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リズムと生命について

 少し前、ある優れた絵画作品を見て「リズムのある絵だな」と呟いた際、横にいた当の画家さんがふと言った「リズムのない絵や音楽なんてあるのかな?」と言う言葉を少し考えてみる。どうやら生命現象的な更新にはリズムが存在し、無機物的な反復にはリズムはない、と思い至る。

 "クラーゲス/リズムの本質" にも書かれている事だが、例えば熟練の指揮者が振るタクトと、初心者の振る合唱の指揮における違いを想像すると良いかもしれない。前者は拍という規定に則りながらも、研鑽と技術に裏打ちされた創造と記憶の積み重ねに自らの生命としてのエネルギーを上乗せして、まさに生き生きと演奏する。後者はそれらの積み重ねが稚拙なため、自らの生命を表出できず、ただ機械的な反復運動に陥る。絵で言えば、優れた画家の描く色彩、構成には先述の理由により画面に必然リズムが生じるわけだが、美術学生が先生(拍、規則的機械的反復概念)を気にして描くデッサンにリズムが生まれる事は稀だろう。逆に言えば、全く美術教育を受けていない子供の絵に躍動的なリズムが生まれる理由は、規則や規定、拍(無機物的機械的反復)を無視して自由にのびのびと描く事ができるためだろう。無論そこには秩序(拍)すら存在しないため、ある種の混沌が画面を支配する(何を持って絵画の成立とするかは無視)。

 また鳥の鳴き声や言語、海の波が生じる音響には、信じられない程躍動的なリズムが内包されている一方、人為的、或いは人間の生命に沿わない無機的に自動生成されたもの、例えばデジタル時計の秒針、工業機械の音、などは拍子は存在しても、上記の理由によりそこにリズムは存在しないと言えるだろう。それは最早同一音の反復でしかなく、直前に発せられた音を更新する生命現象は存在しない。ある意味ルイジルッソロなんかの未来派が意図的に絵画や音楽の上でそれ(非生命的、無機的な画面構成)を成しようとしていたことがその証左ではないだろうか。

 グルーヴ、という言葉も同義語に近いかもしれないが、これはあくまでも複数の音源からなる拍同士の関係性において生まれる概念じゃなかろうかと思う。つまり、AとBそれぞれに別々の(あるいは同じ)拍子を経る際に生まれる互いのリズムの混じり合い、あるいは微妙なズレの表出といったヘテロフォニックなものだろうか。言葉の文節と抑揚に生まれるものがリズムであるとしたら、グルーブには会話が相当する、みたいな。知らんけど。自分の中ではっきりしたことは、リズム概念には常に生命現象的躍動が伴うということ。

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