高濱虚子五句集を読む②
第二句集「五百五十句」は、昭和11年(1936)~昭和15年(1940)に発表された句をまとめた句集。昭和18年(1943)出版。序文に、「ホトトギス」五百五十号にあった記念に、編纂された句集と書かれています。また、前回も指摘しましたが、第一句集にあった「天の川」の句は、取り消すという註も記載されています。
感銘を受けた句を、以下に挙げます。
前回の五百集同様に、かなり自由な句が並んでいると感じました。またその中には、これはどうなのという句もいくつかあり、どのような基準で句を選んでいたのか少し気になっています。虚子は、「花鳥諷詠」「客観写生」という立場だったと思うのですが、そういうテイストではない句もたくさんありました。
今回私が注目したのは、
の一句。「箱庭の」の「の」の斡旋が、主格なのか、それとも連体修飾節なのかで意味が変わってくる句になっていると感じました。つまり、
2通りの切れ方ができる句を、あえて出したのではないかと。①の切れ方は、箱庭の写生として、とても実感ある句なのですが、②の切れ方になると、「箱庭にある月日の流れというものが、世の中からなくなっている」というふうに読める。これは当時の時代背景をかなり反映していることになっているのではないだろうか。
昭和十二年(1937)に日中戦争が勃発し、日本は戦争状態へと突入していきます。また昭和十三年(1938)には国家総動員法が制定され、国民それぞれが戦争に参加していくという世の中に変化していく。虚子はそのことを暗にふれたかったのではないかなと。
その頃の虚子は、次のような句も残しています。
この頃の虚子の動向をみると、
とあり、このような状況から、日本政府よりの立場だった(そういう発言を求められるような状況だった)ことが想像されます。
上記の戦勝を詠んだ句は、今回の「五句集を読む」でも議論に上がった句なのですが、虚子の他の句にくらべると、季語の使い方が雑で、正直あまり上手くない。(秋二つの句はちょっと出来すぎてる感じはある。)
もしかしたら、あえて雑に読んでいる感じはあるのかもしれないと、少し感じました。俳句の素養がないものには、これくらいのものを詠んでおけばよい、みたいな気持ちもなんとなくありそうな気がしています。(逆に、俳句を嗜んでいる人からすれば、虚子がこういう句を創るんだ、とも思われたのかも。)
この状況を踏まえて、「箱庭の」の句を読むと、やはり②の解釈を含ませたかったのではないかなと。世間はもちろんのこと、虚子自身もその動乱に巻き込まれていった状況があったということは、想像に難くない。
このようなことを踏まえると、感銘を受けた句にはいれなかったのですが、
も、裏にある意味があったのではないかと感じてしまいます。
この時代、それぞれの俳人が、それぞれの立場で、その世の中をどのように生きていくか、模索していたのかもしれません。(つづく)
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