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高濱虚子五句集を読む②

第二句集「五百五十句」は、昭和11年(1936)~昭和15年(1940)に発表された句をまとめた句集。昭和18年(1943)出版。序文に、「ホトトギス」五百五十号にあった記念に、編纂された句集と書かれています。また、前回も指摘しましたが、第一句集にあった「天の川」の句は、取り消すという註も記載されています。

感銘を受けた句を、以下に挙げます。

昭和十一年(1936)
 宝石の大塊のごと春の雲
 スコールの波窪まして進み来る
 朝顔の苗なだれ出し畚のふち
 命掛けて芋虫憎む女かな
 枯芭蕉棒もたしかけありにけり
昭和十二年(1937)
 歌留多とる皆美しく負けまじく
 熊蜂のうなり飛び去る棒のごと
 稲妻をふみて跣足の女かな
 静けさに耐へずして降る落葉かな
 鉄板を踏めば叫ぶや冬の溝
昭和十三年(1938)
 焚火かなし消えんとすれば育てられ
 校服の少女汗くさく活溌に
 箱庭の月日あり世の月日なし
 もの置けばそこに生れぬ秋の蔭
 凍蝶の眉高々とあはれなり
昭和十四年(1939)
 春水をたゝけばいたく窪むなり
 初蝶を夢の如くに見失ふ
 淋しさの故に清水に名をもつけ
 秋風やとある女の或る運命
 手毬唄かなしきことをうつくしく
昭和十五年(1940)
 大寒や見舞に行けば死んでをり
 又こゝに猫の恋路ときゝながし
 春眠の一ゑまひして美しき
 芋の葉のいや/\合点々々かな
 雲なきに時雨を落す空が好き

「五百五十句」青空文庫

前回の五百集同様に、かなり自由な句が並んでいると感じました。またその中には、これはどうなのという句もいくつかあり、どのような基準で句を選んでいたのか少し気になっています。虚子は、「花鳥諷詠」「客観写生」という立場だったと思うのですが、そういうテイストではない句もたくさんありました。

今回私が注目したのは、

箱庭の月日あり世の月日なし

の一句。「箱庭の」の「の」の斡旋が、主格なのか、それとも連体修飾節なのかで意味が変わってくる句になっていると感じました。つまり、

① 箱庭の / 月日あり世の月日なし
② 箱庭の月日あり / 世の月日なし

2通りの切れ方ができる句を、あえて出したのではないかと。①の切れ方は、箱庭の写生として、とても実感ある句なのですが、②の切れ方になると、「箱庭にある月日の流れというものが、世の中からなくなっている」というふうに読める。これは当時の時代背景をかなり反映していることになっているのではないだろうか。
昭和十二年(1937)に日中戦争が勃発し、日本は戦争状態へと突入していきます。また昭和十三年(1938)には国家総動員法が制定され、国民それぞれが戦争に参加していくという世の中に変化していく。虚子はそのことを暗にふれたかったのではないかなと。

その頃の虚子は、次のような句も残しています。

昭和十二年
 砲火そゝぐ南京城は炉の如し
 かゝる夜も将士の征衣霜深し
 寒紅梅馥郁として招魂社
(十二月九日 東京朝日新聞社より南京陥落の句を徴されて。)

昭和十三年
 並び陥つ広東武漢秋二つ
 悦びにおののく老の温め酒
(十月二十五日 東京朝日新聞より需めらるゝまゝに武漢陥落を祝す句のうち。)

「五百五十句」青空文庫

この頃の虚子の動向をみると、

1937年(昭和12年)、藝術院会員。1940年(昭和15年)、日本俳句作家協会(翌々年より日本文学報国会俳句部会)会長。 1941年(昭和16年)12月24日に大政翼賛会の肝いりで開催された文学者愛国大会では、宣戦の大詔を奉読した

wikipedia 「高濱虚子」より

とあり、このような状況から、日本政府よりの立場だった(そういう発言を求められるような状況だった)ことが想像されます。

上記の戦勝を詠んだ句は、今回の「五句集を読む」でも議論に上がった句なのですが、虚子の他の句にくらべると、季語の使い方が雑で、正直あまり上手くない。(秋二つの句はちょっと出来すぎてる感じはある。)
もしかしたら、あえて雑に読んでいる感じはあるのかもしれないと、少し感じました。俳句の素養がないものには、これくらいのものを詠んでおけばよい、みたいな気持ちもなんとなくありそうな気がしています。(逆に、俳句を嗜んでいる人からすれば、虚子がこういう句を創るんだ、とも思われたのかも。)

この状況を踏まえて、「箱庭の」の句を読むと、やはり②の解釈を含ませたかったのではないかなと。世間はもちろんのこと、虚子自身もその動乱に巻き込まれていった状況があったということは、想像に難くない。

このようなことを踏まえると、感銘を受けた句にはいれなかったのですが、

大寒の埃の如く人死ぬる
悴める手上げて人を打たんとす

も、裏にある意味があったのではないかと感じてしまいます。

この時代、それぞれの俳人が、それぞれの立場で、その世の中をどのように生きていくか、模索していたのかもしれません。(つづく)


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