります。
 この6月敗戦の情報により、萩では「外国の軍船が萩を襲撃したら大変だ」という騒ぎになります。浜崎の商人から出された藩に萩城下の土塁構築による防御体制強化の願い出に、藩政府も許可をします。こうして海岸線に沿って防御陣地を構築する大工事が、身分を越えて、萩と周辺の村落が総出で取り組み始めます。
 当時、下関の戦に武士は出動して萩はもぬけの殻でした。そこで、町人や武士の妻子、お城の奥女中に至るまで、みんなで力を合わせて、土木工事を進めることになりました。当時の役人も、さばけた人だったのか、派手な格好も酒を飲んでの大騒ぎも許してくれて、実に賑やかなお祭り騒ぎで土木作業は進みました。女性陣は着物などのファッションを競い合い、囃子歌も生まれて、工事はどんどんはかどります。長大な土塁が、文久3年9月には完成します。台場というと、次の写真のように、東京の島タイプの「台場」を連想してしまいますが、実際は各藩が海岸線に構築した防御陣地が台場というものでした。
 菊ケ浜の海岸線の土塁も「台場」です。ただ萩が他と違うのは、建設にあたり、身分制度を超えた取り組みの中で、女性の活躍が現場の雰囲気を作っていたということです。とかく長州というと高杉晋作の騎兵隊が注目されますが、当時の萩には「自由の風」が吹き始めていたということなのでしょうか。この「自由の風」が、維新を進める原動力の一つになったのかもしれません。このころ、桂小五郎は京や大坂を奔走しています。9月20日に大坂で勝麟太郎(勝海舟)と会い、海路帰国とあります。まさに動乱の時代の台場建設だったのですね。工事の様子は、萩博物館の「菊ケ浜土塁築造築図屏風」で見られます。


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