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すでに始まっている静かな闘いと、激しい後悔に学んだこと

 牛の角突きの取組は、事前の会議で決まる。

 「取組」と呼ばれる牛持ちや勢子、闘牛会のメンバーが集まり、場所の10日ほど前の夜に開かれる会議で決めていく。平日の夜にあんな山奥によく集合するよね、みたいな感じで山古志の牛舎の二階に集まる。必ず出席しなくてはいけないのではなく希望制。遠方の牛持ちの場合は、会長に出欠を一任したり、親しい人と相談の上出欠や希望を伝えておいたりする。私は山古志まで車で約1時間はかかるので、飛将が4歳のうちは師匠の庄八さんに希望を伝えておまかせしていた。

 庄八さんはよく「相手のあることだからね」という。つまり、自分があの牛と飛将を闘わせたいと思っても、相手があることだから、希望が通るかどうかはわからないし、相手の立場も思いやって考えなくてはいけないよ、ということで、すごく当たり前のようなことだが、とても大事なことなのだ。

 牛の角突きは勝負をつけない。なので厳密にいえば、だれも勝たないのだからだれも強くないし弱くもない。相撲のように取組はあっても番付はないことになる。なんだけれど、その取組内容によっておのずと番付のようなものは頭の中に描かれるし、それを材料に皆取組を決めるわけだし、取組表の順番は相撲と同じようになっており、後半戦が「大関・横綱級」の牛となる。このグレーさであったり曖昧さであったりが平和を保っていたり保たなかったりする田舎の微妙さな感じ。

 牛舎の二階の畳の上に円座を組む。次の角突きに出場させたい場合は、牛の名前の書いてある木の札を会長の前に出して、出場の意思を表明する。出された札をあれやこれやと動かし、ちょうどいい相手と組む。12~16組(単位は「芝」を用いるのが渋い)を作るのに2~3時間かかるのであり、その日のうちになんとか終わる。

 飛将が5歳になってからは積極的に参加することにした。仕事が終わってから往復2時間運転して山奥まで行き帰り翌日出勤、というのはなかなかにしんどい。夜中の山道は過酷だ。タヌキやハクビシン、フクロウにイタチにヘビなど、そんなのがいっぱい道に出てくるのはまだましで、見たこともないでかさのカエルがぼとぼといたり、何千匹かのアマガエルが道にびっしり敷き詰められていたり、羽アリが車の前面にびっちり張り付いていたり、もう本当にそういうところなのだ山古志は。当然帰宅は0時をまわる。いいのだそれでも。飛将のことだからいいのだ。でも本当は15分くらいで着く距離がいいとは何度も思った。でもいいのだ。そう思うほかない。

 ある角突きの日。その日の角突きを見て、すでに次の角突きどうしようかって思いを巡らす牛持ちたちなのだが、私はある牛持ちの方と「次の角突きはお互いの牛を突かせようじゃないか」と話し合った。庄八さんと三人で笑顔で決めた。そうやって相談の上約束を交わすこともある。お互いの希望が一致した取組なのだから、一番平和で一番闘志が燃え上がるといったところ。私は取組を欠席する相手の牛持ちの方に代わって札を出すことになった。

 取組の日。「みんな同じ牛持ちという立場なんだから、意見言っていいんだよ。」と庄八さんはいうが、急にシャイが出てなかなか言い出せない牛持ちおくま。若輩者が意見したからといっていやな感じの牛持ちなどひとりもいないのに、持ち前のシャイが出る。でも言わなくちゃ・・・となっていると、しびれを切らした庄八さんが「〇〇と飛将、だね。もう牛持ち同士話してある。」といってくれた。ばかばか、おくまのばか。ちゃんと代わりに言わなくてはいけない場面であったというのに。でも師匠のおかげで札が合い、ほっとしていた。安心あんしん。

 しばらくして、遅れてやってきた牛持ちに会長が希望を聞いた。その牛持ちは「〇〇。牛持ちと話はついてる」といった。会長はすぐに〇〇の札を飛将から離し、特段意見をすり合わせることなくその牛持ちの牛の札と合わせた。

 呆然とはしたものの、事態を納得しなければという気持ちが働いたのか、代々古参の牛持ち家だしな、ここは私が譲った方がいいのだろうな、などとぐるぐるしていたら、庄八さんが「くまちゃん、〇〇は飛将とじゃなくなっちゃったね・・・」とちいさく言ってきた。私は引きつった笑顔で「はい・・・」としか言えなかったが、幸い別のいい牛と組んでもらうことができたのでよかった。このときに組んでもらった牛でも全然問題なかったし、別の牛を名指しまでした後なのに飛将の相手をしてもらえて逆にありがたかった。

 角突き当日の朝。相談していた牛持ちの方がやってきて「取組、だめだったね・・・」とおっしゃった。やっぱりあのときにした約束はまちがいではなかったんだ。私が少し勘違いしていたのかとも思っていたから、あれ以上主張できなかったことを謝罪した。「いやいや、そういうもんだからいいんだよ!」と気にしていないふうだったが、やっぱりちゃんと言わなきゃだめだったなあ・・・などと反省をした。

 その日の角突きで、飛将と取り組むことができなかった牛は大きなケガを負ってしまった。

 たらればというのはないのだが、私がきちんと取組で主張していれば、そして飛将と取り組めていたら。私がちゃんと私と相手の牛持ちの方の思いを主張しなくてはいけなかった。私は託されていたのだから、自分の思いだけではなかったんだ。私には責任があった。それをきちんと果たさなかったのは私が悪い。その結果がこうだ。

 しかも、私に小さな勇気がなかったばかりに、代わりに発言してくれた庄八さんにまで恥をかかせてしまう格好になった。私も庄八さんも嘘をついてはいないが結果翻ってしまい、それについても全く意見を言えずににやにやと場を丸く収める方向に舵を切ってしまったこの事なかれ主義。別に村で暮らしているわけでもないのだからいまさら嫌われようが好かれまいが言うべきだった。

 角突きが終わってから牛持ちの方に謝りに行った。頭を下げる私に、いやいやそんなことはない、といってくださったやさしい牛持ちの方だった。ただひたすらにひどく後悔した。牛持ちになって後にも先にもこれほど後悔したことはない。私は甘かった。牛のために後悔しないようにできることを何でもする。これは飛将のためだけではない。相手になってくれる牛や牛持ちの方に対してもそれは言えるのだ。二度とこんな後悔はしたくない。さまざまなことを学び、反省とともに心に刻むことにした。

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