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人にはそれぞれ色がある。それでも色で分けたがる。

よくある話なのだけれど
ふと、ある考えが浮かんでくる。
大概はどうでもいい話。
けれど、時々、考え込んでしまうこともある。

わたしは黙々とお風呂掃除をしていた。
スポンジを替えてからどうもうまく掃除ができない。スポンジにうまく力が伝わっていないような、浴槽にスポンジがくっついていないような…。
ギュっと力を込めたそのときに、わたしの意識は別のベクトルを示してしまった。

自閉スペクトラム症なる名のお陰か、その特性の強い子たちをパステルだと称してみたり、診断がつかないので白黒はっきりしないグレーゾーンだからグレーっ子と言われたりなどなど
発達障害であることを別の言葉で表現することがある。
そしてそれが配慮であるとも考えられている。

この事がいいか悪いかではなく

単純にパステルさんからグレーになっていくグラデーションってなんか嫌。そもそも何でパステルなの?
ビビッドカラーだったりトロピカルでもよくない?
とあまのじゃく的とんがりモードのわたしが訴えてくる。

別にスピリチュアル的な話ではなく、
人と接していると色や景色がみえてくるときがある。
ああ、この人は淡い黄色。この人は鮮やかな緑。という具合に人にはそれぞれ色がある。
この色や景色は一定のものではなくその人の気持ちや状態によって変わる。
いや、すべてはわたしが感じてるだけなので、あくまでもわたしがその人から受けるイメージを表しているにすぎない。他の人が見れば色が違うかもしれない。

色なんてそんなものだ。

世界には様々な色が生まれては消えている。
この色は民族や文化によって表現される範囲が大きく違うらしい。
すべての人類が虹を7色に描くわけではない。
わたしには見えていない色もあるのだろう。さらに、見えているけれどその色を表す言葉を知らないこともある。

それなのに人は色分けをしたがる。
違うなら違うでいいじゃない。
本音を言えばそう思う。

図鑑を見ていて気がついた。
人は分類したがる。
ある枠におさめることで、
何かその特徴を際立たすことで
その事をわかった気になり
落ち着くのだ。
分類されてる側からしたらそんなことはどうでもいいことなのかもしれない。
あくまでも
人が名前をつけて
人が理解するためのもの。
人体のことではなく人を分類した図鑑があるようでないというのは
人が人だからだ。
例えば
ある考えをする人が一定数いるとする。
その人たちを〇〇目××科とか分けてしまったところで
わたしたちは人だ。
それは差別だ。偏見だ。と誰かが声をあげるだろう。

その反面、人は自分とは違うものを分けて、特徴を探して、こうゆうものだと理解することで生きてこられたのだろうとも思う。
人以外のことに関しては
その違いを違いとして受け入れている気がする。
なんならその特徴を自分達の生活のなかに持ち込んで便利にもしている。

それなのに人のことになるとまったく別だ。
少しの違いも許されなくなってしまう。
だからこそ
違っているのが当たり前なのにみんな平等を目指してしまう。

せっかくの色を混ぜて1色にしたがる。
赤の隣に緑があってその隣に黒があったって色にはかわりない。
無理して混ぜて濁った色は美しくはない。
それぞれがそれぞれの色でいた方がカラフルで面白い。

そう、1人ではカラフルにはならない。
他の周りの色があるからこそのカラフルなのだ。
単一な世界はきっと退屈だ。
目が回るくらいの色があって、
それが時々、どこかで混ざってみたりして、気づいたら新しい色が生まれている。
きっとそれくらいがちょうどいい。

人に色が見えると言っていること自体、わたしは色で人を分けてしまっているのだろう。
ある種の先入観に支配されているのかもしれない。

人はイメージの中で生きている。
自分の色だと思っても
きっと他からは違う色に見えてるのかもしれない。

いいとかわるいとか
そんな話をしたいのではない。

ただ、
いろんな色を持っていたいし
いろんな色と出会いたい。
せめて自分のまわりはカラフルにしてみたい。

浴槽についた泡を流しながら
そんなことを考えてみた。

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